Culture
2021.02.25

夏目漱石の鼻毛をコレクションしちゃった!推しへの愛が強すぎる文豪、内田百閒伝説

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「推し」とは、今自分がイチオシしている存在のこと。加えて、推しのグッズを集めたりコンサートに行ったりして応援することを「推し活」といいます。

もともとはアニメやアイドルの愛好家たちが使う言葉でしたが、言葉の認知度も上がり、現在ではジャンルを問わず使われる言葉となっています。

さて、社会的なブームとなりつつある推し活ですが、推し活に熱中していたのは現代人だけではありません。

え、誰だれ?

大正時代の文壇には、あの夏目漱石を推し、生涯を通し推し活に励んだ文豪がいます。今回は、学生時代から晩年まで夏目漱石を崇拝し、追いかけ続けた「内田百閒(うちだ ひゃっけん)」という随筆家を紹介します。

高校の現国の授業で聞いたことがある、ような気もする……。

内田百閒とは

内田百閒は、幻想的な表現や独特なユーモアが特徴で小説家としても有名な、大正~昭和時代に活躍した随筆家です。借金に苦しめられた話や小鳥が好きな話など、さまざまなエピソードがありますが、とりわけ「夏目漱石への愛」を語られることの多い文豪です。

そうなんだ! 漱石のどんな部分に惹かれたのかな?

百閒が漱石の作品に出合ったのは16歳のとき。雑誌『ホトトギス』に連載していた『吾輩は猫である』を読んだ青年百閒は衝撃を受け、漱石のファンとなります。

なんか分かる。「吾輩は猫である。名前はまだない」は、パロディで遊びたくなる名文!

大学進学後、22歳になった百閒は漱石の門下生となりますが、その後も漱石愛は増し続けさまざまなエピソードを生みました。

どんな内容なのかなあ?

【代表作】

『冥途』(1922年)
『百鬼園随筆』(1933年)
『阿房列車』シリーズ(1952年~) など

遺髪ならぬ……「遺鼻毛」を保管する

内田百閒の推しである夏目漱石 出典元:国立国会図書館デジタルコレクション

百閒が保管した漱石の遺品は万年筆や洋服など数多くありますが、なかでも有名な遺品は「漱石の鼻毛」です。

鼻毛。

漱石には、原稿が進まないときなど、無意識に鼻毛を抜いて原稿に貼りつける癖があったといわれています。百閒は、勉強のために漱石にもらった「書き損じ原稿」に貼りついていた鼻毛を集めて保管していたのです。

なぜそれを集めた……。

集めた鼻毛は1本や2本ではなく、長い鼻毛から短い鼻毛、金髪などなど約10本。百閒は漱石の鼻毛に関する癖を知っていたので、見つけた鼻毛を捨ててしまわず、漱石の苦しみを想って大切に保管していたのでした。

そうか! 尊敬する先生が生み出した大好きな作品の副産物(?)だったからか!

百閒がこのエピソードを書いた『漱石遺毛』では、「あくまで先生が鼻毛を抜いて原稿用紙に植毛する癖があったのであって私が抜いて集めたわけではない」と締められており、百閒自身も鼻毛が奇妙な遺品であることを感じていたことが伺えます。

「原稿用紙に植毛」「私が抜いて集めたわけではない」に、とぼけたユーモアがあって楽しい!

夏目漱石が使用した机のレプリカを作る

漱石の門下生たちは皆、尊敬する漱石の真似が好きでした。
なかには歩き方や笑い方を真似する門下生もいましたが、百閒がする真似はそんなものではありません。

グループ愛が強すぎて、先輩の物真似でブレイクしたアイドルもいますよね!

なんと百閒は、わざわざ漱石の書斎の机を測り、家具屋さんにまったく同じ寸法の机を作らせたのです。「先生の机を測らせてほしい」と言われた漱石はいったいどんな気分だったのでしょうか……。

納品日当日の百閒は、朝からソワソワしながら机の到着を待っていました。しかし、肝心の机がなかなか届かず百閒は怒り心頭。家具屋さんまで直談判に行ってしまいました。

愛が深い……!?

結局机は翌日には届いたものの、百閒はこのエピソードから20数年経った後も、「そのときの怒りを思い出せる」というのですから、さぞ楽しみに待っていたのでしょう。

この机を真似したのでしょうか……? 出典元:国立国会図書館デジタルコレクション

夏目漱石の旅行情報を聞きつけ駆けつける

これはまだ百閒が地元・岡山から上京する前、学生時代のエピソードです。

漱石が満州に旅行するという新聞記事を観た青年百閒と友人は、「先生を一目見たい」と思い立ち、満州行きの汽車が地元の駅に停止したところを覗き見ようと企てます。

推しの追っかけですね!

