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2021.08.19

近代はここから始まった?日本史上最後の内戦「西南戦争」で何が起きなかったか

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はじめに

西南戦争が勃発したのは、明治6年政変に敗れた西郷隆盛が鹿児島に帰郷して4年目のことで、日本史の時代区分では近代の始まりを西南戦争以後と規定する研究者もいるくらい、重大な転換期です。明治政府の事実上の首班だった大久保利通は、生まれ故郷の鹿児島県を敵として戦いました。鹿児島の士族もまた、政府残留組の肉親や知己を相手に戦いました。そうしたツライ思いをしてまで、なぜ両陣営は戦ったのでしょうか。

不平士族と私学校

岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら政府の要人たちは、征韓派が去った穴を塞ぐため、勝海舟を参議兼海軍卿に、寺島宗則を参議兼外務卿に、伊藤博文を参議兼工部卿に、大木喬任を参議兼司法卿に起用し、また、強い行政権限を持つ内務省を新設、利通を参議兼内務卿としました。勝海舟が入閣しているとおり、必ずしも薩長土肥の藩閥ばかりではありませんが、一握りの権力者が運営する政権なので「有司専制」と呼ばれ、ことある毎に批判を浴びていました。

一方、野に下った隆盛は、ともに政府から離れた薩摩出身の陸軍将校たちと鹿児島に私学校を設立しました。

全国の士族は、明治9年から俸禄支払いが停止(秩禄処分)されるため、なんらかの生業に就かねばなりません。士族に生活の途を与える「士族授産」は、明治初年の日本にとって重要なテーマでした。

政情が安定せず、先行きが見えないなかで、士族らは先祖伝来の俸禄を失う不安と、徴兵令布告によって武人としての存在意義を失うことに憤る者も少なからず、また攘夷主義を捨てきれないで、政府による開化政策を忌み嫌う者もいました。それら政府に不満を持つ士族らを「不平士族」といいます。

隆盛が鹿児島に設立した私学校は、開拓事業を興すとともに、私設士官学校というべき軍人育成を目的とする「幼年学校」、「銃隊学校」、「砲隊学校」の三校を開校させました。これらは私設士官学校ともいうべき教育機関でした。創設のため原資は、戊辰戦争の賞典禄のうち隆盛が2000石、利通が1800石を拠出しています。隆盛が野に下ったきっかけは、隆盛の政治的敗北であるのは間違いありませんが、その一方で隆盛は薩摩出身の不平士族を東京から鹿児島へ隔離する役割を担っており、そのことを政敵である利通も充分にわかっていたのです。

あいつぐ士族反乱

明治7年、隆盛とともに征韓論を唱えた江藤新平らが、佐賀の乱を起こしました。薩摩士族も呼応するのではないかと懸念する声もあって、島津久光が鹿児島の人心を鎮めるため東京から帰郷しました。そのとき隆盛は山川の温泉に滞在していましたが、かつて主筋であった久光の呼び出しに応じて鹿児島に戻りました。久光は隆盛に「兵を率いて佐賀勢を鎮定してはどうか」と勧めました。参議の職を辞した隆盛でしたが、依然として陸軍大将だったのです。隆盛は「徴兵制のもとで、新しい陸軍が創設されたので自分の出番ではありません」と辞退しています。

政府側は電信によって迅速に情報を伝達することで戦いを有利にし、ほどなく佐賀勢を打ち破りました。新平は鹿児島に逃れ、隆盛に助力を願いましたが、隆盛は応じません。そして、高知県で逃走中に捕らえられ、斬首されました。

明治9年、秩禄処分が大詰めを迎えると、それに伴って俸禄を失う士族の不満は頂点に達します。10月には連続して三件の叛乱事件が起きました。熊本神風連の乱、秋月の乱、萩の乱がそれで、いずれも激情の赴くまま無計画に士族たちが蜂起したまでにすぎませんが、政府はそれが火種となって、鹿児島の私学校という不発弾に引火誘爆することを怖れました。

