Culture
2020.06.15

戦国初の女大名・洞松院とは?細川勝元のカリスマ性を受け継ぐ女性の人生

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足利義政の正室として権力を持った日野富子(ひの とみこ)に代表されるように、室町時代は政治的な権限を持つ女性が現われた時代でした。戦国初の女大名が登場したのもこの頃。その女大名こそ、応仁の乱を引き起こした細川勝元の娘、洞松院(とうしょういん)です。細川政元の命で赤松家に嫁ぎ、事実上の当主として手腕を振るった彼女の人生を紐解いていきましょう。

洞松院はブサイクすぎて出家させられていた!

室町幕府管領、細川勝元の娘として生まれた洞松院。その容姿があまりに不器量だったため、父・勝元が建立した龍安寺(りょうあんじ)の尼僧として静かな人生を送っていました。

石庭で有名な京都・龍安寺

洞松院の生まれた年は1460~1463年頃とはっきりせず、細川政元の異母姉とも妹とも言われています。

還俗して赤松家と政略結婚

「ブサイクだから」という理由で出家させられていた洞松院。しかし、「明応の政変」と呼ばれるクーデターを企んでいた政元は、洞松院を還俗(出家していた身をもとの生活に戻すこと)させ、播磨守護・赤松政則(あかまつ まさのり)の後妻に据えました。

洞松院は寺から召しだされたことから「めし」という名で呼ばれたり、不器量さをからかって「鬼瓦」と揶揄されたりもしたそうです。しかし2人の結婚生活は幸福なものだったらしく、「小めし」という女の子にも恵まれました。

鬼瓦とは、魔よけ・厄除け・装飾性のために用いられる、鬼の顔のかたちをした瓦の総称。

輿入れのわずか2日後に起こった「明応の政変」

2人の結婚は、当時力を持っていた赤松家を政元方に繋ぎとめるための強引な政略結婚です。「明応の政変」が起こったのは、洞松院輿入れ後のわずか2日後。ここまであからさまな政略結婚は当時でも珍しいものでした。

この「明応の政変」で10代将軍・足利義材(あしかが よしき、のちの義植〈よしたね〉)が勝元によって追放、足利義澄(あしかが よしずみ)が11代将軍として擁立されました。近年は、この政変を戦国時代の始まりであるとする説もみられます。

夫の死去後、女大名として手腕を振るう

結婚からわずか3年後、夫・政則が病死してしまいます。2人の間には幼い女の子しかいなかったため、一族から少年・義村(よしむら)を婿に迎えました。当初は家臣の浦上則宗(うらがみ のりむね)が幼い義村の後見として赤松家を牛耳っていましたが、則宗の死後、洞松院が義母として後見に立ちます。

父譲りのカリスマ性や、名門の出としての教養もあったことから、洞松院はその実力を発揮し始めるのです。

自ら敵将と和睦交渉し、赤松家を救う

細川政元が家臣に暗殺されると、3人の養子の間で後継争い(船岡山の戦い)が勃発します。赤松氏は細川澄元を支援するものの敗北。ここで洞松院は自ら敵陣へ向かって和睦交渉し、赤松家を救ったのです。

ちなみに、細川政元は生粋の男色家で、一切女性を寄せ付けなかったことから実子がいませんでした。そこで3人もの養子を迎えたことで、このような争いが勃発したのです。

『細川勝元 河原崎権十郎』著者:豊国 国立国会図書館デジタルコレクションより

義村を廃し、女大名として君臨し続ける洞松院

婿として迎えられた義村は、成長するにつれ、実質的に権力を握っている洞松院と対立するようになりました。洞松院は家臣と組んで義村の排除を企てます。それに対し義村は2度挙兵したもののいずれも敗戦し、家臣によって暗殺されます。その後、洞松院は事実上の赤松家当主として君臨し続けました。しかし洞松院亡きあとの赤松家は衰えていき、「関ヶ原の戦い」で石田三成側についたことから、ついに赤松家は断絶してしまいました。

『関ケ原合戦絵巻』著者:藤原広実他 国立国会図書館デジタルコレクションより

勝元の策略がなければ、尼僧として落ち着いた生活を送っていたかもしれない洞松院。政略結婚で自らの人生も、そして戦国の世も変えていった洞松院は、どちらの人生を望んでいたのでしょうか。いくら女性の権限が強かった室町時代とはいえ、自分の人生を自分で選ぶことはできなかったことが、洞松院のエピソードから窺い知れます。

書いた人

大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。