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2020.12.26

山の上ホテルや米津玄師のMVに登場する教会を設計した男。建築家ヴォーリズと近江八幡の深い関係

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文化人の宿として知られる東京御茶ノ水の「山の上ホテル」や米津玄師の大ヒット曲『Lemon』のミュージックビデオの撮影場所となった「早稲田奉仕園スコットホール」、そして、上皇上皇后両陛下の出会いの場所として知られる「軽井沢会テニスコート」。現代の私たちにも馴染みの深いこれらの建物を設計したのは、ひとりのアメリカ人でした。

1905(明治38)年に英語教師として近江八幡(滋賀県)に来日したアメリカ人、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。キリスト教の主義に基づいた教育をはじめ、さまざまな社会事業を続けるとともに、生涯にわたって数多くの建築物を手掛けました。日本に遺した建物は、なんと1600以上。ヴォーリズ建築が現在まで愛され続ける理由とは? 彼が最期まで貫いた「覚悟」とは? ヴォーリズの辿った軌跡と共に、紐解きます。

建築家への憧れから、アジア伝道の道へ

ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1880(明治13)年、アメリカ・カンザス州に生まれました。幼い頃から両親の影響で信仰に厚く、教会の礼拝でパイプオルガンや聖歌隊の音楽に親しみ、芸術に関心を抱くようになります。少年時代から、町の教会のオルガン奏者を勤めたり、自然を克明に写した油画を描いたりするなどセンスを開花させました。青年になると、建築家を志し、マサチューセッツ工科大学への進学を目指して勉学に励んでいたようです。

転機が訪れたのは、1902(明治35)年。ヴォーリズが22歳のとき、宣教師マリー・ジェラルディン・テイラーの講演会に参加したときのこと。1900(明治33)年に中国で起こった義和団事件(中国で起こった反キリスト教、排外主義の民衆蜂起)以来、難航していたアジアへのキリスト教伝道を訴えかける内容に、ヴォーリズは衝撃を受け、自著にこのように記しています。

その講師の顔は、キリストの顔に変わり、キリストご自身が、
壇上からその愛のまなざしをもって、私の心を刺しとおし、
私に「お前はどうするつもりなのか」と尋ねていらっしゃるように感じられた。
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ著『失敗者の自叙伝』より

ヴォーリズはこの講演を機に、建築を学ぶことを諦め、アジアへの伝道活動に献身することを決意しました。

教師として近江八幡に降り立つ

1905(明治38)年、24歳になったヴォーリズは、YMCA(キリスト教青年会)の派遣により、英語教師として近江八幡の滋賀県立商業学校に赴任します。彼の目的は、もちろん日本へのキリスト教伝道にありました。しかし、サンフランシスコから横浜港への19日の船旅を経て、さらに横浜から約17時間をかけて近江八幡へと降り立ったヴォーリズは、

ホームシック。寒い。頭痛がする。寂しい。

と当時の率直な心境を日記に綴っています。

慣れない日本の環境に、長く戸惑っていたのかと思いきや、そんな孤独も商業学校での最初の授業で払拭されていたようです。

若き日のヴォーリズ

生徒と10歳も年の離れていないヴォーリズは、教壇に立つやいなや、生徒たちから絶大な人気を集めます。布教を目的にヴォーリズが放課後に開講した「バイブルクラス(聖書を読み解く会)」には100人を超える生徒が集まりました。生徒の中には、洗礼を受ける者も。こうした状況を受けて、生徒らを中心に滋賀県立商業学校YMCAを設立。その活動は、校内のクラブとして公認されました。

赴任から2年後の1907(明治40)年、アマチュア建築士であったヴォーリズの初めての設計建築物「八幡YMCA会館(現在のアンドリュース記念館)」が竣工。

アンドリュース記念館の一部

目的としていたキリスト教の伝道は順調かと思われましたが、この直後にヴォーリズは、教師の職と収入を失うことになるのです。

教師の職を失うも、近江八幡に留まる

突然、教師解任を言い渡された背景には、仏教の信仰が厚い地元民たちのキリスト教への反発がありました。職を失ったヴォーリズに日本中の宣教師などから励ましの手紙が届き、各地のYMCAからも誘いの声がかかりましたが、それでもヴォーリズは近江八幡に留まることを選びます。八幡YMCA会館で共同生活を送っていた吉田悦三にこう話をしています。