火薬庫襲撃

私学校党の実権は、湯治に引き籠もりがちの隆盛から桐野利秋の手に移っていました。利秋は反政府強硬論の最右翼に位置する人物で、やがて私学校は暴走を始めてしまいます。

すでに鹿児島県は政府の指示には従わず、自治体というよりは独立国家の様相を呈していました。東京の利通は懐柔策を採って政治的手段による鹿児島問題の解決を図っていましたが、萩の乱で同族相撃つ戦いを強いられた長州閥から、鹿児島県に対する態度を強硬にすべきではないかと迫られ、利通は方針を転換せざるを得なくなりました。

利通は鹿児島県の情勢の内偵を命じ、また、鹿児島城下に蓄えてあった弾薬類を大阪へ運び去る計画を実行に移しました。

この二つの策は双方とも大失敗でした。

鹿児島に潜入した警視庁の密偵・中原尚雄は、その正体を見破られ、東京から派遣された密偵の多数が芋蔓式に私学校党によって逮捕されてしまいました。そして、中原は拷問によって「隆盛暗殺が計画されている」と”自白”させられました。

また、夜陰に乗じた弾薬の搬出作業は露顕し、むしろ私学校党を刺激してしまいました。これを東京から鹿児島への挑発行為であると解釈した私学校党は、ついに火薬庫を襲撃、銃や弾薬を奪い取るという暴挙に及びました。

ことここに至って、隆盛は私学校での対策会議にさえ呼ばれませんでした。幹部連中は盛んに若手を扇動して、さらに火薬庫襲撃を重ね、多数の旧式銃と弾薬を奪い取りました。

東京では、火薬庫襲撃事件の発生を知った利通が「不幸の幸…略…心中には笑を生候位に有之候」と伊藤博文への書状に記しています。

名もなく義もなく実に天下後世中外に対しても、一辞柄の以て言訳も不相立次第、実曲直分明、正々堂々其罪を鳴らし鼓を打て之を討せば、誰か之を間然するものあらんや、就ては此節事端を此事に発きしは、誠に 朝廷不幸の幸と竊に心中には笑を生候位に有之候、前条次第に候得は、西郷におひては此一挙に付而は、万不同意、縦令一死を以するとも不得止、雷同して江藤・前原如き之同轍には決而出で申まじく候、万々一も是迄之名節砕て、終身を誤り候様之義有之候得は、さりとは残念千万に候得共、実不得止、是まで之事に断念仕外無御座候

勝田孫弥 著『大久保利通伝』下巻 p644

私学校党による火薬庫襲撃に、なんら大義名聞はない。堂々と討伐するのに、誰が異議を唱えるだろうか……というのです。

そして「朝廷にとっては”不幸の幸”なので、心中ひそかに笑みを浮かべているくらいだ」……肝心なのは、このあとに書かれた部分で「西郷に於いては、この一挙に不同意に違いない」と、看破しているのです。事実、隆盛があずかり知らぬところで起きた事件でした。

そして「事件を起こした連中に雷同して、(佐賀の乱の)江藤や、(萩の乱の)前原の轍を踏むことはないだろう」と、事態を見ています。

どうやら利通は、この事件をきっかけに私学校の叛乱分子を徹底的に弾圧し、それによって盟友隆盛を救い出すきっかけとなることを期待していたように思えます。

ついでに言えば、西南戦争勃発後も隆盛が薩軍に参加しているはずが無い(利秋が主導した叛乱だ)と考えていた政府高官は少なくありません。利通もまた、その一人だったでしょう。

策謀家の利通が計画した弾薬撤収計画は、隆盛を救出するどころか、かえって窮地に追い込んだのでしたが、先述した博文宛の書翰にもあるとおり、「ついに身を誤ったのであれば、それは残念千万だけれども、本当にやむを得ない、これまでの事だ」という覚悟はしていました。

隆盛が鹿児島市内の状況を知らされたのは、最初の火薬庫襲撃から三日目のことでした。隆盛は大隅の小根占へ狩猟に出掛けており、市内の騒動にはまったく気づいていませんでした。火薬庫襲撃の第一報を受けた隆盛は、思わず「しまった」と呟いたといわれます。

