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2020.07.15

黒田官兵衛が息子に激怒した理由とは?活躍しても𠮟られた黒田長政の関ヶ原の戦い逸話

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怒られた事実は、なぜかいつまでも記憶に残る。

でも、全部が全部というワケではない。体感的なものだから、何とも言えないのだが。なんとなく、理不尽な理由で怒られた場合には、ことさら長期間にわたって記憶される気がする。

なかでも、予想に反して怒られる、そんな時ほど惨めなものはない。

だって、認められたい、褒めてもらいたい。誰しも、そんな承認欲求に従うからこそ、必要以上の力を出すワケで。そうして、自分なりには結果が出たと。ようやく褒められると思って報告すれば、まさかの逆鱗に触れる。

そんな落差の激しい状況では、特に理不尽さを感じるもの。期待を裏切られた無念さが、長く記憶に留め置くのかもしれない。

今回ご紹介するのも、そんな経験をされた不運な方。
黒田孝高(よしたか)、通称「官兵衛(かんべえ)」の息子である、黒田長政(ながまさ)である。

もちろん、怒ったのは、長政のオヤジ。黒田官兵衛だ。
息子、長政の頑張りは、じつに、アンビリバボーな結末に。この同情も禁じ得ない惨劇を、是非ともご紹介しよう。

※冒頭の画像は、金子堅太郎著『黒田如水伝』より抜粋したものです

「関ヶ原の戦い」での立ち位置の違い

「関ヶ原の戦い」ほど、各々の立ち位置が複雑に交錯した戦いもない。端的にいえば、豊臣秀吉死後の政権抗争となるワケなのだが。すっきりと、徳川方と豊臣方の2つにキレイに分かれた戦いであったならば、これほどまで、後世で注目されることもなかったであろう。

東軍は、もちろん徳川家康を筆頭に、次の天下人は家康だと踏んだ戦国武将がズラリ。じつは、この中に、豊臣恩顧の武将らが名を連ねていた。福島正則(まさのり)、加藤嘉明(よしあき)、浅野幸長ら。そして、今回オヤジからこっぴどく叱られる黒田長政である。

彼らはどちらかというと、豊臣政権の存続を願うよりも、西軍の「石田三成」憎しという感情の方が強かったようである。秀吉政権下で「武功派」と呼ばれた彼らは、危険を顧みず、先陣を切って戦い武功を挙げる。だからこそ、事務処理や行政的な業務を主とした「吏僚派」が、命も賭けずに秀吉から取り立てられたのが我慢ならなかった。

加えて、朝鮮出兵での考え方も相容れず。なんなら、加藤清正や黒田長政は三成の報告で自身の立場を危うくした。このような経緯もあり、豊臣恩顧の戦国武将らは、結果的に一枚岩となれず、徳川家康に足元を掬われた格好となる。

関ヶ原古戦場(撮影:大村健太)

さて、それだけならまだしも。
「関ヶ原の戦い」のポイントは、西軍からの寝返りが半端なかったコト。蓋を開ければ、その寝返り方もじつに様々。これまで共に戦ってきた軍に、突如反転して襲撃する方法もあれば、不作為を貫く場合も。つまり、布陣したものの戦いに参加せず、動かないという方法である。

そして、この東軍への寝返り作戦キャンペーンを積極的に展開したのが、黒田長政。西軍の戦国武将を東軍へと寝返りさせるため、水面下で交渉を開始。日本史上、最大の「裏切り」として、強烈なインパクトを与えた小早川秀秋。彼の寝返りの陰には、黒田長政の尽力が。

こうして、慶長5(1600)年9月15日、建前上の布陣図とは全く別の、カオスな「関ヶ原の戦い」がついに始まる。両軍共に、そこまでの兵力差はなく、当初の布陣図だけでいえば西軍の方が有利とも。なんなら、実際に午前中の戦況では、西軍が押していたほどである。

だが、小早川秀秋軍の西軍への急襲により、これまで優勢だった西軍は一気に総崩れ。

まさか。
終わってみれば。天下分け目の戦いといわれた「関ヶ原の戦い」は、1日で決着。
予想もしない展開となったのである。

家康が握った手は左手か、右手か

いったん、話を黒田家に戻そう。

黒田孝高(よしたか、通称は官兵衛)といえば、天才軍師の名を欲しいままにした人物である。豊臣秀吉を天下人にしたのも、黒田孝高の働きがあってこそ。人望も厚く、忠義に溢れ、なにより知略に優れていた。

