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2021.06.17

超絶浮世絵師、葛飾北斎のAtoZ!世界を震撼させた傑作から私生活まで徹底紹介

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江戸時代後期に約70年にわたって活躍した浮世絵師・葛飾北斎。ただひたすら絵を描くことに執着し続けた北斎の人生は、波乱万丈にして奇想天外!
みずからトライしてあらゆるジャンルの絵画を身につけ、描き上げた作品のかずかずが日本のみならず世界に衝撃を与え、老いてなお向上を目ざした破天荒な絵師・北斎の人生をA~Zの26の単語でご紹介します。

A 赤富士

赤富士とは『冨嶽三十六景 凱風快晴』の通称。朝焼けを浴びて赤く染まった富士山の色合いから、こう呼ばれています。北斎が72歳のころに手がけた 『冨嶽三十六景』は、富士山を主題にした全46枚の連作ですが、富士山を大きく全面に配しているのは「山下白雨」と本作のふたつだけ。大胆な横大判錦絵の構図や山肌の色の面白さから、赤富士はとりわけ人気を集めました。北斎と富士山との出合いは50代の初めのころ、甲州や名古屋への道中で目にした富士山を、さまざまな地点からスケッチしています。それから約20年後の『冨嶽三十六景』で初めて日の目を見た北斎の富士山は、当時の旅行ブームと相まって大ヒットしました。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 凱風快晴』 メトロポリタン美術館

B ベロ藍

文政末期から天保年間(1818〜1844年)に西洋からもたらされた人工顔料プルシャン・ブルーは、ベルリンで発見されたことから「ベロ藍」と呼ばれました。

浮世絵に初めて用いられたのは 天保元(1830)年のことで、 天保2(1831)年に刊行が始まった『冨嶽三十六景』はベロ藍を使用した錦絵の代表作。北斎はそれ以後の風景画の連作にもベロ藍を多用しています。

それまで浮世絵に用いられていた青は、ツユクサや本藍からつくった絵の具で、ツユクサは退色しやすく、本藍は古い藍染の布から抽出するために扱い難いという弱点がありました。それに対して、ベロ藍は取り扱いやすく発色が美しいだけでなく、濃淡のぼかし摺りもきれいに表現できることから、絵師たちの間で大評判に。このベロ藍の導入に伴って、浮世絵の色彩は一変したのです。

傑作『冨嶽三十六景』をはじめ とした北斎の風景画シリーズは、 ユニークな構図のみならず、創意工夫をさらに印象的に仕上げてくれたベロ藍の効果があったことも、 ヒットの要因でした。

C 千絵の海

日本各地の漁の様子をテーマに した『千絵の海』は、10枚からなる中判錦絵の連作です。このシリーズ作品においても北斎は、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』で描ききった大波や水しぶきと同様に、海や川の漁場の水の動きを、大胆な構図とともに見事に表現。ベロ藍を用いた青の発色もまた、水の透明感をよく表して好評を博しました。

葛飾北斎 『千絵の海 五島鯨突』 シカゴ美術館

D ダンス

北斎の作品でも意外なものに、文化・文政時代にお座敷や芝居小屋ではやっていた曲の振り付けをひとりでこっそり稽古できる指南書『踊獨稽古(ひとりおどりげいこ)』があります。

収録されているのは、「登り夜舟(よふね)」「生野暮薄鈍(きやぼうすどん)」「悪玉踊り」「団十郎冷水売」の4曲。作画と編集は北斎ひとりで行っていて、歌舞伎舞踊の振り付けを担当していた藤間新三郎が補正するという念の入ったつくりになっています。

葛飾北斎 『踊獨稽古』 国立国会図書館デジタルコレクション

振りに合わせて、踊りのコツや小道具の使い方を書き加え、踊りの型を忠実に描いた一連の絵は、パラパラ漫画で見てみたいほど正確で絵もキュート。今や日本を代表する文化であるアニメーションの原型を見る思いです。

和樂webでたびたび登場する北斎アルファベットも『踊獨稽古』からとったもの

E 絵手本

北斎には師弟関係について書き残されたエピソードが少ないことから、浮世絵師となってからは一匹狼で活動していたイメージがあるのですが、実はたくさんの弟子がいました。

50歳を過ぎたころから読本の挿絵でその名を知られる存在となっていた北斎のもとには、訪問先の名古屋や西国など全国から弟子入り希望者が殺到。最盛期には弟子と孫弟子と合わせて200人もいたといいます。しかし、常に締め切りに追われていて、直接手ほどきをする時間もなかったことから、北斎が考え付いたのが、絵の教科書となる「絵手本」の製作でした。

北斎が絵手本を手掛け始めた初期のものは、丸や三角、四 角の図形を組み合わせてデッサンするなど、絵の描き方の初歩から懇切丁寧に図説。わかりやすくて美しい絵手本は、門人ならずとも欲しくなるような内容でした。

北斎のAtoZを音声で解説!A〜Eはこちら!

