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2019.09.19

真っ直ぐな性格で信頼された石田三成。子は全員生きのびて大切にされていたって?

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関ヶ原合戦で、徳川家康に敗れたことでも有名な石田三成。当然、一族も滅んだと思われがちですが、意外にもその子どもたちは生きながらえ、大名になった子孫もいるのです。子孫の意外なその後と、彼らを守った津軽家について紹介します。

石田三成の子孫とは

3男3女、すべて生きのびた子どもたち

豊臣家の桐紋

石田三成は正室との間に、3男3女をなしたとされます。3人の息子たちは、関ヶ原合戦後に石田一族が籠城(ろうじょう)した佐和山(さわやま)城の戦いで、運命が変転しました。ただし、いずれも生年が不明で、正確な年齢はわかりません。長男重家(しげいえ)が貞享3年(1686)に103歳で没したという説を信じれば、関ヶ原合戦時に18歳。弟たちはそれよりも年下だったことになります。一方、3人の娘のうち、2人はすでに嫁いでいました。

長男重家

関ヶ原合戦の前年(慶長4年〈1599〉)、三成が七将襲撃事件の騒ぎの責任をとって引退後、父に代わって大坂城に出仕、豊臣秀頼(ひでより)に仕えました。慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦時には大坂城にあり、佐和山城(滋賀県彦根市)落城に際して、祖父正継(まさつぐ)より一族の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために生き延びるよう命じられ、祖父が建立(こんりゅう)した京都の妙心寺寿聖院(じゅしょういん)で仏門に入りました。重家に対する咎(とが)めはなく、103歳の天寿をまっとうしたといわれます。

次男重成(しげなり)

豊臣秀頼の小姓(こしょう)を務め、兄と同様、関ヶ原合戦時には大坂城にいましたが、津軽為信(つがるためのぶ)の嫡男(ちゃくなん)・信建(のぶたけ)に匿(かくま)われ、津軽(現、青森県)へと落ち延びます。その後、名を杉山源吾(すぎやまげんご)と改め、後に弘前(ひろさき)藩の家老となります。子孫も藩の要職を務めました。

長女(1579~1647)

三成の家臣の子、山田勝重(やまだかつしげ)に嫁ぎます。勝重は徳川家康の側室・茶阿局(ちゃあのつぼね)の甥で、石田家没落後、勝重は茶阿局が生んだ家康6男の松平忠輝(まつだいらただてる)に仕えますが、ほどなく主家はお取り潰しに。その後は三成3女辰姫(たつひめ)の縁で、津軽家の扶持(ふち)を受け、子孫は弘前藩士となりました。

次女

蒲生家家臣の岡半兵衛重政(おかはんべえしげまさ)に嫁ぎます。孫娘は徳川3代将軍家光(いえみつ)の最初の側室・お振(ふり)の方となり、お振が生んだ千代姫(ちよひめ)は、御三家の尾張(おわり)徳川家2代藩主光友(みつとも)の正室となりました。

佐和山城跡

三男佐吉(さきち)

関ヶ原合戦時、三成は居城の佐和山城の留守を、兄の正澄(まさずみ)と父の正継(まさつぐ)に託し、三男佐吉も一緒でした。関ヶ原敗北後、佐和山城は東軍の攻撃を受けます。石田軍は善戦するものの、多勢に無勢。正澄は自分の命と引き換えに城兵の命を救うよう求め、正澄の臣・津田清幽(つだきよふか)が交渉して、家康の了解を得ました。津田は家康の元家臣です。ところが開城準備中に突然、約束を破って田中吉政(たなかよしまさ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)軍が城内に乱入、正継は「内府(ないふ、家康のこと)も念を入れることよ」とひと言もらし、正澄らとともに切腹しました。これに怒った津田は、家康に対し、生き残った三成3男佐吉の助命を承知させます。佐吉は高野山で出家し、僧として生きました。

三女辰姫(1592~1623)

豊臣秀吉の死後、慶長3年(1598)頃に北政所(きたのまんどころ、秀吉の正室おね)の養女となります。次兄重成と同様、津軽家に赴き、のちに2代藩主信枚(のぶひら)の室になりました。詳細は後述します。

