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2021.07.06

外国人居留地の言葉も横浜方言だって!?幕末の横浜港から考える多文化共生と日本文化の未来

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横浜方言と聞いて、どんな言葉が思い浮かぶだろうか?

じゃん?横はいり?

しかしながら、厳密に言うとこれらは横浜発祥の言葉とは言えないようだ。

1905年に山梨県で「じゃん」が使われていた記録があり、山梨県が発祥地と考えられている。それから、1940年代の静岡での空襲の記録に会話が記されていて、その中に「じゃん」が出てくる。静岡県清水市が舞台のマンガ、ちびまる子ちゃんの中でもおばあちゃんだけ「じゃん」を使うことがあるそう。東海道線各駅で調査した結果でも、静岡県で早く広がったと見られる。このような資料から、横浜よりも前に東海地方で使われていて、東海道を通って横浜に入ってきたと考えられる。

(横浜の地域情報サイト「はまれぽ.com」に2011年9月22日付で公開された記事より)

同じように「横はいり」も中部地方で使われていたものが、横浜に入ってきたものだという。

(同上)

横浜と言えば、国際港を有しつつ、インターナショナルに発展してきた街。外国人の存在なくして横浜の歴史を語ることはできない。よって、外国人居留地から生まれた言葉の存在も忘れてはならない。

例えば、大正11(1922)年に発表され、野口雨情(のぐちうじょう)が作詞を手がけたかの有名な『赤い靴』の歌詞に出てくる「いいじんさん」。

良い爺さんに聞こえるだとか、ひい爺さんに聞こえるだとか、そんな話はどうでもいいとして、実は外国人居留地で生まれた、正真正銘、横浜発祥の言葉だったのだ。

どうでもいいけど、もう100年前の曲なんですね。

横浜方言も色々!横浜港で外国人の商人が使う言葉もまた横浜方言

方言と聞いてまず思い浮かぶのが、大阪弁や博多弁、名古屋弁といったものではないだろうか。例えば大阪弁の場合、府内北部で話される摂津弁、東部の河内弁、南西部の泉州弁に分かれるが、これらを総称したのが大阪弁であり、一般にもそう認識されている。もはや大阪南港限定で話される言葉を大阪弁と考えている人はまずいない。

メトロポリタン美術館

さて、幕末の日本において横浜在住のイギリス人が日本語を学ぶ西洋人のために出版した教科書『Exercises in the Yokohama Dialect』(※)のタイトルの一部には「Yokohama Dialect(横浜方言)」の文字が。ここで言う横浜方言とは、安政6(1859)年の横浜開港から明治32(1899)年までの間において土地貸しや貿易業などの商取引のために、横浜港や外国人居留地で話されていた言葉を指す。

※幕末~明治にかけての日本語を知るうえでの参考になり得るとして、言語学者の間でも多数引用されている言語資料のひとつである。

たとえば、人種にもとづいた言語のバリエーションとして、日本の例で考えてみると、近年、多数のビジネスマン、就労者、学生が日本に長期滞在するようになってくるにつれて、こういった外国人の話す日本語というものが私たちの日常生活に浸透してきていることに気がつく。こうなってくると、外国人の話す日本語も1つの社会方言として確立してくるといえよう。

(東照二『社会言語学入門』)

実際は私たちが方言と聞いてまず思い浮かぶ大阪弁や博多弁、名古屋弁といったもののみならず、話し手の年齢、国籍・民族などの違いから来る言葉のバリエーションもまた「方言」である。言語学的には、前者は「地域方言」、後者は「社会方言」として定義される。

そもそも多くの外国人が出入りする横浜港や旧居留地は横浜のエリア内にあり、そこで話される言葉を横浜方言と捉えるのは不自然なことではない。

多様な国の多様な人々が出入りした横浜港

嘉永6(1853)年のペリー来航を機に、横浜港には多くの外国商船が往来していた。そして、その国籍(民族)は西欧系(ヨーロッパ・アメリカ)、中国系、マレー系、インド系と実に多様であった。外国人の数を国籍別に見ると、イギリスが最も多く、次いでアメリカ、ドイツ、オランダ、中国と続いた。

アメリカの商人たちが幕末の横浜市内をそろぞろと練り歩いていた。(出典:メトロポリタン美術館

国籍が多様であったがゆえに、さまざまな言葉が入り混じっていた。当時は「英語=国際共通語」ではない時代。あらゆる外国人と会話するために各国の文法を覚えていたのでは要領が悪く、とにかく共通語というものが必要であった。その共通語として生み出されたのが横浜ピジンと呼ばれる言語、すなわちここで言うところの横浜方言だ。

必要性に応じて作られた言葉だったんですね

英語のようで英語でない、日本語のようで日本語でない共通言語が誕生

その共通語には一定のルールがあった。と言っても、英語を学び始めた頃に多くの人が苦労したであろう、堅苦しい文法というほどのものではない。簡単に言うと、相手国の言語の文法と日本語の文法とをごちゃ混ぜで話すスタイルを踏襲しており、いわゆる“ルー語”と呼ばれるものに似ている。以下は『平家物語』の有名な冒頭部分であるが、ルー語訳風に訳すと、以下のように解釈される。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

(ルー語風の訳)祇園テンプルのベルのボイス、諸行無常のエコーあり。

「ルー語変換」での翻訳結果に基づく)

以下、ルー語と同じ原理で(ただし、全く同一ではない)、横浜港で実際に話されていたとされる一例を参照してみよう。

Your a shee cheese eye curio.