F ファッション

北斎の浮世絵の、アートとしての素晴しさを世界で最初に認めてくれたのは、銅版画家ブラックモンをはじめとしたフランスの芸術家たちでした。当時のフランス人にとって浮世絵の美術様式や表現は非常に目新しく、北斎作の『北斎漫画』や『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』などに刺激を受けた芸術家たちは、熱心に模作し、コピーし、それがやがてジャポニスムやアール・ヌーヴォーといった芸術運動へ発展していきます。

近代を迎えて混沌としていたフランスにおいて、新鮮な美意識をもたらした北斎は、現代で言うところのファッション・リーダーであり、現在にいたるまでリスペクトされ続けてきました。それを教えてくれたのが、かの有名なハイブランド、ディオールの2007年春夏オートクチュール・コレクションで発表された、当時のアーティスティックディレクター、ジョン・ガリアーノによる北斎へのオマージュ。〝大波〞をあしらったコートです。その見事なデザインは、北斎の絵にかけた気迫を今によみがえらせてくれたかのようでした。

G 画狂人

絵師として名乗る画号は、ペン・ネームや芸名と同様に作者としての責任を表すものですから、たびたび変えるべきものではないとされます。それが、北斎は生涯に30回も画号を改めたというのですから、驚きです。主だったものを若いころから順に記すと「春朗」「宗理」「北斎」「戴斗」「為一」「卍」。それに副次的な画号を組み合わせているため、画号は多種多様になっています。

副次的画号の中でも強烈なのが「画狂人」で、その意は読んで字のごとく。みずから画における狂人と称したもので、老年期には「画狂老人」と書くようになっています。

現在、私たちが呼んでいる北斎は「北斎辰政(ときまさ)」の号から、「北斎改め為一」や「北斎改め戴斗」という形まで数多く使われていたことから一般的になったとされます。

北斎が改号を頻繁に繰り返した理由として、画号を譲ることによって収入を得ていたという説があり、「北斎」の画号さえ弟子に譲っていたことが伝わっていますが、真相は未だ闇の中です。

H 引っ越し

北斎が変わり者であったことを伝えるエピソードに、頻繁に引っ越しをしたことがあります。

その回数はなんと93回。ほとんどは生まれ育った現在の墨田区の周辺で、1日に3回引っ越したこともあったとか。

そんな暮らしぶりだったので、当時の人名録の北斎の住所欄には「不定」とされるありさま。

どうしてそんなに引っ越ししたのかというと、作画に追われ掃除をするひまがなかったから。絵を描くことが第一だった北斎にとって、家は生活よりも絵を描くための場所であって、今でいうゴミ屋敷になると、掃除するのではなく、別の家に移っていたのだとか。

I 為一

北斎が60歳になったころから70代前半まで用いた画号が「為一(いいつ)」 です。この画号の時期には、最高傑作『冨嶽三十六景』を皮切りにして、 『諸国瀧廻り』『千絵の海』『琉球八景』『諸国名橋奇覧』『富嶽百景』 などの風景画の連作を続けてヒットさせ、花鳥画にも取り組んでおり、錦絵制作で押しも押されもし ない人気絵師となっていた、まさに黄金時代でした。

葛飾北斎 『諸国名橋奇覧 かめゐど天神たいこばし』 国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、為一の画号で華やかな成功を手にする前の60代の私生活は波乱続きで、4女を亡くした後に長女・阿美与が離婚。60代も後半になったころには中風(脳卒中)を患うのですが、自作の薬で回復したという逸話も。

しかし、不幸はさらに続きます。3女・応為が離縁され出戻ってくるわ、後妻・ことに先立たれるわ、挙句の果ては70歳になったころに孫の放蕩の尻拭いをする羽目に陥り、借金取りに追われるなど、散々な状態でした。