八幡町(近江八幡)では一銭の収入も与えてくれる道はありません。
しかし、私は、あえて信仰の冒険をやります。

幸いなことにいくつかの建築設計の要望が届き、周囲の信頼できる友人らからの支援を受けながら、建築設計を請け負うようになります。1907(明治40)年には、八幡YMCA会館に続いて、京都YMCA会館建設の現場監督の仕事を引き受けました。

翌年にはヴォーリズ建築事務所を開設。一度は建築家への夢を諦めたヴォーリズでしたが、奇しくも伝道活動を続けるための経済基盤として、建築家としての道を歩み始めるのです。

1910(明治43)年にはバイブルクラスの生徒らと共に近江基督教伝道団を結成し、事業体を「近江ミッション」と呼ぶようになりました。1914(大正13)年には、琵琶湖の東西を行き交う伝道船「ガリラヤ丸」、1917(大正16)年には清友幼稚園を開園させるなど、事業に情熱を注ぎました。

同じ頃、ヴォーリズは大阪の事業家で大同生命保険の創業家である広岡家の自宅設計を請け負っていたようです。この建築のための打ち合わせで、広岡家の親族である華族の一柳満喜子と出会います。アメリカ留学経験のある彼女は、ヴォーリズの通訳として参加していました。ふたりは打ち合わせを重ねるごとに好意を抱くようになり、やがて恋に落ちます。

しかし当時は外国人との恋愛、ましてや結婚することは異例中の異例。満喜子は家族から猛反対を受けます。それでもヴォーリズと結ばれたいと強く願った満喜子は、華族である一柳家から離れ、平民として新たに戸籍を取得したのです。こうした懸命な努力もあって、1919(大正8)年、ついにふたりは結婚します。このとき、満喜子は35歳、ヴォーリズは38歳でした。

第二次世界大戦とヴォーリズ

1920(大正9)年、近江ミッションはメンソレータム(現・近江兄弟社メンターム)や建築資材の輸入販売を開始。また、大正デモクラシーの中、自由な教育を目指す私立学園の設立が各地で起こり、ヴォーリズの手掛ける教育施設は広く受け入れられるようになります。1923(大正12)年には米原シオン幼稚園を開園したほか、堅田、今津、水口にキリスト教会館を建設し、それらにも幼稚園を併設しました。

1924(大正13)年築の近江八幡教会(現在の建物は1983(昭和58)年に一粒社ヴォーリズ建築事務所により建てられたもの)

ところが1930年代後半、日本国内も次第に戦争の気配が色濃くなり、ヴォーリズの事業に対する世間の目は冷たくなっていきます。1933(昭和8)年に、近江勤労女学校を開校しますが、1941(昭和16)年の日米開戦時には政府からの厳しい目が向けられるようになり、学生たちも次々と戦地へと送られました。

ヴォーリズ肖像。1934(昭和9)年には「近江ミッション」を「近江兄弟社」に改称

米原シオン幼稚園も1942(昭和17)年に閉鎖。終戦の年である1945(昭和20)年は戦争による死傷者の看護は急務となり、ヴォーリズの手掛けた「近江兄弟社女学校」も看護婦学校に指定されました。

開戦から終戦まで、ヴォーリズ夫妻は軽井沢でひっそりと暮らしていたことが記録に残っています。戦時下、誰もがそうであったように、ヴォーリズも苦難と我慢の生活を強いられたのです。

こうした状況下でも、アメリカ出身であるヴォーリズが日本に留まることができたのは、1940(昭和15)年、60歳のとき日本に帰化していたためでした。アメリカの国籍喪失証明書が届いたのは、日米開戦のたった2日前といわれています。そうして手に入れたヴォーリズの日本名は「一柳米来留」。「米国から来て、日本に留まる」自身の境遇を意味するその名前には、ヴォーリズのユーモアと日本で一生を過ごす決意が感じられます。

