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2021.08.15

芭蕉はアルバイターだった!?神田川てくてく散歩が面白すぎる!

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過去アフリカのザイールに駐在し、今は都内の路地裏をさまよい歩く時田さんが神田川沿いを徹底解説!

井の頭公園の奥、吉祥寺通りの近くに水が湧き出している場所があります。緑に囲まれた小さな池のようで、あまり注目する人はいません。

この泉の水を汲み、関東随一の名水としてお茶をいれるのに使ったとされるのが、徳川家康。なので、この泉は「お茶の水」と呼ばれます。もっとも、1970年代に湧き水はかれてしまい、今はポンプで吸い上げられているとのこと。また、この一帯を「井の頭」と命名したのは徳川家光という話もあります。

しかし、家康の「お茶の水」も家光の命名も伝説にすぎないとする資料もあるようで、その真偽はわかりません。

ただ、井の頭池が『江戸名所図会』に「旱魃(かんばつ)にも涸(か)れることなし」と記され、江戸幕府が開かれる前後の慶長年間、この池を主水源にした神田上水が完成し、日本最初の上水道として江戸の人々に利用されたのは事実。以後、明治末まで300年近くにわたり神田上水は江戸、東京を潤したのです。

現在、神田上水は神田川の名前で知られます(本当はもう少し複雑ですが、その話はまた後で)。

今回は、神田川沿いを約25km先の河口へ向かって散策しながら、そこに点在する物語に触れていきます。あの名曲『神田川』のことや神田川が実は染物の川であること。そして、松尾芭蕉が若い頃、神田川の工事現場で働いていたことなど、その内容は実に多彩。

でもまずは、井の頭公園のことについて紹介しておきましょう。

カップルでボートに乗ると……

家康、家光伝説は知らなくても、「井の頭公園でカップルがボートに乗ると別れる」という都市伝説は知っている人が多いのではないでしょうか。

お茶の水近くから眺めた井の頭池

本当かどうかは知りませんが、その根拠とされるのが井の頭池の小さな島に祀られた弁財天様。弁財天女像が10世紀半ばに安置され、源頼朝がお堂を建てたとされます。弁財天様がカップルに嫉妬して、別れさせるというのが都市伝説となっているわけです。ちなみに、本堂の裏手には銭洗い弁財天もあるのですが、意外と知らない人は多いようです。

江戸時代、井の頭池が神田上水の水源となったこともあり、江戸の人々の弁財天様への信仰は篤(あつ)く、特に商人たちが石橋や灯籠などを寄進しました。本堂前の太鼓橋近くには、「日本橋」と刻まれた石灯籠があり、後ろの階段には「両国」の文字が刻まれています。

どんな文字が彫られているか見ながら歩くのも楽しそう

弁財天前の灯籠には「日本橋」と刻まれている

乾物屋や鰹節問屋のほか、染物職人も寄進をしていました。江戸っ子の“粋”の象徴とされた「江戸紫」は、この辺りで栽培されていた紫草の根を原料に、井の頭池の水で布をさらして実現したと伝えられます。

江戸の人々にとって、井の頭池、そして弁財天様は、今よりも相当大切な存在であったことは確かなようです。

弁財天様も単なる嫉妬ではなく、挨拶がないことにご立腹でカップルを別れさせる(?)のかもしれません。

江戸時代の浮世絵にも弁財天様のお堂が描かれていました

『名所江戸百景 井の頭の池弁天の社』 歌川広重 国立国会図書館デジタルコレクション

井の頭公園にはプールがあった!?

明治になると、井の頭池周辺は宮内省(現、宮内庁)の御用林となり、その後、池の西側の御殿山に、井之頭学校が開設されました。この学校は、更生の必要がある少年などへの自立支援を行う施設で、小石川にあった東京市養育院の一部が移転されたもの。養育院の院長は、渋沢栄一でした。

渋沢は生徒たちの園芸実習の場として、井の頭を公園とする必要を説きます。それ以前にも井の頭池一帯を公園とする構想はありましたが、渋沢の尽力が大きなきっかけとなり、1917(大正6)年5月1日、井の頭公園は日本で最初の郊外型公園として開園したのです。