そんな時期を経て、72歳という老齢になってから渾身の連作『冨嶽三十六景』を生み出すのですから、北斎の生命力には、すさまじいものがあります。

J ジャポニスム

庶民の心を鷲づかみにした浮世絵の人気は日本のみならず、フランスを介して欧米へ拡大。日本の美術様式を取り入れた芸術運動は「ジャポニスム」と呼ばれ、19世紀後半の西洋の近代芸術の幕開きに大きく関与しました。

その先駆者が、日本から輸送された磁器の緩衝材に使われていた『北斎漫画』の芸術性に心奪われた銅版画家ブラックモン。彼が芸術家仲間に喧伝したことから、フランスで浮世絵人気が沸騰し、新しい絵画様式を模索していた印象派の画家たちは浮世絵からヒントを得た新様式を世に問うようになります。マネは『エミール・ゾラの肖像』の背景に浮世絵を描き、モネは第2 回印象派展に『ラ・ジャポネーズ』を出品、ドガやゴーガン、ロートレックなど、多くの画家も追随しました。

そして、1867年のパリ万博への日本からの初出品によって、注目はさらに高まり、絵画のみならず工芸や文学、舞台芸術など、さまざまな芸術分野をジャポニスムが席巻。浮世絵は欧米の近代芸術に大きな影響を与えたのです。

K 川村鉄蔵

川村鉄蔵とはいったいだれのことかと思われるでしょうが、これが北斎の本名。宝暦10(1760)年9月23日に生まれた北斎は幼名が時太郎、後に鉄蔵となり、幼いころに鏡師の家の養子になったという説もあります。

鉄蔵は10代の初めのころには貸本屋の小僧として働き始め、手先が器用だったことから、10代半ばには木版印刷の版木を彫る職を得ていたとされます。

版木を彫りながら文章や絵に親しむうちに〝絵を描いてみたい〞と思うようになった鉄蔵は19歳のころ、役者絵で人気を得ていた浮世絵師、勝川春草に弟子入り。そこで、浮世絵版画や肉筆画を学んだことで、早くも入門の翌年に、師の春の字をもらった勝川春朗の名で役者絵を発表。以後約15年間に浮世絵版画や黄表紙の挿絵などを描きます。やがて浮世絵に飽き足らなくなった春朗は師に内緒で狩野派や洋画などを学ぶのですが、それが発覚して、あえなく破門という憂き目にあっています。

L ライフ誌

北斎が世界一の浮世絵師だというのは、決して印象で語られているのではありません。アメリカの有名なフォト・ジャーナル誌である『LIFE』が、1998年に「過去1000年の間で最も重要な人物はだれ?」という調査を行い、上位100人が発表されたのですが、その中に日本人で唯一、86位にランクインしたのが葛飾北斎だったのです。ヨーロッパとは遠く離れていて、16〜19世紀には鎖国政策をとっていた日本は当時の西洋人にとっては、知る人ぞ知る的存在。それが1位エジソン、2位コロンブスと 歴史の教科書で有名な偉人たちとともに、北斎の名があがったのは驚くべきことです。

その理由として添えられていたのが「北斎は浮世絵の絵師たちのひとりではなく、彼自身がひとつの島であり、大陸であり、世界全体なのだ」という印象派の画家ドガの言葉。西洋の近代美術に多大な影響を与え、ジャポニスムを生み出した北斎の功績はかくも偉大 だったのです。

M 漫画

文化11(1814)年の初編以来、北斎の存命中に13編、没後に2編が刊行された、『冨嶽三十六景』と双璧を成す傑作が絵手本の集大成である『北斎漫画』です。その優れた観察眼によるデッサンのかずかずや、ジャポニスムにまで関わった影響力の高さは言うまでもないことですが、現在普通に使われている「漫画」という言葉を広めたのも、『北斎漫画』の功績だったのです。

葛飾北斎 『北斎漫画 12編』 国立国会図書館デジタルコレクション

由来には実は2説あって、ひとつは随筆を意味する中国語「漫筆」が「漫筆画」を経て「漫画」になったとする説。もうひとつは、梅雨国のヘラサギ「漫画(まんかく)」がくちばしで水をかき回して乱雑に食べる様子から 「様々な事柄を扱う本」という意味で用いられていたという説です。

中国生まれの言葉「漫画」を、江戸時代の山東京伝は「気の向くままに描く」という意味で用い、北斎の『北斎漫画』によって戯画風のスケッチをさすようになり、現在のマンガへとつながったのです。