だったら、息子の長政ではなく、「関ヶ原の戦い」では、オヤジの黒田孝高もさぞかし奮闘しただろうかと思いきや。じつは、既にこの頃には、孝高は家督を長政に譲り、一線から退いていたのである。

「如水肖像」黒田伯爵家所蔵(金子堅太郎著『黒田如水伝』より抜粋)出典:国立国会図書館デジタルコレクション

なんで?
ズバリ、秀吉から冷遇されたからである。

織田信長の死後、中国大返しを成功させた豊臣秀吉。天下人へと一歩近づいた陰には、黒田孝高の奇策が。その後も、四国征伐、九州征伐、小田原攻めと多くの戦いに参戦したが、孝高に与えられたのは豊前(福岡県東部、大分県北部)の12万石のみ。功労者でありながら、その石高は、決して多いものではなかった。

この理由は諸説ある。あまりの策士ぶりに、秀吉がその才知を恐れてあえて石高を低く抑えたとも。また、キリシタンだった孝高が棄教せずに秀吉と対立したとも。どちらにせよ、天正17(1589)年、孝高は若くして嫡男の長政に家督を譲る。御年44歳。

ただ、継続して秀吉の軍師として側に仕え、のちの朝鮮出兵にも参戦している。ちなみに、孝高は、この朝鮮出兵での失態もあり、出家して「如水(じょすい)」と名乗ることに。

さて、秀吉の死後はというと。
「関ヶ原の戦い」では、息子の黒田長政が東軍の徳川方に与し、5,400人の兵を率いて参戦。東軍への寝返り工作はもちろん、実際の戦いでも武功を挙げる。石田軍の側面に回り込んで、島左近(しまさこん)を狙撃するなど、勝利に大いに貢献した。のちに、家康から52万石も与えられるほどの活躍ぶりだったのである。

黒田長政/関ケ原笹尾山交流館

それでは、出家していた黒田如水(孝高)は何をしていたのか。関ヶ原から遠い地で、息子を応援でもしていたのかというと。

いやいや。俄然、出家してもお構いなし。黒田如水(孝高)は、関ヶ原ではなく、九州で息子に負けじと、戦っていたのである。なんと、彼は九州版「関ヶ原の戦い」の中心人物だったのだ。

じつは、九州でも呼応するように戦いが勃発。お家再興をかけて、毛利輝元の支援を受けた大友義統(よしむね)が西軍として豊後(大分県)に侵攻。一方、如水(孝高)は、集めた浪人らを率いて対峙し、石垣原(大分県別府市)で撃破。そのまま加藤清正や鍋島直茂らと共に、西軍に与した武将らの居城を攻め、島津氏討伐へと動き出す。

もう、いっそのこと、九州を平定する勢いである。
じつは、黒田如水(孝高)は、一か八かの賭けに出たといわれている。天下統一の最後の機会としての大きな賭け。つまり、徳川家康が「関ヶ原の戦い」でかかりっきりになっているところで、如水(孝高)は九州を平定。その後、中国、畿内へと攻め上がる計画。そうして、結果的に「関ヶ原の戦い」の勝者と、「真の天下分け目の戦い」を起こすというシナリオだ。

しかし。
如水(孝高)からすれば、信じられないことが。
「偽天下分け目の戦い」である「関ヶ原の戦い」が1日で終息。本来なら早くても50日ほどはかかると見込んでいたが、何度もいうが、たった1日で決着。最後の大勝負の機会は、残念ながら崩れ去ったのである。

それも、よくよくワケを聞けば。
自分の息子が、「関ヶ原の戦い」の功労者というではないか。

『古郷物語』には、如水(孝高)のあけすけな言葉が記されている。

「ワシの息子は馬鹿か。天下分け目の戦いとは、急ぐものではない。急いで家康などに勝たせて、なんの良いことがあるのか」
(丸茂潤吉著『戦国武将の大誤解』より一部抜粋)

要約すれば、自分の天下取りのチャンスを、息子が完全に潰したのである。そんな腹積もりであったから、喜び勇んで凱旋した黒田長政への態度は、容易に想像できる。「どんだけ知恵が浅いのか」と恫喝してもし足りぬ。そんな感じだろうか。