以上、三成の3男3女はいずれも父親の処刑に連座することなく、生きながらえました。出家した者にまでは敵方も危害を加えなかったということでしょうが、特筆すべきは津軽家で、三成の子どもたちを、危険を承知で匿っています。次にその経緯を見てみましょう。

なぜ津軽家は石田三成の子どもたちを庇護したのか

佐和山城跡の石田三成像

2017年に公開された映画『関ヶ原』(監督:原田眞人、主演:岡田准一〈石田三成〉)に、こんなシーンがありました。女の子を傍(かたわ)らに置いた北政所(木村緑子)が「先々を考えると三成は負けた方がええ。だけど、三成の血は残した方がええ」と語るのです。この女の子こそ、北政所が養女にした三成の三女辰姫でした。

余談ですが、映画では(原作の司馬遼太郎『関ヶ原』では)、北政所は東軍寄りのスタンスで描かれますが、三成の娘を養女としている点からも、むしろ西軍寄りだったのではないかとする見方が最近では強まっています。

さて、三成の次男重成と三女辰姫は、関ヶ原合戦後、津軽為信のもとに迎えられました。西軍の中心人物の子どもを匿うことは、それだけでも「徳川家康に逆心を抱いている」と疑いの目を向けられかねない危険な行為だったはずです。なぜ為信は、そんな危ない橋を渡ったのでしょうか。そこには三成への感謝があったようなのです。

津軽為信像

津軽為信は陸奥(むつ)の南部(なんぶ)氏の配下でしたが、津軽地方で独立を図り、豊臣秀吉の小田原征伐の折に、独立大名として秀吉に恭順(きょうじゅん)します。

ところが南部信直(なんぶのぶなお)はそれを認めず、取次役の前田利家(まえだとしいえ)に、「津軽に反逆の徒がいて、殿下(秀吉)の惣無事令(そうぶじれい、一切の私闘を禁じた法令)に違反している」と伝えました。もちろん為信のことを指しており、秀吉が違反と判断すれば討伐されかねません。津軽為信は絶体絶命の危機に陥ったのです。

この時、為信のためにとりなしたのが、三成であったとされます。また為信自身も秀吉をはじめ要人に鷹を贈るなど心証をやわらげる努力を傾け、結果、秀吉から本領を安堵され、晴れて正式に独立大名として認められることになりました。

その後、為信の取次役(諸大名と豊臣政権のパイプ役で、大名にとっては命綱的存在)は前田利家や浅野長政(あさのながまさ)が担当しますが、中央の武将らは地方を軽んじるところがあったようで、為信は両者と疎遠になっていきます。津軽家にとっては危険な状態でしたが、手をさしのべたのが、またも三成でした。

為信の長男信建が元服する際には、三成が烏帽子親(えぼしおや)を務め、信建は豊臣秀頼の小姓衆として、三成の次男重成とともに大坂城に詰めることになります。為信は三成からさまざまな情報やアドバイスを受けたはずで、津軽家はそれを深く恩義に感じました。

実際、三成が取次役を務めた上杉家、佐竹家、島津家などとも三成は良好な関係を築いていました。三成にすれば職務に忠実であっただけなのかもしれませんが、地方の武将を軽んじるようなところがなかったのでしょう。三成とは、そんな人物でした。津軽為信や息子の信建は、それまでの三成の恩義に応えるべく、危険を承知で子どもたちを庇護することを決断するのです。

津軽家3代藩主となった石田三成の孫

津軽氏の居城弘前城

三成の次男重成とともに津軽へと落ち延びた辰姫ですが、異説もあり、北政所の養女として正式に津軽家に輿入(こしい)れしたともいいます。

慶長15年(1610)、辰姫は津軽家2代当主の信枚(のぶひら)の正室となりました。その3年前の慶長12年(1607)、津軽為信と長男信建が相次いで他界したため、3男の信枚が当主となっていたのです。三成の娘を正室に迎えるところを見ても、津軽家が三成に敬意を払い、武士として名誉の血筋と重んじていたことが窺えるでしょう。