ユア ア シー チーズ アイ キュリオ?

Your=あなたの の部分しかわからない……

実は客が「骨董品を拝見したい」という意味合いで発していたとされる言葉なのだが、これを「よろしい。小さい骨董品」と意訳し、異国語っぽく発音した日本語を英語にそのまま当てはめて並べた結果が上記の文である。つまり、よろしいを英語っぽく発音したのが「Your shee」、小さいは「cheese eye」というわけだ。日本語と英語のチャンポンである点においては一見ルー語のようにも思えるが、細かく分析してみると、ルー語とは何だか違う。

ちなみに、上の例において骨董品を指す「curio」。「curiosity(キュリオシティ/好奇心)」の略称である「キュリオ」を指す。骨董品というのは希少価値の高い値打ちのあるもの。場合によっては「ハイキン(high kin)」と呼ばれることもあった。その言葉から何となく骨董品のイメージが想起されるのではないだろうか。

当時基本的に、水は「ウォーター」と言わなくても、日本語を異国語っぽく言い換えた「みーず(meeds)」で十分通じた。横浜旧居留地の外国人向けの教科書として出回っていた『Exercises in the Yokohama Dialect』には、水は「water」ではなく「meeds」として紹介されていたのだ。

こうして、日本語を異国語化した言葉をもって、外国人と日本人との間において共通語が形成されていた。以下、横浜の旧居留地などで実際使用されていたとされる単語・熟語リストである。

watarkshee(わたくし→わたーくしー)、oh my(おまえ→おーまい)、acheera sto(あちらのひと→あちぇーら すと)、sammy(寒い→さみー)、Oh Kashy(おかしい→おー かしぃ)、Mar key tobacco(まきたばこ→まーきーたばこ)、Enakka(田舎→いなっか)、Ah Kye sacky(赤い酒→あけぇ さっきー)、Matty toky(ストップウォッチ→待って時計→まてぃときー)、Meeds(水→みーず)、Knee Jew(数詞の20→ニー ジュー)nang eye(長い→なんがい)、tacksan(たくさん→たっくさん)

ストップウォッチは「待って時計」なんだ〜なるほど。

初期の東京語では語中に「ん」を挿入する傾向にあったが、この横浜ピジンにもこの特徴が継承され、「長い」を「なんがい」、「卵」を「たまんご」と発音するケースが見られた。

外国人と一言に言っても、西洋人と中国人とではその背景の文化が大いに異なる。西洋人と日本人間に形成された共通語と、中国人と日本人間の共通語とでは、語尾の発音などに若干の違いがあった。

例えば、数詞の「ひとつ」の場合、西洋人との間では「Stoats」、中国人との間では「Shtots’hi」と発音された。また、「ななつ」は西洋人との間では「Nannats」、中国人との間では「Sitchi」と発音された。

日本語の単語をベースに、日本人と外国人間で通じる共通語が形成されたわけだが、両者がそっくりそのまま対応関係にあるかと言えばそうではなかった。例えば日本語の「油(abura)」と、その言葉を元に形成された横浜ピジンの「あぼらー(aboorah)」。「油」が表すものと言えば、食用油だとか、オリーブ油だとか、せいぜいそういった類のものであっただろう。それに対し、「あぼらー」はこれらの油脂類のほか、バターやケロシン(石油成分のひとつ)、ポマード(男性整髪料)、グリースなど、何だか油っぽいもの全般に使える万能な言葉として機能していたのだ。

細分化しすぎるとかえって使い勝手が悪かったのかな

とにかく、外国人と日本人との間で通用する共通語として生み出された横浜ピジンが応用の利く使い勝手の良い言葉だったことは言うまでもない。神戸や長崎といった同じく港町として発展した街でも見られたほか、第二次世界大戦後も米軍と日本人間の会話において流用された。

幕末に横浜港で生まれた横浜方言は後に日本全国へと広まった

横浜の旧居留地や港などで形成されたデタラメ英語とも言える共通語だが、現代日本語の中にはそこから生まれたものも少なくない。例えば「ポンコツ」「ぺケ」はその一例である。

Caberra mono piggy.

