Culture
2021.08.30

23万人の検疫を2か月で実現!迅速な感染症対策に震災復興。今必要なのは「後藤新平」だ

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1894(明治27)年の日清戦争後、帰還兵の検疫を行い、伝染病の感染を抑えた医師。1923(大正12)年、関東大震災後の東京復興を唱えた政治家。その他にも今日に通じる多くの業績を残した、後藤新平(ごとうしんぺい、1857~1929)。感染症対策に、震災復興。現在私達が直面している問題に、100年以上前に果敢に挑んだ彼の人生から、私達が学べることはあるのでしょうか。

■ちょっと難しそうと感じたら、和樂web編集長セバスチャン高木がわかりやすく解説した音声もあります

 

医師としての後藤新平

1857(安政4)年、陸中国(りくちゅうのくに)胆沢(いさわ)郡塩竈(しおがま)村(現岩手県奥州市)に後藤新平は生まれました。子どものころは、成績優秀なガキ大将。藩校を経て、1874(明治7)年福島県の須賀川(すかがわ)医学校へ。1876(明治9)年、愛知県病院にて医師のキャリアをスタートさせます。

「国家の医師になりたい」という思い

医師として活動しながら、内務省※1に国の衛生行政※2に関する意見書を提出。これが縁で、1883(明治16)年内務省衛生局技師に就任(後に局長に)。

※1 戦前の中央官庁。現在の総務省・警察庁・国土交通省・厚生労働省を包括したもの。 
※2 国民の健康を守り、それを増進するために政務を行うこと。医療行政、薬務行政、公衆衛生行政がある。

就任後、後藤は地方視察を行い詳細な調査報告を基に、公衆衛生の向上に力を発揮。「個々の病人を治すより、国家の医師となりたい」そんな思いを抱くようになりました。

当時の後藤は、予防医学の必要性を説いたり、健康のために海水浴を勧めたりと、現代にも通じる提案をしています。

迅速な対応で評価!帰還兵23万人のコレラ検疫を実現

1894(明治27)年、日清戦争。当時大陸ではコレラが蔓延し、罹患した兵士が日本各地に帰郷しては、大パンデミックが起こってしまう。戦後の課題の1つが帰還兵の検疫でした。

このとき、後藤に検疫の依頼が舞い込みました。遡ること1877(明治10)年、西南戦争でコレラ患者の治療や看護を経験し、過酷な状況と検疫とは何たるかを熟知した後藤が、適任とされたのでしょう。

後藤は、広島県や山口県、大阪府の3つの離島に400棟もの検疫施設をわずか2か月で作り、船舶687隻、232,000人余りを検疫。国内への発生を防止しました。

検疫事業の成功で、後藤は高く評価されました。

検疫作業順序一覧 兵士が上陸前に医師が船に乗り込み、健康な人、罹患の疑いのある人、罹患者に分けました。罹患者が1人でも出た船は軍馬まで消毒する徹底ぶりでした。(後藤新平記念館所蔵)

広島県の似島(にのしま)検疫所の蒸気消毒汽缶 健康と診断された兵士の衣類や持ち物すべてを消毒。この間、兵士たちは消毒液を薄めたお風呂に約20分つかりました。その後は帰郷。(後藤新平記念館所蔵)

外地で現地住民と風土を尊重した政策を進める

領有地・台湾の阿片問題に取り組む

日清戦争後、台湾は日本が領有することになりました。しかし統治する上で問題となったのが、阿片吸引の習慣。

後藤は「中毒と認定され、医師の診断書を持っている者には売る。しかし新たに吸引することは断固禁止」時間はかかるけれど、着実に減らしていく方法を提案。これが受け入れられ、台湾総督府民政長官に。

幹線道路・鉄道・港湾の交通手段を整え、上下水道の整備など公衆衛生の向上につとめ、また台湾に根付く産業として製糖や農業を発展させました。現地に適した政策をとるために文化や歴史、人々の習慣を調査し、住民を尊重した政策を行いました。

後藤は台湾での8年の勤務を経て、「医学」以外の方法でも人命を衛る(まもる)必要がある、と感じたのではないでしょうか。

台湾での功績が認められ満鉄経営も

1906(明治39)年、南満州鉄道株式会社※3初代総裁に就任。
在位2年間で、鉄道広軌化(レールの幅を広くする)や、都市計画として水道や道路、公園、旅館などの整備、学校の設立など満州の10年計画を立て実行しました。

その際、駅名などを日本語読みにせず、現地の言葉を残しました。ここでも住民への尊重が見られます。

※3 略称満鉄。日露戦争で得た鉄道の一部の付属利権と経営のために設立された、半官半民の国策会社。

政治家として「人命を衛る」

郵便ポストを赤色に!