私事で恐縮ながら「なにが起きなかったか」

わが曾祖父たる大山巌は、3兄弟の真ん中で、次男坊でした。

兄は通称が彦八(世襲なので、代々の当主が同じ名前です)で、諱は成美といいます。隆盛に随って鹿児島に帰りました。明治9年に没したので、西南戦争には加わっていませんが、政府残留の巌と袂を分かったので、その遺族とは没交渉です。

弟は誠之助といい、薩軍に加わっています。戦後は叛乱に加担した罪で懲役刑に服しています。

巌はといえば、のちに従一位、元帥、公爵まで上り詰めるわけで、兄弟ながら辿った運命は、あまりに異なります。

ゆえに、西南戦争のことをワタクシが書けば、それだけで遠縁の誰かが傷つくことになります。むかし、歴史雑誌で田原坂の戦いについて書きましたが、そのせいで後味の悪い思いをしたので、西南戦争の本筋については書けません。

どうか、その点は御賢察くださいませ。

さて、今回の記事は竜頭蛇尾もいいところですが、それでも、なにが起きなかったかを考えて見ます。

私事ついでに申しますと、当家の伝承に随うならば、西南戦争は「桐野利秋の戦争」だったとワタクシは捉えています。私学校を実質的に主導していたのは、隆盛ではなく利秋だったという認識のもと、西南戦争も利秋が引き起こしたのだと考えています。

わが曾祖父の巌は、明治3年に留学のため渡仏、帰国したのは7年です。隆盛が留守政府の首班となった明治4年から、征韓論争を演じた明治6年まで、巌は日本に居ませんでした。そして征韓論争に敗れて鹿児島に引き籠もった隆盛に上京を促すことを吉井友実に要請され、渋々ながら貴国したのは明治7年です。自分が留守にしていた間に、隆盛に道を誤らせたのは利秋だ……そういうニュアンスを込めて「桐野の戦争」と、当家に伝承されているようです。

留学前に、兵隊の座学を重視すべきか否かで巌と利秋は意見が割れたそうで、両者の仕事上の関係は、どちらかといえば険悪なものだったとされます。しかし、仕事を離れると個人的な親しみは確かにあったのです。

城山当に陥んとする際、官軍、一薩兵を捕へ来つた。陸軍少将大山巌、之れを鞠訊すると、利秋の命を奉じて使ひに来たとて、一個の包みを呈出した。披いて見ると、金側時計と紙幣若干とある。之れは利秋が大山に贈るもので、書面には、莫逆の情交忘れんとするも忘るゝ能はざるものがある、今死に臨んで記念として贈るとあつた。大山為に涙の下るを禁ずる能はぬ。

近世名将言行録刊行会 編『近世名将言行録』 第1巻p396

追い詰められ、「明日は討ち死に」と覚悟した利秋が、包囲軍に巌が居ると聞いて形見の品を届けさせたというのです。

もう少しだけ両陣営に分かれた薩摩人同士が歩み寄ったなら、あるいは西南戦争は起きなかったかもしれません。しかし、ついに理解し合うことは「起きなかった」のでした。

贈られた金側時計が値打ち物だったかどうかわかりませんが、由来が由来です。現存していれば、必ずや家宝として大切にされていたことでしょう。遺憾ながら、当家は関東大震災で大山巌が住んでいた煉瓦造の自宅が倒壊、そのあと地震に懲りて建てた木造洋館が第二次大戦の空襲で全焼、二度にわたる被災で家伝の品々は何も残っておりません。利秋との「莫逆の情交」を伝えるのは、いまでは言葉のみです。

薩摩人同士が敵味方に分かれた西南戦争では、かつての同志と戦わねばならなかった人も多く、当家のように肉親を敵としながら戦った人もいます。

戊辰戦争もそうですが、政治思想の異同を原因とする紛争は、地域の支配権を奪い合う領土紛争とは、異なる種類の悲劇を生むものですね。

アイキャッチ画像:楊洲斎周延「鹿児嶋征討出陣図」(出典 国立国会図書館デジタルコレクション

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。