そのまま解釈すると「かぶり物ぺケ」。横浜の一部の人々の間では「かぶり物(=帽子)を取りなさい」の意味合いで使われていた。何となく「ぺケ」が禁止を促す言葉として使用されているのが分かるだろう。

実際、「ぺケ」は横浜や神戸の港にて買主(主に外国商館)が商品買収の談合を中止し、受け渡しを拒絶することを指す言葉として使用されていた商業用語であり、その商品に対し「ぺケ品」と呼んだ。

一方で、当時大反響を呼んだ仮名垣魯文(かながきろぶん)の滑稽本『安愚楽鍋(あぐらなべ)』にも「ぺケ」が見受けられた。このことから、この時期にはすでに日本人に定着していたと言語学者のダニエル・ロング氏は解釈している。

この間寿仙へわちき(私)の知っているシャボンさんという異人さんが来て、牛肉を持って来て芸者に食べろと言うと、一座が、おたまさんに、ふく松さんに、小みつさんに、おらくさんサ、みんなが異人慣れないもんだから、嫌がって逃げて、歩くのを面白がって、追っかけちらして、おらくさんを捕まえて無理に口の端へ持っていったもんだから、おらくさんが大声をあげて泣き出したはね。そうするとみんなが異人さんをとめて牛肉をぺケにさせよう思ってさ。

(仮名垣魯文『安愚楽鍋』より)

「ぺケ」は各地の方言辞典にも記載されている。地方によっては若干意味が異なるものの、比較的短い間に日本全国へと広まっていったとされている。

「ぺケ」は明治31(1898)年出版の国語辞典『言泉』には西洋人が持ち込んだ言葉として紹介されている。だが、実際は西洋人のみならず、中国人の間でも使用されていた。ただその言葉のルーツを遡ると、中国人やマレー人が大きく関係しているようだ。

みなとみらいの波止場に高層ビルが林立する横浜の現在。(写真AC)

さて、横浜の外国人との会話の中で生まれた「ポンコツ」の話に移る。ちなみに、「pumgutz」や「bonkots」に由来する言葉として考えられているが、「pumgutz」のルーツを遡ると、マレー語の「pungut」から来たものであるとされている。当時開港場として機能していた長崎では「拳固で殴る」の意で用いられていた。ちなみに、『言泉』には、以下のような意味が記載されている。

ぽんこつ【名】『叩く音に擬していえる語』1. 拳固にて、人を打ち叩くこと。[俚語]2. 牛馬などを屠殺すること、又その職業。[俚語]

一方、『日本国語大辞典』(小学館)には「自動車の解体」の意味が記載されている。ちなみに、「拳固で殴る」も、「自動車の解体」も、「屠殺」も、現代の日本語において定着している「低級品、使い物にならないもの」も、それぞれ意味的関連性を有している。「拳固で殴る→屠殺→(同じ社会階層に属していた人が仕事として請け負っていた)自動車解体屋→ぼろぼろの車」の意味的変遷を経て、現代の意味での「ポンコツ」が生まれるに至ったとダニエル・ロング氏は解釈している。

変遷を知ると、その言葉の意味あいがよりわかりますね……

学校の帰り道に友人と別れる時に言う「バイバイ」。今や多くの日本人にとって馴染み深い言葉として定着しているが、元々は横浜在住の外国人と日本人間で通じる共通語として生まれたものであったのだ。ちなみに、「バイバイ」はそのルーツに中国系やマレー系が関与している。元々は「そのうちに」という意味合いで使われていたが、私たちが友人と別れる時に発する「バイバイ」にもそのような意味が込められているのではないだろうか。

幕末の横浜港から考える多文化共生と日本文化の未来

幕末の横浜の事例は、大陸や朝鮮から様々な文化が伝わったとされる弥生~古墳時代の北九州にもそっくりそのまま当てはめて考えることができる。当時北九州の港が日本の玄関口として機能していたわけであるが、そこには日本人と渡来人との交渉があった。渡来人と言っても、朝鮮系、中国系、モンゴル系……とさまざまな民族が混在していたであろう。恐らく幕末の横浜の事例に見るように、現地語の文法と、新たに流入してきた朝鮮や大陸などの言葉の文法とが組み合わさって、両者の中庸をとった共通語が生み出され、そこから日本語が形成された。これは新たな言語を習得するための方法として、言語学的に提示されている仮説である。

そもそも「日本語とは何か?」を突き詰めてみれば、太古には異民族との接触があり、その接触を経て形成されたのが日本語なのだ。

今後、介護や農業の分野においては外国人技能実習生の雇用が進んでいくことが予想される。古代や幕末~明治期の日本がそうであったように、もしかするとその流れの中で外国人話者との言語接触を経て、日本語は新たなフェーズを迎えると同時に、そこに新たな日本文化が芽生えるかもしれない。

(主要参考文献)
『Revised and Enlarged Edition of Exercise in the Yokohama Dialect』H Atkinson Franklin Classics 2018年
『社会言語学入門』東照二 研究社 1997年
『言語接触:英語化する日本語から考える「言語とは何か」』嶋田珠巳他編 東京大学出版会 2019年
「地域言語としてのピジン・ジャパニーズ-文献に見られる19世紀開港場の接触言語-」ダニエル・ロング『地域言語11』1999年
『The Languages of Japan』Masayoshi Shibatani Cambridge University Press 1990年
「Grammatical Features of Yokohama Pidgin Japanese: Common Characteristics of Restricted Pidgins」Aya Inoue 『Japanese Korean Linguistics 15』2007年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。