1908(明治41)年、第二次桂太郎(かつらたろう)内閣が成立し、後藤は通信関係を扱う逓信(ていしん)大臣として入閣。その後新たにできた鉄道院に初代総裁として兼任し、速達・内容証明郵便の開始、国鉄の電化推進、広軌化の立案などを行いました。郵便ポストをよく目立つ赤色にしたり、日本で最初の建築家と言われる辰野金吾(たつのきんご)に命じ、現在の東京駅の駅舎を作らせたのも後藤。

その後1912(大正元)年第三次桂太郎内閣で逓信大臣と鉄道院総裁、拓殖局※4総裁を兼任、1916(大正5)年、寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣で内務大臣と外務大臣、鉄道院総裁を兼任しました。

後藤は入閣すれば、国の方針決定に参加し、「人命を衛る」ことがより多くできる、と思ったのではないでしょうか。ここでもさまざまな提案をしますが、実行できなかったものも多々ありました。あきらめない姿勢は、学ぶものがあります。

※4 戦前の中央官庁。外地行政機関を監督。

汚職問題で混乱する東京を立て直す

1920(大正9)年、後藤は第7代東京市長に選出されました。当時の東京市政は汚職問題で、市長や議長、助役までが辞職する混乱状態で、立て直すには後藤の手腕が必要でした。ちなみに市長就任に推したのは、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。アイデアに溢れている後藤に、期待していたようです。

就任後、年俸の値上げを要求。当時2万円だったものを、2万5千円に増額させました。すると全額と所得税の3千円(自腹)を、東京市に寄付しました。この行動に、周囲は驚いたことでしょう。

後藤は市政の刷新として、救済事業、道路や下水道の整備、託児所や結核療養所などの建設を行いました。

後藤が市長在任中に開催された、平和記念東京博覧会 1922(大正11)年3月10日から7月31日開催。第一次世界大戦終結により、再び世界が平和になったのを記念するとともに、戦時中に発展した産業を展示するため、東京府主催で開催。
下の画像の顔写真は、右から、東京市長 後藤新平、博覧会総裁 閑院宮殿下、会長 東京府知事宇佐美勝夫、協賛会長 渋沢栄一 (後藤新平記念館所蔵)

渋沢栄一の協力を得て、関東大震災からの復興

1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。同年4月に東京市長を辞していた後藤でしたが、第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の内務大臣に再任。罹災者に対する救援や治安の回復などを行いながら、4日には帝都復興の議を閣議に提出。ここには、「復興には30億円の費用を使う」と記しました。合わせて設置された、帝都復興院の総裁を兼任。

しかし、国家予算が15億円の時代。反対の意見も多く、この計画は規模も予算も縮小を余儀なくされました。それでも火災に強い町づくりを目指し、近代都市に作り替える区画整理を行いました。公園や道路、橋を整備したのもこのころ。渋沢栄一は、後藤の協力要請を受け尽力しました。「公」の後藤と「民」の渋沢。立場は違いますが、それぞれ日本を良くしたいという思いを持ち、お互い尊敬し合っていたのでしょう。

この時代に「復旧」ではなく「復興」の概念を持っていた後藤。将来を見越した力を持っていました。

帝都復興概念図 東京市長時代に技師に描かせたもの。環状道路計画などが既に盛り込まれており、近代都市計画への先見性が見られます。(後藤新平記念館所蔵)

関東大震災の復興事業として計画、建設された昭和通り(江戸橋付近)。当時としては、異例の幅44m。(昭和5年東京市発行「復興」アルバムより)

 

政界引退後の仕事と最期のコトバ

1923(大正12)年12月、第二次山本権兵衛内閣は総辞職。それに伴い、後藤も内務大臣と帝都復興院総裁を辞任。このとき66歳。これを機に政界から引退しました。

その後も、後藤は精力的に活動します。

1924(大正13)年、家庭電器普及会を設立し、会長に。

同年、社団法人東京放送局(NHKの前身)を設立し、総裁に。1925(大正14)年の放送開始の日にはマイクの前で、あいさつを行いました。

また、市長時代の1922(大正11)年少年団日本連盟(ボーイスカウトの前身)の総裁になり、政界引退後はその活動に力を入れました。モットーである「自治三訣」を提唱し、全国で講演を行いました。

自治三訣(じちさんけつ)「人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして報いを求めぬよう」これは、後藤が設立に関わった、日露協会学校(後のハルピン学院)の校訓にもなっています。後藤の私利私欲のなさが現れています。(後藤新平記念館所蔵)

1929(昭和4)年、医学会出席のため岡山県へ向かう途中の列車で後藤は、脳溢血を起こして倒れました。「岡山……」が最後の言葉でした。自分の仕事を全うしたい、という表れでしょうか。倒れて10日後の4月13日、71歳で亡くなりました。

東日本大震災の復興にも影響が!後藤新平の魅力

後藤新平の出身地岩手県奥州市水沢にある、後藤新平記念館。こちらの学芸調査員、中村淑子(しゅくこ)様にお話を伺いました。後藤は1928(昭和3)年に伯爵を授けられたので、以下「後藤伯」という表記にします。

後藤新平記念館外観(後藤新平記念館所蔵)

— 記念館が設立された経緯を教えて下さい。

中村:後藤伯が東京市長に就任する条件の1つが、都市調査機関を東京に作ること。これにより1922(大正11)年、日比谷公園内に財団法人東京市政調査会※5が設立されました。

1929(昭和4)年に逝去後、すぐに伝記編さん会が組まれ、後藤伯に関わる資料が関係各所から集められました。

1978(昭和53)年、永らく保管されていた資料を出身地の水沢市(現在の奥州市水沢)に寄贈いただき、有志の協力のもと開館したのが後藤新平記念館です。

※5 2012(平成24)年、公益財団法人後藤・安田記念東京都市研究所に名称変更。

— 地元の方にとって、後藤新平はどのような存在でしょうか?