その後、1921(大正10)年8月2日、東京市は来園者を増やすために、東京市で初めての施設を開きます。それが、井の頭池に作られた天然のプール(水泳場)でした。当時の写真を見ると、なかなかの、というか、ものすごいにぎわいです。

水泳場(画像提供:公益財団法人東京都公園協会 みどりの図書館東京グリーンアーカイブス)

それからも、1928(昭和3)年にはスケート場、1929(昭和4)年にはボート場が開設。1930(昭和5)年には、少年だった手塚治虫も訪ねたという昆虫陳列館・平山博物館が開館。さらに1933(昭和8)年には天然プールが廃止され、コンクリート製の本格的なプールが登場、1983(昭和58)年まで利用されていました(1985年に撤去)。

井の頭公園に関する本はいろいろとありますが、2017年に刊行された『井の頭公園100年写真集』(ぶんしん出版)は写真や図版も多く、井の頭公園の姿を知ることができます。

神田川沿い散策へ

さて、井の頭公園を離れて、いよいよ神田川沿いの散策へ。神田川の起点は、水門橋の横に記されています。

水門橋は井の頭池の東の橋にあるそうです

神田川の起点、水門橋。小さな木の板に「ここが神田川の源流です」と書かれている

午前10時ちょうどに出発。京王井の頭線の線路の下をくぐり、しばらくは線路沿いを川は流れていきます。三鷹台駅の近くまで、川面は葦(あし)に覆われています。

葦に覆われた神田川。横を井の頭線が走っていく

三鷹台駅を過ぎたあたり。緑の多い閑静な住宅街を流れる

なお、井の頭公園の井の頭池周辺は三鷹市ですが、自然文化園などがある御殿山は武蔵野市。三鷹台駅の少し先まで、神田川は三鷹市を流れ、続いて杉並区へと入ります。武蔵野の閑静な住宅街をのんびり歩き、久我山駅のあたりで出発してから約30分。およそ2kmの地点へと来ました。

久我山駅から少し歩くと京王電鉄検車区となっていて、電車が何台も止まっています。川を挟んで反対側は緑に覆われた崖になっていて、その先には運動場があり、今までの住宅街とは違って、ぽっかりとそこだけ自然に恵まれた郊外のような雰囲気。ふと2、3m下を流れる川を見下ろすと、カモが数羽すいすいと泳いでいました。

カモをはじめ、神田川には意外と鳥や魚が多く見られる
神田川のイメージが変わるなぁ

運動場を過ぎ、富士見ヶ丘駅付近から再び住宅街になり、都営のアパート群を抜けると高井戸駅。駅のすぐ横は環八通りで、久々に行き交う車を目にしました。ここまで約1時間の道のりです。

縄文遺跡と太田道灌ゆかりの神社

高井戸駅から2、3分歩くと、川は井の頭線から離れ始めます。高井戸駅から20分弱歩くと、右手に塚山公園が現れます。最寄り駅は井の頭線浜田山駅。徒歩15分ほどの距離です。ここは1937(昭和12)年に縄文時代の竪穴式住居が発見された場所。園内には復元された住居があり、その前の管理事務所の資料館には石斧や土器が展示されています。

浜田山に縄文遺跡があったなんて知らなかった!

塚山公園の復元住居

塚山公園から5分ほど歩くと下高井戸八幡神社の下に着きます。創立されたのは1457(長禄元)年。「太田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願って、家臣の柏木左衛門に命じて建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したもの」(『杉並区史跡散歩』学生社)と伝えられます。道灌がなぜこの地を選んだのかを示す資料はありませんが、塚山公園の縄文遺跡からもわかるとおり、このあたりは太古から人々が暮らしてきた土地。この一帯はどこよりも歴史が古い、重要な場所だったのではないでしょうか。

さらに10分ちょっと歩くと荒玉水道道路に出ます。この道路はその名前の通り地下に水道管が埋設された水道専用道路。4t以上の車両は通行禁止です。このあたりで時刻は正午くらい。道路の先は、以前は東電総合グラウンドでしたが、2017年に下高井戸おおぞら公園となってオープン。広々とした気持ちのいい空間となっています。

イラストタイルから取水施設へ

荒玉水道道路から約10分。永福体育館の近くの川沿いの壁には、イラストが描かれたタイルが並んでいます。頭文字が丸で囲まれていて、『神田川再発見』(東京新聞出版局)には、頭文字がしりとりでつながっていると書かれています。

