Culture
2021.06.01

平安貴族の乗り物「牛車」とは?バトルも勃発したステイタスシンボルを詳しく解説!

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平安貴族が、宮中や恋人のもとへ向かう時に利用した乗り物をご存じでしょうか?それは「牛車」と呼ばれ、車輪の付いた屋形(車箱 / 箱とも)を牛に牽かせたものです。牛車は現代の自動車と同じようにグレードがあり、どの等級の牛車を使用することができるかは彼らの身分によって分けられていました。
そう、格下身分の貴族が格上の高級牛車に乗ることはできなかったのです。そこでお忍びで外出する際に自分の身分がバレないよう、わざと格下の牛車に乗って外出する貴族も。また、牛車同士でのトラブルも起こりました。

牛車ってなあに?

かつて平安貴族たちが乗用具として使用していた乗り物は「ぎっしゃ」と読みます。

「ぎゅうしゃ」だと思ってた!

同じ漢字表記ですが、沖縄の離島で見る観光用の「牛車」は「ぎゅうしゃ」と読み、東南アジアの一部地域などでは、稲作時の代掻きや荷車の運搬などに使われています。どちらも車を動力となる牛に牽かせたものなのに、読み方ひとつで時代や使用方法が変わってしまうなんて面白いですね。

さて、本稿で紹介する平安貴族が使用していた牛車は、簡単に説明するとこんな感じです。

所蔵:株式会社 井筒企画 / 藤枝市郷土博物館・文学館にて筆者撮影。2021年5月現在、牛車の展示は終了しています。

メインは左右に車輪がついた屋形と呼ばれる箱と、それを牛に牽かせるための轅(ながえ / 長い柄のこと)および軛(くびき)です。動力源となる牛の首の後ろに軛を掛け、牛に館を引っ張ってもらう仕組みです。でもこの写真の牛車には肝心の牛が写っていないので、実際に軛を牛のどこにかけるのか分かりにくいですよね。

『平治物語絵巻 六波羅行幸巻』 出典:国立国会図書館

軛を掛ける場所は牛肉の部位だと肩ロースのあたり。ここにコブがあるので、軛はそこで留まるのです。牛の特徴をよく捉えた利用法といえましょう。

肩ロース!!すき焼きに最適な部位!!

牛車が平安時代の貴族間へ広まったのはおおよそ9世紀頃。まずは東宮(皇太子)や皇后、太上天皇、内親王と高級女官たちが使用し、その後、男性貴族間へと広まりました。これは移動する際に男性は騎馬がメインで、優雅さの観点から馬に乗って移動する女性が少なかったからと考えられています。

たしかに男性は馬で、女性は牛車に乗っているイメージ!

貴族たちのステイタスシンボル

いずれベンツかロールスロイス!?

牛車にはいくつかのグレードがあり、どのグレードのものを使用できるかは身分によって異なりました。さきほどの写真で紹介したものは、牛車の中でも最高級品格を持つ「唐車(からぐるま / 唐庇車とも)」です。これは上皇や皇后、東宮、親王、摂政・関白など極めて高位の貴人用の乗用具。そのため、この牛車を見たら中にいるのは皇族または高位の貴族ということ。それ以下の身分の者は使うことができなかったのです。

グレードがあったんだ。自分だったら乗りたいものに乗りたいけど…

『源氏物語』の登場人物に当て嵌めると、主人公の光源氏と藤壺の女御(当時・後に中宮)との間に生まれた東宮(表向きは光源氏の父である桐壺帝と藤壺の女御との皇子で後の冷泉帝)や、匂宮(光源氏の孫にあたる今上帝の第三皇子)など。この方々が使うとなれば、たしかにセレブでロイヤルな超高級車!!

ほかには「檳榔毛車(びろうげのくるま)」や「糸毛車」、それらよりも少しグレードが下がった「網代車」などがあります。「半蔀車(はじとみぐるま)」、「八葉車」、「文車(もんのくるま)」は「網代車」の仲間です。

「檳榔毛車」は檳榔というヤシ科の植物の葉を加工したもので屋形全体を葺いていることと、窓がないのが特徴です。檳榔毛車に乗ることができるのは、太政天皇や摂政・関白、大臣、大納言や中納言など、公卿以下四位以上の身分の貴族だけでした。そう、こちらも唐車に引けを取らないくらいの高級車なんです。氷室冴子の著作『ざ・ちぇんじ』の主人公・綺羅君の父親は権大納言なので、この牛車に乗って外出したのかもしれませんね。

「檳榔毛車」を画像検索してみたら、ドラマとかでみたことある牛車だった!

