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2020.11.09

今は超メジャーな観光地・鳥取砂丘は畑にされて消滅しそうになったことがある

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鳥取県の観光地といえば、まず思い浮かぶのが鳥取砂丘。

鳥取県ではもっとも観光客を集めるスポットで昨年の鳥取県の統計によれば「鳥取砂丘・いなば温泉郷周辺」エリアの観光客数は294万9000人。第2位の「境港周辺」エリアの184万5000人をはるかにしのぐ、鳥取県随一の観光地である。

コロナ禍で旅行者に大盤振る舞いする観光県・鳥取

そんな観光地として多くの人で賑わう鳥取県も今年はコロナ禍で観光客は激減。一部の報道ではコロナ禍を避けた都会の住人が鳥取県ならば密になる可能性も少ないと訪れているみたいなことも報じられていた。でも、決してそんな観光客が多いワケではない。

完全に観光客向けに全振りしている鳥取砂丘コナン空港も人影は少ない

中でも減っているのが外国人観光客である。

鳥取県の統計によれば2007年に年間1万5300人しかいなかった宿泊をともなう外国人観光客は、昨年には18万4600人と10年ちょっとで10倍以上に増えたわけだ。ところが、今年はそれがゼロ。

こんな状況で鳥取県内の自治体では大盤振る舞いの施策も実施されている。先日、鳥取県に取材に出かけたワタシだが、鳥取砂丘コナン空港で乗ったタクシーの運転手さんが教えてくれたのが、その施策。

「ぐるっと鳥取周遊タクシー」と名付けられたこの施策は運転手さん曰く「浮いた予算を使った」というもので鳥取駅や空港、宿泊施設などから3時間、観光地をタクシーで回ってもらって1000円というもの。

通常、観光地でタクシーを借り切って周遊というのはけっこうなお大人の楽しみ方のはず。それが1000円でできるというのだから、利用しない手はない。さっそくワタクシも予定を変更して、かろいち(鳥取市の賀露港近くにある直売所や食堂の集まる市場。ちなみに、食堂で食べている間もタクシーは待っていてくれる)経由で鳥取砂丘へ向かって貰った。 

小学生の頃に家族旅行で訪れてラクダに乗った記憶のある鳥取砂丘。再訪しての感動は10分もなかった。それは当然だ。なにしろ、あるのは砂だけ。ずうっと砂が広がる風景は絶景かも知れないが、意外に感動は薄い。
感動の薄さと共に、こんなことも考えてしまうのだ。いったい、どうして砂丘が鳥取県に来たらとりあえず訪問しておくべき観光地になったのか、ということを…………である。

なんの役にも立たない広いだけの砂浜扱いだった鳥取砂丘

今では鳥取県随一の観光地となった鳥取砂丘。でも、かつてその価値は誰にも認められていなかった。鳥取の人々にとって砂丘はなんら役に立たない不毛の土地に過ぎなかったのだ。

ちなみにラクダは砂漠っぽいからいるだけで鳥取に棲息しているわけではない

だから長らく考えられていたのは、役立たずの土地をなんとか改造できないかというものだった。まず考えられたのは、砂地でも育ちそうな作物の栽培である。江戸時代には地下水の確保ができる砂丘の西部で開発が行われて、綿や甘藷などの生産が行われていた。また、砂防林を植えるなどして水田の開発も試みられたが決して生産性はよくなかった。
江戸時代の技術では、水の確保が困難な砂の大地で作物を十分に得ることはできなかったのだ。

明治時代になると不毛な砂丘は陸軍の演習地として利用されるようになった。ここで演習を重ねた鳥取連隊は「健脚部隊」の名を欲しいままにしていた。

戦後には射爆場にする案もあったような砂丘には、見物にやってくる観光客も少なかった。今でこそ雄大な自然の美みたいな価値観は見いだされているわけだが、観光地化以前は誰もそんなことを考えなかった。やってくるのは僅かなもの好きである。

例えば、作家の有島武郎は情死する2ヶ月前の1923年4月に砂丘を訪れている。この時、有島はこんな歌を詠んでいる。

 
浜坂の遠き砂丘の中にして
さびしきわれをみいでつるかな

有島より前に鳥取砂丘を訪れた与謝野晶子も短歌を詠んでいるがこちらもまた、寂しい。

 
砂丘とは浮かべるものにあらずして
踏めば鳴るかなさびしき音に

せいぜいが、文士が虚無感を味わってみるために訪れる程度の場所に過ぎなかったのだ。なお、どちらも砂丘という言葉を使っているが、大正時代にはまだ砂丘という言葉も定着していなかった。現在では県内最大の観光名所となっている鳥取砂丘は「畑にもできない、やたらと広い砂浜」に過ぎなかったのである。