最初が「かわせみさん」。「いや、いきなり『ん』やんけ!」と突っ込んでしまいましたが、次が「んんと考えるだ」、続いて「だみ声の尾長」。頭文字が「かんだ」となるので、「ん」が必要な理由はわかりました。頭文字をつなげると「かんだがわのおもいで」となります。何が描かれているかは、ぜひ足を運んで確かめてみてください。


このあたりも住宅街ではありますが、川幅が少し広くなっているためか、風景の雰囲気が少し変わってきています。そして、イラストタイルから15分ほどで目の前には線路が。しばらく遠ざかっていた井の頭線の下をくぐります。場所は永福町駅と明大前駅のちょうど中間あたり。

20分ほどさらに進むと、川の左側が大きく開いたような場所があります。神田川・環状七号線地下調節池の取水口です。神田川、善福寺川などからあふれた約54万㎥の水を貯蓄するための施設で、環状7号線の下に内径12.5mの巨大なトンネルが4.5kmにわたり建設されています。施設の詳細については、東京都第三建設事務所のpdfなどに紹介されています。

調節池の取水口

トンネルの内部(画像提供:東京都第三建設事務所)

現在、コロナの影響で中止されていますが、施設内の見学も実施されていました。今後再開されたときには、ぜひともその中に入ってみたいものです。
神田川・環状七号線地下調節池

少しずつ都会の雰囲気に。そして都庁が見えた

取水口は環七通りに隣接してます。通りを渡った少し先で、杉並区から中野区へと移ります。地下鉄丸ノ内線車庫に沿って行くと、神田川に善福寺川が合流。神田川にはいくつかの川が合流しますが、その中でも最も大きな流れといえます。

神田川に下から合流しているのが善福寺川

丸ノ内線中野富士見町駅の近くに13時15分頃到着し、ここで昼食。13時40分に出発しますが、しばらく川沿いの道がなく、10分ほど住宅街の中を歩きます。再び川沿いの道に出ると、まわりの建物にビルやマンションが多くなっていて、都会の雰囲気が濃くなっています。そして、川の向こうに現れたのは東京都庁。いつの間にか新宿へと近づいていたのでした。かたわらに立つ里程標には、水源から11.6kmと書かれていました。

11km!かなり歩いてる!見える景色の変化を楽しめていいね

14時頃に山手通り、その12分後頃に青梅街道と都会の中へと進んでいきます。青梅街道の先には、「神田川四季の道」(左岸)、「やすらぎの散歩道」と名づけられていて、四季折々の花が植えられています。

33分で誕生した名曲『神田川』

青梅街道から徒歩10分弱、大久保通りの末広橋のたもとに小さな碑があります。『神田川』の歌碑です。しかし、曲のイメージだと、歌の舞台はもう少し早稲田に近いようなイメージも。

歌碑の設立については、1996(平成8)年12月7日付の読売新聞に記事が出ていました。歌碑の除幕式が行われたのは、前日の6日。歌碑は、「神田川四季の道」の工事に携わった建設会社の社長が中野区に寄贈したもので、本当は高田馬場近くに設置が検討されたものの、適当な場所が見つからず、この道沿いに置かれることになったと書かれています。

『神田川』誕生の背景については、2008(平成20)年7月27日付東京新聞の「東京歌物語17」で紹介されています。『神田川』が発表されたのは1973(昭和48)年。作詞をした喜多條忠さんは当時25歳で、早稲田大学の学生だった頃の「青春時代を総括するつもりで」、30分ほどで一気に書き上げたそうです。

その詩を、南こうせつさんに伝えた喜多條さん。FAXもない時代なので、電話で詩を読み上げました。「こうせつは即興で口ずさみながら、折り込みチラシに書き取っていく」。そして、電話を切って3分後には、曲が完成していたといいます。フォークソング史に残る名曲『神田川』は、33分で誕生したのでした。