「糸毛車」も檳榔毛車と同じように窓がなく、屋形全体を覆った絹糸の色(青、紫、赤)で呼ばれました。最もグレードの高い青糸毛車に乗れるのは、皇后、中宮、東宮など。紫糸毛車には女御や女御代、更衣、尚侍・典侍が乗用を許され、赤糸毛車には賀茂祭の女使いが利用しました。このように糸毛車に乗ることができたのは主に女性たちです。

青い絹糸っておしゃれだなあ!

貴家の牛車はアクア?それともカローラ?

牛車のなかで一般的だったのは、大臣以下の公卿が使用を許された「網代車」です。一般的とはいえ、牛車を所有するには維持費がかかることから、中流貴族では一家に一台がやっと。上流貴族になると経済的余裕から車種の異なる牛車を複数台持つことができます。

この網代車のなかでもポピュラーだったのが「八葉車」です。地下公卿(貴族の中で四位・五位身分の者)も乗用できることから、日常的に使われていました。現代の車だとアクアかカローラ、インプレッサといったあたりでしょうか。

好きな人に会いに行くときは高級車と乗用車どっちだったんだろう…

八葉車はその名が示すように屋形に八葉の紋(九曜星)が描かれ、平安絵巻物に多く登場します。たとえば『源氏物語絵色紙帖』の「藤袴」や「梅枝」(土佐光吉 / 京都国立博物館所蔵)、『竹取物語絵巻』(国立国会図書館所蔵)など。後者では求婚者の一人が彼女のもとを訪れるシーンに、この八葉車が見られます。

『竹取物語絵巻』 出典:国立国会図書館

「半蔀車」は八葉車のハイクラス版といったところで、主に使用するのは上皇や院、親王、摂政・関白ほか、大臣、大将以上の貴族や彼らに仕える女房です。屋形の窓が半蔀(格子を取り付けた板戸の上半分を外側へ吊り上げた窓)のため、こう呼ばれていました。

このように、どの牛車に乗ることができるかは身分によって異なったため、その牛車を見れば中にどのような身分の貴族が乗っているのか分かったのです。

ハイグレードな牛車は特に目立ちそう…

網代車でお忍び外出!

そこで上流貴族の中には、「極端に高位ではなく、そこそこ身分の貴族でも乗ることができる」という網代車の特性を利用する者もあらわれました。それは「お忍び外出」。身分の低い地下公卿の場合、唐車はもちろん檳榔毛車には乗れませんでしたが、その逆にあたる高位の貴族が格下ランクの牛車に乗ることはOKだったんです。秘密にしておきたい逢瀬などにもってこい!なんですね。

なるほど!うまく使い分けてる!(笑)

『源氏物語』の若菜(上)の巻では、光源氏がかつての恋人・朧月夜を訪問する際に網代車を使用しています。この時、彼は准太上天皇の待遇を受けていたので、本来ならば外出時の牛車は檳榔毛車相当。けれどこの車を仕立てて出掛けると、40歳前後になった光源氏が未練がましく女性のもとへ行ったのが周囲にバレてしまいます。そこで当たり障りのない、庶民が見慣れている網代車に乗って行ったのです。

さらに『和泉式部日記』によると敦道親王がこの手を使い、恋人である和泉式部のもとに通ったそう。光源氏は架空の人物ですが敦道親王は実在の人物。伝えられていないだけで、平安時代にはこのような事例がまだまだあったと思われます。筆者は「あえて格下の牛車を使ってまでして女性のもとへ行かなくてもいいのでは?」と思いましたが、いつの時代も恋する男女は噂話の的になってしまいがち。ましてや上流貴族となれば、それを少しでも避けたいために身分を隠すのは必要不可欠なことだったのかもしれませんね。

こそこそしていた方が燃えると思う!

平安貴族の牛車バトル!