N 肉筆

浮世絵には多色摺版画の錦絵のほかに、紙や絹に描かれた一点物の肉筆画があります。北斎は40代後半にあたる文化年間の初期に肉筆画の制作に没頭した時期があって、このころの画号が「葛飾北斎」。以後は『北斎漫画』などの『冨嶽三十六景』 などの風景画が評判となり、浮世絵版画中心の時期が続きます。

人気絵師としての活動が一段落 した北斎は、80歳を過ぎて再び肉筆画に取り組み、中国や日本の故事と古典に基づく作品や自然を主題にした作品に専心。いまわの際まで肉筆画を追求し続けました。

北斎の肉筆画は西洋の収集家にとりわけ好まれ、イギリスの建築家コンドルの旧蔵品『鶏竹図』や、 出島のドイツ人医師シーボルトが持ち帰りオランダのライデン国立民族学博物館が所蔵していた洋風画が実は、北斎の肉筆画だと考えられているように、海外には、まだ知られていない北斎の肉筆画が眠っているかもしれません。

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O 応為

応為(おうい)は葛飾北斎の三女の画号。いつも「おーい!」と呼びかけていたことから北斎がつけたという説があり、名前は栄(えい)とも阿栄(おえい)とも記されていて、口の悪い北斎はその容貌から「アゴ」と呼んでいたといいます。

応為も一度は絵師のもとに嫁ぎますが、小事にこだわらず、衣服や食事も気にしないで、思ったことをすぐ口にしてしまうという父親ゆずりの性格で、夫の絵が自分よりもつたないことを指さして笑ったことから、三行半(みくだりはん)を突き付けられる始末。実家に出戻った応為は、北斎が息を引き取るその時まで面倒を見て、画業を助けたことが知られています。

この応為こそ、北斎から絵師の才能を受け継いだ唯一の後継者であり、北斎をして「余の美人画は、阿栄におよばざるなり」と言わしめたほどの力量の持ち主でした。

しかし、北斎没後の記録はなく、 応為が描いたことが確認されてい る現存作品は世界で10点ほど。そんなことから、応為はいまだに、謎に包まれた女浮世絵師とされているのです。

P パフォーマンス

勝川派を破門された後で襲名した俵屋宗理の画号も門人に譲った北斎は、40歳を過ぎたころから即興の「席画」や「曲画」などの、今でいうパフォーマンス・アートをたびたび試みています。

たとえば、寛政11(1799)年には三囲稲荷(みめぐりいなり)の開帳に合わせて 「曲画」を披露し、文化元(1804)年の音羽護国寺の観世開帳時には、本堂の前で120畳の紙に大ダルマを描いているのです。

その評判は将軍家にも伝わり、11代将軍家斉の前で谷文晁とともに「席画」を行ったという話も伝わっていて、さまざまなパフォーマンスによって、北斎が名を上げていったことがわかります。

岡田啓, 野口道直 編他 『尾張名所図会』附録 巻1 国立国会図書館デジタルコレクション
北斎みずから用意したチラシにひかれて集まった観衆の前で、大筆を操る北斎とサポートする弟子たち。北斎は絵師としてのみならず、策士としても優秀だったよう

その後、『北斎漫画』が評判になっていた文化14(1817)年に訪れた名古屋で、絵手本の悪口を耳にすると、江戸で行っていたパフォーマンスを西本願寺掛所で決行。大勢の見物人の前に用意された120畳もの紙に大ダルマを描くと、やんやの喝采を浴び、北斎人気は急上昇。名古屋や関西からの門人も急増しました。このようなパフォーマンスによって名前を広めることを思いついた北斎は、自己プロデュース力にも長けていたようです。

Q キューピッド

アルファベット26文字中唯一該当するものがなかった「Q」は、日本語の読み方から、『上町祭屋台天井絵 濤図』の額縁に描かれていた「キューピッド」と呼ばれている絵をあてました。

と弁解をしながら絵を確認すると、キューピッドにつきものの弓矢が見当たりません。そうすると、 これはエンジェル……? もしもこれがエンジェルだとすると、大きな疑問が生じます。エンジェルはキリスト教における神の使いで、キリシタンが厳しく禁じられていた江戸時代は、少しでもその関係が疑われたら厳罰に処されていたからです。そんなご時世になぜ? 北斎はオランダ商館から絵の依頼を受けていたことや、西洋画風の肉筆画を描いていたことから、エンジェルの絵を目にする機会もあったはずです。

しかしながら、ここに描いた理由については、いずれも推論の域を出ず、絵師として単に面白いと思った図を描いただけなのかもしれませんし、いまだ有力な説は見つかっていません。