昔、カラオケで歌ってたな〜老若男女に愛される名曲

さらに10分近く歩くと、前にJR中央線の線路が見えてきます。線路手前の万亀橋に着いたのは、14時半。1日目はここまでで、続きは翌日歩くことにしました。

伝統的な染物の町 新宿

翌日13時、万亀橋から散策を再開。10数分歩いた先の小滝橋(早稲田通り)を境に新宿区へと入ります。この辺の住所は高田馬場。JR山手線の高田馬場駅はもうすぐですが、手前の戸塚第三小学校のあたりで川沿いの道は途切れて、路地へ。小さな公園を抜け、家と家の間の狭い道を抜け、東京富士大学の前から商店街を通って高田馬場駅へ着きました。時刻は13時45分。ここからは都心の散策です。

しかしながら、高田馬場付近の神田川と、神田川に合流する妙正寺川は、東京染小紋や東京手描友禅に代表される染色業が地場産業として息づいている土地。東京の人でも、知らない人は多いのではないでしょうか。江戸時代、神田や浅草が染屋の中心でしたが、明治、大正時代に都市化が進むと、染屋は神田川をさかのぼり、早稲田から高田馬場にかけて移ったのです。

染めた後の布を洗うとか、染色は結構水を使うって聞いたことある〜

現在でも、数多くの染色関連の工場や作業場は点在していて、水元(みずもと。着物の染色時についた糊や色を洗い流す工程)の再現イベントなども行われています。コロナ禍で多くのイベントなどは中止となっていますが、さまざまな染色関連の情報は「新宿区染色協議会」のホームページで紹介されています。

現在はコロナ禍のため中止されているが、毎年イベントが開催されている(画像提供(2点とも):新宿区染色協議会)

新宿区染色協議会

太田道灌が和歌の勉強に励むきっかけ

明治通りの高戸橋を渡ったのは14時頃。目の前を都電荒川線の電車が走っていきます。神田川沿いには「魚道(ぎょどう)」の説明版がありました。川の流れを弱めるための段差があったところに、魚が遡上できるように設けられた移動用の道で、一度は姿を消していたアユが再び確認できるようになったとのことです。

少し先の面影橋のたもとには「山吹の里」碑があります。鷹狩りに出かけた若き日の太田道灌は雨にあい、農家の若い娘に蓑(みの)を借りようとしましたが、娘は山吹を一枝差し出したのみでした。「どういうことだ?」といぶかしむ道灌に、後日ある人が、『後拾遺(ごしゅうい)集』の古歌「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」にかけて、ひとつの蓑もないことを恥じたのだと教えます。道灌はおのれの無学を痛感し、以後、和歌の勉強に励んだのでした。この伝説からこのあたりは「山吹の里」と呼ばれます。ただし、「山吹の里」については横浜や埼玉などいくつか説があり、定かではありません。

「山吹の里」碑。現在は工事用フェンスに囲まれている
これは高田馬場の面影橋を描いた浮世絵。川がばっちり描かれてる!

『名所江戸百景 高田姿見のはし俤の橋砂利場』 歌川広重 国立国会図書館デジタルコレクション

ちなみに、「山吹の里」から先しばらくは、新宿区と豊島区の区の境界線が複雑に入り組んでいるところ。境界ファン(?)には、よく知られた場所です。これは昔の神田川の流れに沿った境界線ですが、川筋が整備されたあとも、そのまま残っているとのこと。豊橋の近くに地図があります。

30代松尾芭蕉 バイトで現場監督に!?

14時20分、駒塚橋に到着。この橋のたもとに関口芭蕉庵があります。現在の建物は戦後に建てられたものですが、かつて松尾芭蕉がこのあたりに住んでいたとされます。

神田上水が完成したのは、3代将軍徳川家光の時代といわれますが、元禄時代の直前、1677(延宝5)年から4年間、上水の改修工事が行われました。その工事を監督したのが、当時34歳の松尾芭蕉(当時の号は桃青(とうせい))でした。江戸に出てきた芭蕉は、日本橋小田原町(現、中央区日本橋室町)の魚問屋の貸家に住んでいましたが、神田上水の改修工事期間、関口芭蕉庵のあたりに暮らしました。

芭蕉が“現場監督”を始めたのは、俳諧の師匠となる1年前のこと。この大切な時期に、なぜ俳諧や文学とは無縁の“副業”をしなければならなかったのか? 諸説あるものの、やはり「俳諧だけでは、まだ生活できなかったから」というのが通説のようです。中には「忍者としての技量をみがくため」という説もあるようですが……。詳しくは、神田川芭蕉の会が発行している『神田上水工事と松尾芭蕉』(東京文献センター)をご参照ください。