戦後、ヴォーリズは国際基督教大学(ICU)の設立など教育施設をはじめとした事業に尽力しました。1958(昭和33)年には近江八幡市名誉市民第一号に推薦され、1961(昭和36)年には、建築業界での功績が讃えられ黄綬褒章を受章します。「この世界で私の第二の故郷となった近江八幡から死を以ってするも私は離れたくありません」と書簡に遺したとおり、晩年の多くの時間を近江八幡で過ごし、1964(昭和39)年に83歳で永眠しました。

近江八幡は世界の中心

明治から大正、昭和にかけて数々の建築物を遺したヴォーリズ。彼のサインの端には、不思議なマークが添えられています。

「ヴォーリズ」の下に描かれているのは、「○」に「、」……?

このマークに込められた意味とは「近江八幡は世界の中心」。つまり「○」は世界「、」は近江八幡を表しているのです。

「神の國」の「國」の文字をよく見ると「、」が足りない。「神の國とは近江八幡である。神の國の「、」は「○」の中にある」と考えたのか、ヴォーリズはあえて「、」を書かなかったといわれている

ヴォーリズが、近江八幡に特別な思いを寄せていた理由のひとつは、彼が日本で最初に降り立った場所であることが挙げられるでしょう。

近江八幡で教師として過ごした後、日本中から引く手数多(あまた)であったにも関わらず、近江八幡に留まったヴォーリズ。「最初に与えられたこの場所が、自分にとっての世界の中心である」という考え方をしたのではないでしょうか。ヴォーリズは学生たちに、以下のようなメッセージを伝えた、と言われています。

これからあなたたちは世界へ飛び立つ。どこへ行ってもあなたが立つ場所が世界の中心になるんです。

神の導きともいえる地で孤軍奮闘するなかで、その土地に暮らす人々の良さを見出していったヴォーリズ。その行動からもキリスト教的な思想がどれだけ彼の支えになっていたかがわかります。さらに、この思想を形成した背景には、近江八幡の土地柄も関係していたようです。

琵琶湖の東岸に位置する滋賀県近江八幡。商人の街として古くから栄え、江戸時代初期には近江商人が朱印船で東南アジアとも貿易していた。明治以降になっても活発な商業活動は受け継がれ、伊藤忠や高島屋、西武といった名だたる企業が近江から育っていく

ヴォーリズが教師として近江八幡で過ごしていた頃、町は富国強兵制度にともなって、外交強化の空気が高まっていました。近江商人たちは、外交によるビジネスチャンスを狙っていたのです。町民たちとの宗教的対立はあったものの、近江商人たちの三方良し(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」)の気質が、「ヴォーリズの英語力や事業は町にとってプラスの材料になる」と彼を受け入れた部分もあったのでしょう。

「近江八幡は世界の中心」この言葉の背景には、ヴォーリズのキリスト教的思想と近江八幡の商人気質の環境があった

建物の中につまった歴史と物語こそ、一番尊い

ヴォーリズが亡くなってから50年が経った現在も多くの建築ファンが彼の遺した建物を巡り、それらの建物の多くは、変わらず大切に使われています。ヴォーリズ建築が長く愛され続ける理由。それは様式にこだわらない、ユーザー目線の設計に秘密がありました。

例えば、学校に通う子供たちと教員が寝起きを一緒にする宿舎の場合、大きな畳の部屋があれば使いやすいだろうと考えたり、女性や子どもが多く使う場所の場合、ドアノブの位置は通常よりも低めが良いだろうと考えたり。使う人を思う愛にあふれた気遣いがあちこちに見られるのです。

ヴォーリズ記念館。1931(昭和6)年に幼稚園の教員寄宿舎としてつくられた建物。建築途中に自宅に変更され、ヴォーリズの後半生の自邸となった

自身の住まいである現ヴォーリズ記念館さえも私物化しなかったといわれるヴォーリズ。彼は、生涯を通して私有財産を持たず、すべてを社会事業のために捧げました。建物は、使われてこそ価値があり、そこで過ごす人々の物語があってこそ完成するものである。ヴォーリズは、そのように考えたのかもしれません。

取材協力:ヴォーリズ記念館(http://vories.com/zaidan/kinenkan/index.html