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2020.09.10

決着は埼玉で!足利尊氏が圧勝した歴史的な戦い「武蔵野合戦」全貌に迫る

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何もないと言われがちな埼玉に、たびたび合戦の舞台となった場所がある。某映画で江戸川を挟んで行われた「埼玉県民vs千葉県民出身者対決」の話ではない。

鎌倉時代、幕府が鎌倉と各地を結ぶために整備した、鎌倉街道。その主要幹線のひとつ、上道(かみつみち)は、武蔵国のほぼ中央部を南北に縦断するため「武蔵道(むさしみち)」と呼ばれ、政治的、軍事的に重要な役割を担っていた。

武蔵道に連なる埼玉県の「笛吹峠」は、足利尊氏ら北朝方と、新田義貞ら南朝方の因縁の決着がついた地であることを知っているだろうか。この歴史的な戦いについて詳しくご紹介しよう。

埼玉で決着がついた「武蔵野合戦」とは

小手指原(所沢市)、女影原・高麗原(日高市)、苦林野(毛呂山町)、笛吹峠(鳩山町・嵐山町)、須賀谷原(菅谷館跡:嵐山町)、高見原(小川町)ーー全て埼玉県内の武蔵道沿道に連なる、合戦の舞台となった古戦場跡である(下記地図参照)。そのひとつ、比企郡鳩山町と、同じく嵐山町の境界にある「笛吹峠」。この峠は南北朝時代、足利尊氏ら北朝方と、新田義貞ら南朝方の間で起こった、武蔵野合戦の舞台だった。そして、混沌を極めていた新田氏と足利氏の「因縁の決着」がついた場所でもある。

現在の地図上ルート

鎌倉倒幕で活躍した新田氏と足利氏

新田氏、足利氏は両者とも源氏の名門「清和源氏」の生まれで、鎌倉倒幕に貢献した同胞だった。

鎌倉幕府の有力な御家人だった尊氏(当時は高氏)。しかし父を亡くして服喪中でも、自分が病に倒れていても構わず出陣命令を下してくる、北条政権の独裁的なやり方に、少なからず反感を抱いていた。尊氏は結局、幕府の後醍醐天皇討伐命令に従う振りをして天皇側に寝返り、元弘3(1333)年5月、幕府の牙城、六波羅探題を攻め落とす。

時を同じくして、上野国(群馬県)の新田義貞も倒幕の兵を挙げていた。義貞も病気を理由に領国へ戻っていたのに、幕府から戦費調達を促されることに激怒するなど、尊氏同様、不満を募らせていたのだ。

旗揚げした義貞は群馬から鎌倉を目指して南下。武蔵道の菅谷(嵐山町)や笛吹峠、小手指原を経て、分倍河原(東京都府中市)や関戸(同多摩市)などで迎え撃つ幕府軍を次々と倒し、稲村ヶ崎を突破。148年続いた鎌倉幕府は幕を閉じた。

後醍醐天皇への反逆ー尊氏は討伐の対象に

倒幕後、政権を握った後醍醐天皇による「建武の新政」。しかし「公家に厚く、武士に薄い恩賞」で政治を混乱させ、多くの武士だけでなく、公家の一部からも批判を浴びる。

特に倒幕における尊氏の功績を認めながらも、朝廷の役職を与えなかったため、不満を募らせた尊氏は反旗を翻す。

建武2(1335)年、北条高時の遺児、時行が鎌倉に攻め込んでくる。信濃国に匿われていた時行は、義貞の「鎌倉攻め」と同じルート、つまり武蔵道を使って信濃から南下してきている。

尊氏は自らを征夷大将軍として鎌倉に向かわせてほしいと志願するが、後醍醐天皇がこの要求をはねたため、無断で鎌倉へ出陣。鎌倉を制圧すると、尊氏は功績のあった武士たちに京の許しを得ずに恩賞を与える。その中には義貞の領地を勝手に分け与えた例もあり、京に戻れという天皇の命令も無視。反逆者とみなされた尊氏は、ついに討伐の対象となる。