左に見える建物が関口芭蕉庵。右手に椿山荘の庭園が隣接している

水を町中に引いた関口大洗堰

関口芭蕉庵の手前からは文京区に入っています。芭蕉庵は椿山荘の庭園に隣接しています。10分弱歩くと、江戸川公園に着きますが、ここには神田上水で最も重要な場所、関口大洗堰がありました。

冒頭で、神田上水は神田川の名前で知られる云々の話をしましたが、かつては井の頭池からこの大洗堰を神田上水、大洗堰から飯田橋駅近くの船河原橋を江戸川、船河原橋から河口の柳橋を神田川もしくは外濠と呼んでいました。この外濠は江戸初期に掘られた人工の川で、仙台藩が工事に当たったことから仙台堀とも呼ばれます。神田川の名前で統一されたのは、河川法が改正された1965(昭和40)年のことです。

日本最初の水道とされる神田上水は、徳川家康の命で1590(天正18)年に着手され、1629(寛永6)年に完成したとされます。関口大洗堰がつくられたのも1630年頃。洗堰は川幅いっぱいに築かれた堰のことで、水位を高めるのが目的でした。ここで取水された神田上水の水は、現在の巻石通りの堀を流れ、水戸藩上屋敷(現、小石川後楽園)へ入り、そこから埋樋(うずみひ。埋められた樋)で神田や日本橋など江戸の中心への給水が行われました。取水されなかった流れは滝となって江戸川に落ちていたわけですが、その光景は『江戸名所図会』などにも描かれ、名勝地ともなっていたようです。

江戸川公園には関口大洗堰についての解説版が設置されている
関口目しろ不動 で調べると、当時の様子を描いた浮世絵がでてきました

さて、ここから先は高速道路が川の上を走り、風景は一変していきます。

江戸の水道に仰天 東京都水道歴史館

江戸川橋を14時35分に出発。高速道路に覆われた神田川沿いを、大量の車が行き交う中歩くというのは、これまでとはまったく異なる環境です。30分弱で飯田橋駅付近に着きますが、歩道橋を渡ると方向感覚がわからなくなります。船河原橋を確認して、高速道路が続く川沿いの外堀通りへ入ります。

江戸川橋から先、神田川の上には高速道路が続く

15時30分、小石川橋に差しかかりますが、ここからはもう一つの流れである日本橋川が分かれていますので、後で戻ってきます。そこから10分ほどで水道橋に。橋には『江戸名所図会』の「神田上水掛樋」図のレリーフがあります。埋樋で運ばれてきた水は、外濠の上を掛樋(かけひ)という、いわゆる橋で渡されていました。だからここは水道橋なのです。


水道橋から外堀通りは登り坂になります。右手が仙台堀で対岸にはJR中央線と総武線が行き来しますが、堀の深さには改めて驚かされます。重機などがない時代にこれを掘ったことに脱帽です。

水道橋を描いた浮世絵がありました!昔は鯉のぼりがたくさん見れたんですね。

『名所江戸百景 水道橋駿河台』 歌川広重 国立国会図書館デジタルコレクション

ここでぜひ立ち寄りたいのが、東京都水道歴史館。その名のとおり、水道の歴史について展示されていますが、江戸時代の水道システムにもびっくり。埋樋を通ってきた水は、上水井戸に貯められ、その水を人々が利用していました。その「水道網」の広がりには目を見張ります。

東京都水道歴史館では江戸時代の「井戸端」の再現も

その構造もよくわかる。場所によっては埋樋が深い場所に設けられていた

東京都水道歴史館の庭では、移築・復元された神田上水石樋(せきひ。石で作られた樋)を見ることができる(画像提供:東京都水道歴史館)

東京都水道歴史館

江戸城鬼門除けの神社をお参りして河口へ

水道橋からお茶の水橋までは徒歩15分ほど。ここから道は下り、聖橋をくぐって秋葉原へと下っていきます。かつて中央線の始発駅として1912(明治45)年に開業した旧万世橋駅のレンガ建築を眺めながら、万世橋を渡って柳原通りへ入ります。なお、聖橋をくぐった少し先からは台東区です。