『黒田如水伝』には、その時の様子が記されている。

「家康戦場より、長政に親書を贈りて、其の偉勲を賞し、子々孫々に至るまで、特別の恩典を輿ふべしと誓ひたり、其の後長政中津に凱旋して、如水(黒田孝高のこと)に見え、得意満面父に語って曰く、関ヶ原に於て、不肖長政親ら陣頭に立て奮戦し、三成を始め大坂方の軍勢を撃破して、関東方の勝利に歸(かえ)せしむるや、内府(家康のこと)の感激浅からず、吾が手を把りて、三度押し戴(いただ)かれたりと」
(金子堅太郎著『黒田如水伝』より一部抜粋)

自分の手柄を自慢したい息子。
あの内府様(徳川家康のこと)が、と得意満面な様子。もう、完全に分かりやすい長政である。一方で、意気揚々と話しているバカ息子に天下取りのチャンスを潰されたオヤジ。もはや地獄である。

徳川家康が直々に手を取って。それも3度も。そうして、最大限の感謝の意を表してくれた。
父はなんて言うだろう。

長政は、そんなことを思っていたのだろう。
要は。このときの黒田長政の頭の中は、完全にお花畑だったのである。

これに対し、オヤジの黒田如水(孝高)は何と言ったのか。

「然るに如水は、さも冷やかに之を聞き流しつゝ、問うて曰く、家康が戴きたる手は、左の手か、叉は右の手かと、長政答へて、右の手なりと謂ふや、如水重ねて問うて曰く、左の手は、何事を爲(な)したりしかと、長政默然として答へざりければ、如水も亦敢て再び問ひ返さゞりしと云ふ」
(同上より一部抜粋)

黒田如水(孝高)の質問は1つだけ。
家康はどちらの手を握ったのか、と。

意味不明な長政。握ってくれた手がどちらかなんて、何の関係があるのか。理解できぬまま、長政は右の手だと答える。そんな息子に、再度、如水(孝高)は問う。

「左の手は何をしていたのか」

超訳すれば、なぜ、空いた左手で家康を亡きものにしなかったのかと。

のちに創作した疑いもある。ただ、九州平定後に攻め上がることも視野に入れた如水(孝高)の書状が残っており、あながち全てが作り事ともいえない。さすが、天才軍師。確かに、それほどの才知があるのなら。きっとこれまでにも、自ら天下を取りにいくことを考えた時期もあっただろう。そして、ようやく最後の大勝負のチャンスが回ってきたのである。しかし、それを。そんな僅かな可能性を全力で潰しにいった息子。

一方で、長政の気持ちも考えれば、複雑な心境である。息子からすれば、立派過ぎるオヤジを持つのは一苦労だっただろう。そんな、これまでの輝かしいオヤジの功績と匹敵する今回の武功。この手柄は、きっと褒めてもらえると。そう、期待していたに違いない。

そう考えれば、如水(孝高)は、戦国武将としては超一流だが、父親としては疑問が残るところ。息子の機微にあえて触れもしない非情ぶり。だからこそ、厳しい戦乱の世でも生き残ることができたといわれれば、それまでなのだが。

それにしても、この落差。
あまりにも切ない結末だといえる。

最後に。
『黒田如水伝』には、今回の如水(孝高)の働きぶりについての、家康の感想が書かれている。

「家康唖って曰く、如水が働は、底心の知れぬ事なれば、長政にのみ恩賞してよきぞと、恩賞の儀は、竟に其の儘、沙汰止みとなり」
(金子堅太郎著『黒田如水伝』より一部抜粋)

さすが。家康は如水(孝高)の働きを「底心が知れない」と評価。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。歴代の天下人に仕えながら、有り余る才知によって、誰からも全幅の信頼を置かれることはなかった黒田如水(孝高)。

そういう意味では、彼もまた、褒められることを知らない人生だったのかもしれない。

参考文献
『戦国合戦地図集』 佐藤香澄編 学習研究社 2008年9月
『手紙から読み解く戦国武将意外な真実』 吉本健二 学習研究社2006年12月
『戦国武将の大誤解』 丸茂潤吉著 彩図社 2016年9月
『名将言行録』 岡谷繁実著  講談社 2019年8月