わざわざ汽車の時間を調べ、朝からホームで待機するふたり。雑誌や新聞で見た漱石の写真を思い出しながら、似た顔を探しますがなかなか見つけられません。

結局その日は見つけられなかった青年百閒。諦めきれずに次の日も同じ時間の汽車を覗きに来たもののやはり見つけられず、なんとなく似た男性を見つけて「多分あれだろう」とうやむやにして帰るのでした。

有名人の旅行スケジュールが公開されていることにも驚きますが、詳細もわからないのに「先生に会いたい」という一心で汽車を待ち続けるファン心に感服します。

ほんの一瞬でも、実際に見られたら満足、っていう気持ち、分かります。

ちなみに、このとき漱石は運悪く発病しており、満州旅行は中止しました。そのため、どの汽車にも乗っておらず青年百閒が見つけた男性もまったくの別人なのです。

解釈違い? ちょっと面倒くさいオタクな一面も……

漱石が大好きすぎる百閒でしたが、決して漱石のすべてが大好き!!というわけではありませんでした。

ちょっと意外。

とくに漱石が趣味としていた謡(うたい)については、文学に携わる者がやるべきことではないと思っており、心の中で「自分の崇拝する先生らしくないなあ」と毒づくほど。当然漱石本人に伝えることはありませんでしたが、あちこちで失礼なことを言いまわっていました。

謡とは、能の声楽部分のこと

文芸誌の座談会で、漱石に謡を教えた能楽師に「先生の謡は上手でしたか?」という質問をした百閒。能楽師の「それほどでもありませんでしたよ」という正直すぎる回答を聞いて安心する様子は少し意地悪です。

百閒の心の動き、とても複雑そう。こんなエピソードも小説の題材にできそうですね!

ちなみに、実際漱石の謡は本当に上手ではなかったようで、他の門下生からも「お下手だった」と言われる始末。漱石自身も人前で謡うのは抵抗があったようです。

自分だけの「夏目漱石展」を開催する

内田百閒は、自宅に自分だけの「夏目漱石展」を作っていました。

和樂webの「だれでもミュージアム」と正反対の、「他のだれにもできないミュージアム」だ!

展示物はといえば、漱石が作り自らボツにした絵や書、俳句などなど……。なかでも絵はひどく、漱石が習い始めたころの作品で、岩を書いたつもりが「女性のお尻じゃないか」と師匠に言われてしまうほどの作品です。展示物はどれも漱石には秘密で集めたものでした。

ある日、そんな夏目漱石展の噂を聞いてやってきたのが漱石本人。自分がボツにしたはずの作品がしっかりと装丁されて飾られているのをみて、不快感をあらわにするのでした。

あ~見つかっちゃった。

百閒の自宅をあとにした漱石は、日をあらためて百閒に手紙を出します。

「あんな風に飾られていると気分が悪いから、破り捨てたいと思う。とはいえ君も鑑賞用にお金をかけて仕立てたんだろうからただ破り捨てるわけにもいくまい。仕方がないからなにか書き直してあげよう」

さて、そんな便りを受け取った百閒。
新しい作品をもらえるのは嬉しいけれど、今のコレクションも捨てたくありません。

その葛藤、なんだかちょっと分かる。

慌てて漱石に捨てないで欲しいと頼みに行くも「私が嫌なものをとっておいても仕方がないだろう」と言われ、しぶしぶ諦めるのでした。頑固で有名な百閒ですが、推し本人にそこまで言われたたら、さすがに諦めるしかなかったようですね。

夏目漱石が描いた絵『山上有山図』 出典元:国立国会図書館デジタルコレクション

内田百閒と夏目漱石

緊張のあまり本人の前では、黙りこくっていた百閒。他の門下生のように漱石に意見したり冗談を言い合ったりすることはありませんでしたが、誰よりも深く漱石を崇拝していました。
部屋中に漱石の作品を飾ったり、漱石のことならなんでも真似するなど、数々のエピソードからは、百閒の漱石に対する想いは単なる尊敬だけではなかったことがうかがえます。

百閒は、漱石が亡くなったあとに刊行された『漱石全集』の編纂にも携わり、生涯を通して漱石のすばらしさを語り続けました。

愛(漱石)の伝道師!

推しを愛し続け、推し活をし続けた内田百閒。
まさにオタクの鏡であると言えるでしょう。

〈参考文献〉
内田百閒(1993)『私の「漱石」と「龍之介」』 筑摩書房.

書いた人

1992年生まれ、横浜市在住。可愛いものと美味しいものに目が無いフリーライター。「無いものは作る」をモットーにノンジャンルでモノづくりを楽しむ人生を送っています。マイブームは発酵食品と昆虫食。現在は初めての育児に奮闘中。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。