旧万世橋駅はショップやカフェが入る建物としてよみがえっている

柳原通りを歩き、山手線、京浜東北線の線路を越えた左手にあるのが柳森神社。16時10分の到着です。1458(康正4)年に太田道灌が江戸城の鬼門除けとして祀った社で、1659(万治2)年に現在地に移されました。徳川綱吉の母・桂昌院が福禄寿を祀った社もあります。八百屋の娘だった桂昌院は、春日局に見い出されて家光の側室となり、綱吉を産みました。その“他を抜く”異例の出世から、社は「お狸さま」と呼ばれ、開運出世や商売繁盛などにご利益があるとされます。

柳原通りは神田川とは少し離れて平行に続きます。昭和通りを渡り、清洲橋通りを渡り、JR総武線の浅草橋駅が左に見える江戸通りを渡ると、また川沿いの道があります。秋葉原を過ぎた頃から、川は下流のゆったりした流れになり、浅草橋からは屋形船の一群が両岸を埋めています。

秋葉原から先はゆったりとした流れに

浅草橋駅に近い浅草橋からの眺め

そして、最後の橋、柳橋へ。最初の橋は、1698(元禄11)年に架けられました。現在の緑の鉄橋は1929(昭和4)年に完成したものです。到着は16時40分でした。

神田川が注ぐのは隅田川。コロナ禍でなければ、屋形船がたくさん浮かんでいるはずの光景を想像しつつ、浅草橋駅へと戻ります。

皆でわいわい乗る日を心待ちにしています


日本橋川へ 江戸の石垣と新しい緑道

浅草橋駅から総武線に乗り水道橋駅で下車して、小石川橋のたもとへ。ここから神田川の分流、日本橋川沿いを歩きます。時刻はちょうど17時。日本橋川の長さは4.8kmです。

小石川橋からの眺め。右手に分かれているのが日本橋川

日本橋川の上にも、高速道路が続きます。オフィス街のアイガーデンエアを右に見つつ、川沿いきれいに整備された道を散策。ちなみに、ここは千代田区です。靖国通りを渡り、千代田区役所の裏手に着いたのは17時20分頃。北の丸公園、皇居東御苑に沿うようにして、日本橋川は流れています。

ビル群の中を抜けていく川筋で、興味深いのは江戸時代の石垣です。毎日新聞社などが入るパレスサイドビルの裏手に続く石垣は、打ち込みはぎ様式とよばれる古い積み方とのこと。現在も残っているのは、たいへん珍しく、貴重な文化遺産です。この先の一ツ橋は、一橋家の屋敷があった場所。千代田区役所から約10分の道のりです。

次の橋、錦橋は気象庁の裏手にある橋。以前は川沿いの道がなかった気がしますが、2014(平成26)年に大手町川端緑道が完成。都心のしゃれた遊歩道を歩くことができるようになりました。

経団連会館などのビルの横をとおり、JRの線路下をくぐり、17時52分に常盤橋公園に到着。ここは江戸初期、北町奉行所が置かれていたところです。

現在、公園は部分的に工事中ですが、日本橋川に架かる常盤橋は今年2021年5月から通行可能となりました。常盤橋は1590(天正18)年に架けられたとされ、奥州街道につながる江戸城の玄関口として重要な役割を果たしていました。明治になり、石橋となりますが、関東大震災で大きな被害を受けます。その再建に尽力したのは、渋沢栄一でした。東日本大震災で再び大きな被害を受けた常盤橋は、浮世絵や古い写真を参考に修復工事が行われ、ようやく本来の姿に再現されたのです。

渋沢栄一って色んなことをしてるんだな〜

日本橋、そして隅田川へ

常盤橋の正面には日本銀行が建っています。ここからは中央区。少し進むと、車が行き交う常盤橋があり、続いて一石橋を渡ります。この橋のたもとには、迷子しらせ石標というものが残っています。江戸時代後半に入る頃、このあたりから日本橋にかけては盛り場で迷子も多く、探す人、預かっている人それぞれが、迷子の似顔絵、着物の柄などの情報を書いた紙を貼って利用したとのこと。立てられたのは、1857(安政4)年のことです。