尊氏討伐を命じられた大将はほかでもない、義貞だった。義貞は同年11月下旬、数万の大軍を率いて鎌倉に進軍。鎌倉からは尊氏の弟、直義(ただよし)と高師泰(こうのもろやす)率いる軍勢が出陣した。遠江国鷺坂、駿河国手越の戦いなど、次々と義貞軍が勝利するものの、続く竹ノ下の戦い、湊川の戦いなどで足利軍に敗れ、義貞は灯明寺畷(福井県)で延元3/建武5(1338)年に戦死する。

『新田左中将義貞兵庫に尊氏と戦う図』画:一勇斎国芳 国立国会図書館デジタルコレクションより

南北朝の動乱から武蔵野合戦へ

天皇側と激しい戦いを繰り広げた末、尊氏は建武3/延元1(1336)年、京都を占領し、後醍醐天皇を吉野(奈良)に退かせる。しかし後醍醐天皇は尊氏が即位させた光明(こうみょう)天皇の正当性を認めず、吉野を南朝、京都を北朝として、南北朝はそれぞれ正当性を主張して争うことになる。

延元3/建武5(1338)年、尊氏は念願の征夷大将軍に任命され、尊氏が軍事、直義が政治を執りしきっていた。しかし家臣の扱いを巡り、直義が南朝方に寝返るなど、兄弟は対立を深めていく。足利政権(室町幕府)の内紛、「観応の擾乱(1350~1352年)」である。

対立は正平7/観応3(1352)年2月、直義毒殺により一旦終わったかに見えた。しかし、劣勢に追い込まれていた南朝方は、この機会に再起をかける。混乱に乗じた南朝の勢力は北関東で挙兵し、武蔵国や相模国で「武蔵野合戦」が展開されることとなった。

最後の戦いー笛吹峠

戦死した義貞の子、義宗と義興は、同年2月15日、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を奉じて挙兵、18日には鎌倉を占拠する。28日、小手指原で尊氏軍と戦うが、尊氏軍の圧倒的な兵力を前に苦戦。義宗は笛吹峠に陣を敷き、最後の決戦に挑む。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後や信濃方面へと落ちていき、3月12日には鎌倉も尊氏軍が取り戻す。激しい攻防が繰り広げられた武蔵野合戦は、尊氏軍の圧勝のもとに終結した。

しかし義宗・義興兄弟が鎌倉を追われたあとも、正平13/延文3(1358)年に尊氏が病死したあとも南北朝は争い続け、合一する元中9/明徳3(1392)年まで、56年もの長い年月を要した。

義宗らが敗退する陣営の中、折からの月夜に宗良親王自ら笛を吹き、なぐさめを得たと言われる笛吹峠。ここには日本の国蝶、オオムラサキが生息している。オオムラサキの英名は Great purple emperor ということを知り、ふと、小手指原の戦いで詠まれたという、宗良親王の有名な和歌を思い出す。

君がため 世のため何か をしからん すててかひある 命なりせば

「君の御為、世の人々の為、何を惜しむことがあるだろう。このような目的の為に捨ててこそ甲斐のある命であるならば」

何もないとよく言われる埼玉。だが、古戦場跡というのはたいがい「何もない」のではないだろうか。確かに笛吹峠は日中の車通りも少なく、静かな峠だ。何もないと言えばそれこそ何もない。だが、その場所を多くの武士たちが行き交い、去っていったという歴史が刻まれている。

<参考>
『武蔵武士と戦乱の時代 中世の北武蔵/田代脩/さきたま出版会』
『南北朝動乱 太平記の時代がすごくよくわかる本/水野大樹/実業之日本社』
※冒頭の写真はNHK大河ドラマ「太平記」の中で、主役の足利尊氏を演じた真田広之が身につけていた鎧。栃木県足利市の太平記館に展示されている。撮影:筆者