R 旅券

2016年5月に外務省よりパスポート(旅券)についてのニュースが発表されました。その内容は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックを念頭において、デザインが変更されるということでした。

表紙は現在のままで、変更されるのは、出国や入国の際にスタンプを押す査証欄のページ。最終的に選ばれたのが、葛飾北斎の傑作として国内外で有名な『冨嶽三十六景』です。選定のポイントは、富士山がメインモチーフになっていて、日本を代表する浮世絵の傑作であることだったとか。これまで、漠然と見ていた出入国のスタンプも、『冨嶽三十六景』 の上に押されるとイメージは一変。旅の気分がいっそう盛り上がりそうです。

S 宗理

寛政6(1794) 年に勝川派を破門された北斎は、36歳になる翌年正月から「宗理」という新たな画号で作品を発表し始めています。

宗理とは、桃山時代末期に俵屋宗達や本阿弥光悦らによって形づくられ、尾形光琳が引き継いだ琳派の絵画様式を目指して俵屋と称した一門の頭領が用いた名で、北斎は3代目となります。ただ、浮世絵とはまったく趣の異なる画派に転じた理由については、いまだ明らかになっていません。

しかし驚くべきは、襲名までわずか数か月で、2代宗理から教えられた様式を身につけたことです。それ以後、勝川派で描いていた錦絵はほとんど見られなくなり、当時流行していた狂歌の世界とのかかわりを深め、優美な狂歌絵本の挿絵や肉筆画といった分野に進出。またたく間に新境地を開拓していきました。

このころの画業で特筆されるのが、肉筆画による美人画で、その顔立ちは瓜の種のように白くて面長な瓜実顔で、目は小さく、おちょぼ口。背が高く、スラリとしたプロポーションで描かれた女性たちは「宗理美人」と称され、一時代を築きました。

T 高井鴻山

『冨嶽三十六景』にはじまる風景画ブームも去り、80代を迎えた北斎は、ひとところに留まることなく独自の肉筆画を追求するようになっていました。そして、天保の改革で贅沢が禁止され、作画にも支障をきたし始めたことから、信州・小布施を目ざします。そこで頼りにしたのが、地元の豪商・高井鴻山でした。

絵のたしなみがあった鴻山にとって北斎の来訪はこの上なくありがたいことで、屋敷内に北斎専用のアトリエを建てるなどして歓待。作画に専心することができた北斎は83歳から89歳になるまでの間に4回も小布施に滞在。その最後に手がけたのが、鴻山にすすめられて描いた21畳もの大きさの岩松院(がんしょういん)の天井画『八方睨み鳳凰図』です。北斎は老いてなお、制作意欲は衰えず、このような大作を仕上げていたのです。

北斎のAtoZを音声で解説!O〜Tはこちら!

U 歌麿

浮世絵が最も人気を博していたのは、江戸時代も後期にさしかかった寛政から文化・文政時代にかけてのこと。その時代をリードしたのが宝暦3(1753)年生まれの喜多川歌麿。北斎より7歳年上の実力派・浮世絵師です。

生まれも育ちも未詳の歌麿は、町絵師・鳥山石燕(とりやませきえん)に弟子入りして浮世絵のイロハを教わり、23歳のころに北川豊章(とよあき)の名で浮世絵師としてデビュー。30歳を過ぎたころから喜多川歌麿を名乗り、狂歌絵本などで名を上げていきます。

その後、新興の版元であった蔦屋重三郎と出会ったことで、歌麿の画業は急展開を見せます。

40歳のころに、それまでは役者絵にしか用いられていなかったバストアップの大首絵を美人画に採用し、光沢のある雲母摺(きらずり)やエンボス加工の空摺(からずり)、背景を無地にする地潰しなどの技術を駆使して、美人大首絵は大ヒットします。

喜多川歌麿 『歌撰恋之部 物思恋』

同じ時期に宗理様式の美人画を発表した北斎も、超人気絵師・歌麿の影響を受けていました。

しかし、好事魔多しというように、歌麿は寛政の改革による風紀粛正を目ざしていた幕府に目をつけられており、52歳のころに筆禍(ひっか)事件を起こして手鎖50日の刑に服し、受刑後は創作意欲を失って54歳で病没。当時47歳の北斎は、絵手本に熱中。絵師としての地歩を固めていたころにあたります。