中村:幕末の蘭学者高野長英(たかのちょうえい)、第30代内閣総理大臣斎藤實(さいとうまこと)とともに、「水沢の三先人」と言われています。地元の方は、尊敬と親しみを込めて「新平さん」のように、下の名前で呼んでいます。

社会の授業で近世史を学び、時代の流れが少しずつ分かってくる時期の小学6年生が、3人について学習するため学校単位で記念館に来館します。学んだことを元に、「新平新聞」という壁新聞を作成してくれます。冬休みには小中高生を対象に「冬の3館ウォーク」を開催し、問題を解きながら記念館を巡ります。

大リーグの大谷翔平選手は、奥州市水沢の出身。
大谷選手の母校にも、昇降口に三先人の肖像画や、後藤新平の「誨不倦※6」と書かれた大きな扁額(へんがく:横額)もあります。新しい時代への「志」と、世界に目を向ける「先見」を受け継いでいるのかもしれませんね。

※6 かいふけん:手を抜かずにしっかりと教え導くこと。『論語』より。

後藤伯の提唱した「自治三訣」には、次の世代のリーダーを育てるための教えが込められています。子ども達にはこの言葉を大事にして、自分の力で生きる秘訣を身に付けてほしいですね。1人ひとりが実践することで、もっと良い日本になると思います。

— 来館者は、男性が多いそうですね。

中村:後藤伯の卓越した判断力とリーダー性に惹かれる男性ファンが多く、地元より県外の来館者が多いんです。没後90年を越えてなお新刊書籍が毎年出版されていてて、伯の生涯に自分自身を重ね合わせる人もおられるようです。

— 東日本大震災のときも、注目されましたね。

中村:2011(平成23)年東日本大震災の後は、「日本の一大事に後藤はどう考え動いたのかを知りたい」と来館される方が多かったです。ボランティアの行き帰りに、立ち寄る方もおられました。

— 台湾からの来館者も多かったそうですね。

中村:コロナ禍以前は、台湾との交流も多かったです。個人のお客様の他、企業団体や視察で来られることもありました。

「後藤新平をはじめとする日本統治時代の日本人たちが、領有地であった台湾から奪うのではなく、自立させてくれたことへの恩返し」とお話し下さいます。記念館には、台南から贈られた後藤伯の胸像も展示されています。

— 記念館の見どころを教えてください。

中村:後藤家からお預かりした愛用の品々や、偉人とやり取りをしたお手紙など。後藤伯は、歴史上有名な人物に多く関わっているけど、まだまだ知られていない活躍や面白いエピソードがあります。ドラマなどで、もう少し知られて欲しいですね。東京の展示会用に作成した、等身大の後藤新平人形(164㎝)がお客様をお出迎えします。そっくりですよ。

後藤新平記念館1階展示室 左端に見えるのが、等身大の人形。(後藤新平記念館所蔵)

おわりに

私が後藤の人生から学んだものは、「あきらめない姿勢」「他者を尊重する気持ち」でした。

最後に、中村様が語る後藤の魅力をお伝えします。

「士族だった後藤家は、戊辰戦争で賊軍となり土着帰農。藩の後押しもなく、医学校は出ているけど学閥とも無縁。それでも努力を惜しまず、時代を捕まえる力とアイデアに溢れ、広く仕事を行いました。特に、日本の一大事というときに、ピンとアンテナが張りリーダー力を発揮した人です。人々があきらめの境地にいても、常に前向きです。
晩年ひと仕事なした時期でも、少年団の子ども達に対し『子どもは自分の先生』という謙虚さも持っています。
記念館に来られたら、後藤新平の生きた時代を通して、明治~大正~昭和の歴史の流れを感じてください」

中村様、貴重なお話ありがとうございました。

和樂web編集長セバスチャン高木が音声で解説した番組はこちら!

アイキャッチ画像 震災復興の構想を練る後藤新平(後藤新平記念館所蔵)

<協力>
奥州市立後藤新平記念館 学芸調査員中村淑子氏

<参考資料>
・藤原書店編集部編『後藤新平の「仕事」』(藤原書店、2007年)
・後藤新平研究会編著『後藤新平と五人の実業家』(藤原書店、2019年)
いわて希望チャンネル【第75回】偉人局第3話(後藤新平)

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。