この「高い身分の貴族が素性を隠して網代車に乗る」のは、秘密の逢瀬だけではありません。こっそりと外出したい時にも利用しました。しかしそれが原因となりトラブルが起きることも。

場所取りで大乱闘!?正妻VS恋人:『源氏物語』の場合

またまた『源氏物語』ですが、この中の葵の巻に車争いの様子が書かれています。それは加茂神社が新しい斎院を迎えるにあたり、新斎院の御禊(ごけい / ぎょけい)行列に供奉する光源氏の様子をひと目見ようとした、立場の異なる2人の女性が乗った牛車が起こしたものです。

片方の牛車には光源氏の恋人(愛人)・六条御息所(ろくじょうのみやすどころ / ろくじょうのみやすんどころ)が、もう一台の牛車には正妻の葵の上が乗っていました。六条御息所は大臣の娘で東宮妃。東宮亡きあとは一人娘とともに生活し光源氏の恋人になりましたが、彼女の身分から推測すると本来使用する牛車は糸毛車だと思われます。けれども、光源氏の様子をひっそりこっそりと見たかったため、あえて格下の網代車に乗って行列見物へ出掛けてしまいました。

対する葵の上は左大臣の娘で光源氏の正妻。ちょうど妊娠中でつわりで苦しんでいましたが、仕える女房たちに促され、あまり格式張らない車で出掛けました。

2人が見ようとした御禊行列は加茂神社で行われる例祭の前日に行われるもので、この例祭は現代の葵祭のこと。平安の昔もその人気は高く、行列見学をするためには前もって見物場所を確保しておく必要がありました。ところが葵の上は当初見学する予定ではなかったので、場所取りをしていませんでした。

そのため、葵の上一行が見学場所に着いた頃には、多くの牛車が立ち並んでいて入り込める隙間はありません。そこで、これといった従者がついていない牛車に目をつけ、その周辺の車を立ち退かせることに。いくら左大臣の娘としてセレブな家庭で育った姫君とはいえ、遅い時間に来たのに勝手なふるまいですよね。そして六条御息所が乗っている牛車も、立ち退かしのターゲットになってしまいました。

きゅ、急展開!どうする六条御息所!?

葵の上の従者たちは六条御息所が乗っている網代車を見て、古びてはいるものの端々からそれとなく感じられる屋形の風情や、外へと少しだけ出された六条御息所の衣装の端などの様子から、「身分の高い貴族がお忍びで見学に来た」ことを察します。また六条御息所の従者たちが「この中の御方は、そんな風に扱ってよい方ではない!」と強く言い張り一歩も引き下がらないことなどから、「その中に乗っているのは、もしかしたら六条御息所ではないか」とまで予想します。

ドキッ!!

けれど、六条御息所は自分たちが仕える葵の上の恋のライバル。「こっちは光源氏の正妻なんだぞ!」「愛人はどけどけぃ!!」と、立ち退かせる気マンマンで押し出そうとしました。そこで六条御息所の従者たちが「押し出されてたまるものか!」と踏ん張ったため、双方の従者たちが入り乱れて大乱闘に!

『源氏物語絵色紙帖 葵 詞八條宮知仁』 京都国立博物館所蔵 出典:ColBase
まさに平安の大乱闘……

そして押し合いへし合いした末、六条御息所が乗っていた牛車は葵の上が乗っている牛車の後方に移動させられてしまいました。これでは御禊行列をろくに見ることができません。しかも六条御息所が乗っていた牛車を駐車中に支えていた榻(しじ)の足が折られてしまったのです。牛車は駐車中に牛をはずすため、軛を榻に乗せてバランスを保ちます。その榻の足が折れてしまうということは牛車のバランスが崩れるということ。このままでは中に乗っていた六条御息所や、同乗者たちが外に転がり落ちてしまいます。

ちょっと可哀想……

仕方がないので近くに止まっていた牛車の轂(こしき / 車輪の中心にある軸部分)に轅を掛けてバランスを保たせました。「見物するのは止めて、もう帰りたい……」と思っても、他の車を避けて出て行くのも難しく、六条御息所はそのまま残ることに。こうして葵の上が乗った牛車は、きちんと御禊行列を見ることができたのです。