V フィンセント・ファン・ゴッホ

ジャポニスムが席巻していた19世紀後半のフランスで、その影響をとりわけ強く受けていたのが、ポスト印象派のゴッホです。斬新な構図と明快な色使いの浮世絵にすっかり魅了されたゴッホは、貧しい生活の中で実に500点にもおよぶ浮世絵をコレクションしており、そのスタイルを模倣したり、モチーフにしたりした作品を数多く残しています。

最もわかりやすい例は、歌川広重『名所江戸百景』をそのまま油絵にした作品ですが、画面構成や作画における手本は北斎。

特に『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の影響は大きく、『星月夜』 や『糸杉』などには”大波”のタッチが用いられ、画材店主の肖像画『タンギー爺さん』の背景に描かれた6つの浮世絵のうち、帽子の上には『冨嶽三十六景 凱風快晴』の色違いが。これほど愛されていたとは、感慨もひとしおです。

W 割下水

宝暦10(1760)年9月23日、北斎が産声を上げたのが本所割下水(わりげすい)。現在の墨田区の両国駅の東側から伸びる北斎通り界隈です。

生を受けてから90歳で亡くなるまで、93回にも及ぶ引っ越しを繰り返しているのですが、その大半は現在の墨田区内。北斎は地元が大好きだったようです。

X X線

浮世絵の青に人工顔料のベロ藍 (プルシャン・ブルー)が使われるようになった時期は、長らく科学的な根拠に基づく確証が得られていませんでした。それを解明したのが蛍光X線分析による吉備国際大学名誉教授・下山進氏と礫川浮世絵美術館館長の故・松井英男氏の共同研究でした。

まず、その過程では、『歌舞伎番付』などで制作年代が考証できるる役者絵に摺られていた青の部分 から、プルシャン・ブルーの主成分元素である鉄元素が検出されるか否か、分析が重ねられました。その結果、天保元年(1830)の後半以後に制作された役者絵の青から鉄元素が検出され、ベロ藍が浮世絵版画に登場した時期が特定されたのです。

そして、ベロ藍の美しさで有名な『冨嶽三十六景』シリーズの青を同じように分析したところ、天保元年後半に登場したベロ藍を最も早く取り入れ、浮世絵版画の世界に風景画というジャンルを確立したのが葛飾北斎であったこともわかったのです。

Y 読本

春朗、宗理の時代を経て、40代半ばから北斎が精力的に取り組むようになったのが「読本」の挿絵です。

寛政の改革による出版統制によって黄表紙や洒落本はすたれてしまい、それにかわって出版されるようになったのが、幕府の意向に沿った道徳的かつ教訓的な読本でした。

文化年間(1804〜1818年)に全盛時代を迎えることになった読本。その人気は、挿絵のインパ クトに支えられていた部分が大きかったといわれます。

葛飾北斎画 曲亭馬琴作 『椿説弓張月』 国立国会図書館デジタルコレクション

読本挿絵は、物語の内容を把握して、墨一色という限られた色数で読み手を引き付けるような画力が求められ、北斎のダイナミックな画風は、まさに引く手あまた。当時の人気戯作者・曲亭馬琴と組んだ『椿説弓張月』の荒唐無稽な物語も、北斎のアイディアに富んだ挿絵があったからこそ大ヒットしたといわれているほどです。さらに、北斎は馬琴のみならず、山東京伝や柳亭種彦ら当時の流行作家の読本にわくわくするような挿絵を描いて人気作を連発し、名をあげていきました。そして、北斎が読本挿絵をとおして身につけた、わかりやすくて印象的な画風は、後の画業にも影響を与えることになったのです。

Z 絶筆

生涯最後に書いたもの、描いたものを表す「絶筆」。北斎にとって絶筆とされるのが、『富士越龍図』。北斎の名を世界にとどろかせた富士山と、そこから天に向かって龍が昇るという、大変めでたい画題です。

落款には嘉永(1849)年正月辰の日(11日か23日)とあり、同年4月18日に病没した北斎にとって、これが最後の肉筆の大作。素晴らしい出来いばえなのですが、若いころから老境にいたるまでもっとうまく描けるようになりたいと願いながら筆をとり続けたと伝わる北斎にとっては、全然満足できるものではなかったようです。

その根拠とされるのが、最後に残したことば。「あと10年、いや、あと5年生きられたら本当の絵師になれるのに」と言って、鬼籍に入ることを悔やんでいたというのですから、恐るべき情熱の持ち主であったことがよくわかります。

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※アイキャッチはメトロポリタン美術館より
※本記事は雑誌『和樂』2017年10・11月号より一部編集したもの