結婚時、信枚は25歳、辰姫は19歳でした。夫婦仲はむつまじかったようですが、3年後の慶長18年(1613)、思わぬことが起こります。幕府は本州最北端の津軽を、外国からの防衛上、重視し、徳川家と津軽家の絆を強めるためとして、徳川家康の養女・満天姫(まてひめ)を信枚の正室にあてがったのでした。

津軽家としては名誉な話である一方、信枚にすれば幕府にはばかって満天姫を正室に迎えざるを得ず、やむなく辰姫を側室に降格します。辰姫には衝撃的な出来事だったでしょうが、北政所の養女とはいえ、関ヶ原の敗者の娘は身を引くしかありませんでした。

しかし信枚は辰姫を大切にし、満天姫と同じ城内に置かず、関ヶ原の恩賞として得た上野国(こうずけのくに、現、群馬県)大舘(おおたち)の地に移し、参勤交代の折には必ず寄って、過ごすようになります。辰姫は大舘御前と呼ばれました。

そして元和5年(1619)、辰姫は長男平蔵(へいぞう)を出産。その5年後、辰姫は32歳の若さで没しました。一方、正室の満天姫は信枚との間に子が生まれず、やむなく平蔵を引き取って育てます。やがて元服した平蔵は、信義(のぶよし)と名乗り、父・信枚の没後、弘前藩3代藩主となりました。石田三成の孫が、4万7,000石の大名となったのです。

以後も弘前藩津軽家においては、三成三女辰姫の息子・信義の子孫たちと、三成次男重成の杉山家の子孫たちにおいて、連綿と三成の血が受け継がれることになります。三成の血が大切に継承された事実だけを見ても、江戸時代に作られた佞臣像がいかに歪(ゆが)められたものであったかが、わかるのではないかと考えます。

長所と短所のはっきりとした、信頼するに足る人物

関ヶ原の三成陣所にひるがえる大一大万大吉の旗

さて、いかがでしたでしょうか。徳川家康の孫である水戸黄門こと徳川光圀(みつくに)は、三成について次のような言葉を残しています。

「石田治部少輔(じぶのしょう)三成は、にくからざるもの也。人それぞれその主の為にすと云(い)ふ義にて、心を立て事を行ふもの、かたきなりとてにくむべからず。君臣ともに良く心得べきことなり」

意訳すると、「石田治部少輔三成は、憎いとは思わない。人それぞれが主君のために尽くす義に拠って、心を奮い立たせ関ヶ原の戦いに臨んだ石田は、敵とはいえ憎むべき者ではない。昨今の武家の主従も、よくよくわきまえるべきことである」といったところでしょうか。光圀は、三成が豊臣家を守るために戦おうとする義の心を賞賛しました。

また、関ヶ原合戦後に佐和山城を落とした東軍諸将は、城があまりに質素であることに驚いたといいます。秀吉の側近くにいた三成であれば、さぞ私腹を肥やしたであろうと想像していたようですが、三成は私欲のために公私混同するような振る舞いを嫌ったのでしょう。

真っ直ぐな性格で、曲がったことが嫌い。職務に忠実で、秀吉の晩年には「汚れ役」を引き受けざるを得ないことも多かったでしょう。時に奉行として言いたくないことも言わなくてはならず、曖昧なことを嫌う性格なので歯に衣着せず言ってしまい、よけい嫌われてしまう。しかしすべては、「豊臣政権のために」という思いが基準になっていたと感じます。

そして困っている人や、不当な扱いを受けている人には、手をさしのべる人柄でした。それも曲がったことを嫌う正義感の発露だったのかもしれませんが、津軽為信のように、そうした三成に助けられた人間も多かったはずです。

断じて佞臣ではないけれども、賞賛のみが寄せられるというわけでもない。長所と短所がはっきりとしていて、いささか融通がきかないが、信頼するに足る人物。私の三成のイメージはそんな感じなのですが、皆さんはいかがでしょうか。

 

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。