当事者の女性2人が直接手を下したわけではなく、それぞれに仕える従者たちが引き起こしたこの車争いは葵の上が勝ちました。

大きく傾いた屋形の中で六条御息所は何を思ったのでしょうか。亡き東宮の妃として、また貴婦人としてのプライドもあるでしょう。光源氏の正妻である葵の上の存在を目の当たりにして、愛人としての我が身を口惜しく思ったかもしれませんね。この時の彼女の思いがその後、葵の上を苦しめることになりますが、この時はまだ誰もそのことを知りません……。
詳しくはこちらの記事をどうぞ。
愛に溺れた美女・六条御息所の苦しみとは。生霊として彷徨い出るまでの葛藤

鳥肌立ちました

牛車から転げ落ちて痛い目に…姫の夫VS姫の継母:『落窪物語』の場合

車争いの場面は『落窪物語』にも登場します。この時は加茂神社例祭の行列見物での車争いの後に、主人公・落窪の姫を苛めぬいた継母(北の方)が公衆の面前にさらされるという事態に!

これはこの記事
「下痢をお漏らし!嫌いなヤツには石投げる!平安貴族が結構お下品【落窪物語】」
に書かれている典薬助が烏帽子を取られた後のこと。典薬助は落窪の姫の継母とともに加茂神社例祭の行列見物に来ていたのです。

結局、行列見物は取り止めて帰ることにした継母一行ですが、いつの間にか牛車の床縛(とこしばり)がプツプツと切られていたのに気が付かず、そのまましばらく進んでしまいました。床縛とは屋形の基台と車軸とを結んで固定する紐のこと。牛車は屋形と車軸とが別々なんです。その固定用の紐が切られていたので、継母が乗っていた牛車は大路の真ん中で大きな音を立て基台から屋形を落としてしまいました。

その様子をひと目見ようと牛車には庶民たちが群がり腹を抱えて大笑い。あまりのできごとに牛車に乗っていた継母と娘たちは、わんわんと泣くばかり。さらに継母は傾いた屋形の後方から外へ転がり出てしまいました。当時の貴族女性は基本的に人前に姿を見せることなく過ごしたので、不慮のできごとだったとはいえ、これは相当ショックなできごと!

カーアクションならぬ牛車アクション?

この床縛は落窪の姫の夫が指図し従者に切らせたのか、彼らが車争いをしている最中に庶民の誰かが切ったのかは分かりません。もしかしたら物語だけではなく、記録に残されていないだけで本当にこのようなできごとがあったのかもしれませんね。

「私を取り残さないで!」2人の妻、北の方VS前典侍:藤原高遠の場合

『源氏物語』と『落窪物語』の車争いは架空のできごとですが、藤原高遠の場合は違います。彼は平安時代中期に正三位になった実在の人物。14歳で初出仕した後は順調に出世し、54歳で太宰大弐(だざいのだいに / 大宰府の次官)に任じられ九州にある太宰府へ赴くことになりました。当時の高遠は正三位(諸説あり)なので、晴れの日には檳榔毛車を日常では網代車を利用していたと思われます。

さて、問題の車争いは彼が任地へ赴く際に起きました。原因は高遠の女性関係です。彼は北の方と呼ばれる女性と、前典侍と呼ばれる女性の2人を妻としていました。近年の研究では、平安時代は一夫一妻制だったかもしれない、と云われていますが、とにかく高遠には妻が2人いたのです。

女の争いって本当にえげつないと思う!

その高遠が都から遠く離れた大宰府へどちらの妻を伴ったかというと、それは北の方。高遠と北の方は同じ牛車に乗り込んで出発を待つばかりでした。ところがそれを知ったもう一人の妻・前典侍がやってきたから、さあ大変!前典侍はモーレツに怒り狂い、牛車の出発を妨害しました。

牛車に轢かれてもしにませぇん!あなたが好きだから?