完全緑化で砂丘が消滅する可能性もあった

その不毛さゆえに、かつて鳥取砂丘には消滅の危機もあった。1953(昭和28)年、食糧増産を目的とした海岸砂地地帯農業振興臨時措置法という法律が制定されている。
これによって、鳥取砂丘では本格的な緑化が実施されることになる。砂丘に沿って砂を防ぐための砂防造林が大規模に行われ、灌漑設備も整えられた。本来、鳥取砂丘は起伏も多く農地として整備するのも困難な地形だったのだが、戦後の食糧難は、それも克服して農地を拡大する必要性に迫られていたのだ。

存外に草木が茂って砂漠感のないところも多いのだ

ところが、この法律が制定されて緑化が進められていた頃には戦後の食糧難も次第に収まりつつあった。それもあってか、鳥取市が砂丘の全面緑化、すなわち砂丘の廃絶を目指して事業を進める中で待ったの声もでてきた。
ほかの地域では見られない砂丘は、観光地になるのではないかというのだ。

実は不毛な土地とされていた鳥取砂丘を観光地として利用できないかという構想は戦前から存在していた。1924(大正13)年には鳥取県が砂丘を調査して報告書を刊行。1933(昭和8)年には文部省に天然記念物として指定するように申請している。当時の鳥取県では予算も確保して観光地化を進めようとしたのだが陸軍の演習場として使用されているために、天然記念物の指定は見送られ計画は頓挫してしまった。

天然記念物指定で一転して観光地化が進んだ

こうした前史があったために、全面緑化の方針が打ち出されると同時に保存論も説得力を持つことになった。ただ、農地として開発を進めるのか、観光地とするのかなかなか結論はでなかった。そんな中で観光地化が進んだのは1954(昭和29)年に当時の国鉄が、鳥取砂丘を観光目的の周遊地として加えたことである。

鳥取県というところは、当時から温泉を目当てに訪れる観光客の多い土地だった。とりわけ、三朝温泉なんかは大阪や京都では「関西の奥座敷」と呼ばれる、電車で4〜5時間で到着できる、ほどよい距離の旅行先だったというわけである。

そんな観光県で、新たに周遊地に加えられた鳥取砂丘。地元の人には不毛な土地だが、よそからの旅行者からしてみると、ほかではみることのできない自然の美というわけである。この周遊地への追加に後押しされたのか、1955(昭和30)年に鳥取砂丘のうち30ヘクタールは、天然記念物に指定。同時に山陰海岸国定公園も定められた。 

国立公園とかにある、この手の昭和感のある石のやつ(正式名称は知らない)はかっこいい

以来、鳥取砂丘の観光地化は進んだ。砂漠から連想されるラクダを飼って観光客を乗せてみたり、多鯰ケ池(たねがいけ)にボートなんかを浮かべて見たりと、現在に至る一度は訪れるべきベタな観光地となったのである。

こうして鳥取県を代表する観光地となった鳥取砂丘。2度も3度もリピートしたいと思う人なんて、よっぽど奇特な人だろうと思いきや、意外にもリピートする人も多いのだという。

かつては寂しさしか感じさせなかった、砂ばかりの風景が今では、自然の雄大さを感じさせるまたとない土地となっているということなのか…………。

色々貸し出したりしてくれてホスピタリティあふれる鳥取砂丘だが、歩き回るのは辛いよ

ちなみに、砂丘の入口から海岸までは砂の上を徒歩で往復して40分ほど。そんなに歩いて砂の上を歩く人は間違いなく気に入っているわけだからリピートするのは当然か。

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<参考文献>
大槻恭一・岡田周平・神近牧男ほか「鳥取砂丘の開発と保全」『農業土木学会誌』1999年 67巻12号
鳥取市歴史博物館『城下町とっとり まちづくりのあゆみ』鳥取市歴史博物館 2004年
信太澄夫「日本拝見44 鳥取」『週刊朝日』1954年8月29日号

書いた人

編集プロダクションで修業を積み十余年。ルポルタージュやノンフィクションを書いたり、うんちく系記事もちょこちょこ。気になる話題があったらとりあえず現地に行く。昔は馬賊になりたいなんて夢があったけど、ルポライターにはなれたのでまだまだ倒れるまで夢を追いかけたいと思う、今日この頃。