日本橋に着いたのは18時5分。江戸時代、日本橋から次の江戸橋にかけて魚河岸があったことはよく知られています。築地に移ったのは、関東大震災後の1923(大正12)年でした。

日本橋の上からの眺め

ここでぜひ足を延ばしたいのは、室町仲通りにある松尾芭蕉の句碑です。芭蕉が神田川の工事に関わっていたのは前述のとおり。工事中は関口芭蕉庵でも暮らしましたが、それ以外、芭蕉はここの魚問屋の貸家に住んでいました。当時の号は桃青。1678(延宝6)年、俳諧の宗匠(師匠)となり、その翌年の正月に心意気を詠みあげた句が刻まれています。

発句なり 松尾桃青 宿が春      桃青

芭蕉の強い決心が伺える〜

解説版には、このあたりは魚河岸に近く、「芭蕉は魚市場の喧噪を耳にしながら暮らしていたのである」と記されています。

日本橋から歩いて30分弱、高速道路が箱崎方面へ方向を変え、川の上は開けます。一石橋から川沿いの道はありませんでしたが、建物の向こうに日本橋川を感じつつ、河口に架かる豊海(とよみ)橋へ到着。時刻は18時36分。

豊海橋は白いはしごを横にして架けたような、かわいらしいデザインです。隅田川の向こう、すぐ近くには淡いブルーの永代橋が見えました。

最後に、亀島川へ

永代通りを戻って、最後に亀島(かめじま)川を下ります。高速道路が日本橋川から離れたあたりに水門があり、全長約1kmの亀島川が隅田川へと注いでいます。日本橋川、亀島川と隅田川に囲まれた亀島の名前の由来は、亀に似た小島だったためとも、瓶を売る商人が多かったためともいわれています。現在の住所は中央区新川です。

18時47分、霊岸橋を渡り、亀島川に沿った道へ入ります。霊岸橋は、この地に建てられた霊岸寺に由来。霊岸寺は1624(寛永元)年に浄土宗の僧、霊巌が亀島一帯を埋め立てて建立した寺ですが、明暦の大火で焼失し、深川へ移転しました。

5分ほど歩いた亀島橋のたもとには、堀部安兵衛の碑があります。赤穂浪士の一人として有名ですが、赤穂浪士が吉良邸討ち入りのあと、泉岳寺へ向かうとき渡ったと伝えられることから建てられたものです。道を挟んで反対側にも解説版があります。謎の浮世絵師、東洲斎写楽がここに住んだとの説が書かれていますが、その説の真偽は不明。また、伊能忠敬も最晩年亀島に住み、この地で没したとのこと。こちらは確かなことです。

真偽の程は不明のものがあるにしても、名だたる人(?)にゆかりがある地なんですね

なお、橋を渡った先には、於岩稲荷も。『東海道四谷怪談』の主人公、お岩さんを祀った神社としては、四谷にある神社が知られていますが、明治初頭、『四谷怪談』を上演する歌舞伎役者などの願いによって、交通の便のよいこの地に勧請されました。

亀島川に架かる最後の橋は南高橋(みなみたかばし)。ちょうど19時に到着しました。

橋のすぐ先には水門があります。霊岸橋の先、日本橋川との間にも水門がありました。亀島はふたつの水門で守られているわけです。

井の頭公園から始まった神田川沿いの散策。紹介してきたのは、見どころのほんの一部です。武蔵野の自然や住宅街から、都会のダイナミックな風景まで、神田川の散策は、知っているようで知らなかった東京の多彩さを体感する小旅行でもありました。

歩いた時間は、神田川は2日あわせて約8時間。日本橋川は1時間40分ほど。亀島川は15分くらい。あきることなく楽しく歩くことができます。ちょっと疲れたけど。

こんなに景色が変わるとは思っていなかったので面白かったです!


隅田川との間にある水門の向こうには、佃島のタワーマンションが並んでいた

書いた人

1968年、北海道オホーツクの方で生まれる。大学卒業後、アフリカのザイール(現コンゴ)で仕事をするものの、半年後に暴動でカラシニコフ銃をつきつけられ帰国。その後、南フランスのマルセイユで3年半、日本の旅行会社で3年働き、旅行関連を中心に執筆を開始する。日本各地や都内の路地裏をさまよい歩く、または右往左往する日々を送っている。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。