妻2人の関係ですが『源氏物語』における正妻・葵の上vs恋人(というか愛人)の一人・六条御息所のそれとは異なり、2人とも妻として扱われ周囲にも認められていました。「どちらも愛しているんだよ!」という彼の声が聞こえてきそうですね。

ただそれだけに、残されることを知った前典侍が怒って牛車の出発を邪魔しても、高遠からすれば予想内のできごとだったのかもしれません。もしかしたらこの時に「私が不在の間、この邸を守ってくれ」などと上手く言いくるめて収めた可能性もあります。

このできごとは彼の弟である藤原実資が書いた『小右記』に載っています。弟が書いた日記が残り、千年の時を越えて後世に語り継がれようとは、高遠には思いもよらぬことでしょう。

牛車にもマナーがある!知らなくてちょっと残念だった木曽義仲の場合

このように牛車は平安時代の貴族たちが外出する際に欠かせなかった乗用具で、所有できるのは地下公卿以上。運行するには動力源の牛と牛の引率をする牛飼童(うしかいわらわ)も必要です。身分的にも財力的にも中流貴族以上でないと乗ることは叶いませんでした。それは現代にたとえると、黒塗りの高級車とお抱え運転士のようなもの。当然、乗り降りの仕方や座席の順番など、決められたルールがいくつかありました。

まず乗り降りですが、牛車は基本的に後乗り前降りです。屋形の床の高さは車輪のなかほどに当るため、停車中は意外と高く感じられますが、これは貴族の邸の軒から直接乗ることを前提とした高さのよう。物流倉庫のトラックヤードのような感じでしょうか。

所蔵:株式会社 井筒企画 / 藤枝市郷土博物館・文学館にて筆者撮影。2021年5月現在、牛車の展示は終了しています。

なお、筆者が体験乗車した唐車は牛車の中でも大きいタイプなので、後ろに桟(さん / 持ち運び可能な階段)を置き中へ乗り込みます。屋外など貴族の邸の軒から乗れない場合は、後ろに榻を置いて乗ったりもしました。

気になる屋形の定員は基本的に4人で上座下座があり、牛に近い席が上座になります。『落窪物語』の車争いの際に落窪の姫の継母が屋形から転がり落ちたのは、彼女が娘たちを重んじて屋形の出口側に座っていたからなんですね。鎌倉時代に成立したと見られる『門室有職抄』によると、身分の高い順に1の席(前列右側)から座るのがルールだったよう。

やっぱり上座と下座のルールがあったんだ

所蔵:株式会社 井筒企画 / 藤枝市郷土博物館・文学館にて筆者撮影。2021年5月現在、牛車の展示は終了しています。

牛車から降りる時も上座の人間からになるので、乗る順番で上座下座が決まるこのシステムはなかなか合理的。ところが平安時代末期に倶利伽羅峠の戦いで平家軍に勝った木曽義仲は、上洛後に牛車に乗って後白河上皇の御所へ行こうとした時にこのルールを知りませんでした。そのため従者たちが牛車は後乗り前降りなことを教えましたが、後ろから乗って後ろから降りてしまったのです。

これを見た従者たちは「これだから田舎の武士は……」「何も知らないヤツだな」などと嘲笑いました。自分たちは乗ることができなくても、普段から牛車を利用する貴族たちのルールやマナーを直接見て学んでいたんです。従者たちから見ると彼の行為は、京の都を武力で制圧した粗野で野蛮な田舎侍と映ったのでしょう。

く、屈辱!!!自分も「これだから…」って言われないように気をつけよう

平安時代が終わり、その後、政権は鎌倉幕府、室町幕府へと移り変わりました。時代の変遷とともに中流以上の平安貴族にとって長い間ステイタスシンボルとされていた牛車は、鎌倉時代以降に次々と起こる戦いなどの影響により、経費の観点から所有する貴族がめっきりと減ってしまいます。

今回紹介したできごと以外にも貴族たちの喜怒哀楽を数多く生み出してきた牛車。物語や日記などの王朝文学や映像作品などに触れた際、この記事を思い出していただれば幸いです。

参考文献
『平安貴族の結婚・愛情・性愛─多妻制社会の男と女』増田繁夫 青簡舎 2009年10月
『ものと人間の文化史160 牛車』櫻井芳昭著 法政大学出版局 2012年8月
『牛車で行こう!平安貴族と乗り物文化』京樂真帆子著 吉川弘文館 2017年7月

アイキャッチ画像:『源氏物語絵色紙帖 葵 詞八條宮知仁』 京都国立博物館所蔵 出典:ColBase