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2021.11.12

天下人2人の火花バチバチ頭脳戦!豊臣秀吉VS徳川家康、軍配は果たしてどちらに上がった!?

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脳科学者の茂木健一郎氏の著書「脳リミットの外し方」に、こんな一文がある。

「自分自身でつくりあげた『思い込み』が、脳にブレーキをかけて、自分の力を最大限に発揮できない」のだと。

──自分の力の限界を決めつけているのは、自分自身。
頭では、そうなのだと理解できる。ただ、現実問題として、いくら自分の成功をイメージしても、すぐ結果には結びつかない。そもそも、実際にこれまで超えられなかった限界なのだから、簡単に外せないのも無理はない。

脳リミットを外したらNOリミット!笑

しかし、そんな時に強力な助っ人となるのが「ライバル」の存在だ。
五輪競技の「100m走」がいい例だろう。人類史上「10秒の壁」など超えられないと思っていたが、昭和39(1964)年に幻の9秒台が出ると、その4年後のメキシコ五輪では、9秒95の公式記録が樹立される。そして、今や9秒台は、決勝に残る必要な数値とさえいわれるまでとなった。

つまり、彼ら選手のリミッターは、一瞬で思いっきり外れたワケだ。それもこれも、目の前に新記録を出す「ライバル」の姿があったからこそ。「ライバル」とは、時に敵で、時に味方でもある貴重な存在といえるのだ。

そういう意味では、コチラの方々も、互いに必要不可欠な存在だったのかもしれない。
天下人の「豊臣秀吉」。
そして、のちに次の天下人となる「徳川家康」。

じつにこれまで2人の掛け合いはイヤというほど書いてきたが。今回も懲りずに、2人は、水面下での小競り合い? を繰り広げる。

「小田原攻め」を前にしての心理的な駆け引き。
一体、彼らは、どのような行動に打って出たのか。

それでは、早速、「秀吉」VS「家康」の頭脳戦をご紹介していこう。

※冒頭の画像は、魁斎芳年「小田原」 出典:国立国会図書館デジタルコレクションとなります
※本記事は「豊臣秀吉」「徳川家康」の表記で統一して書かれています

先攻は、表裏がある?天下人「秀吉」

豊臣秀吉の快進撃は、かつての主君である織田信長の死から始まった。

天正10(1582)年の「本能寺の変」で信長が自刃したのち、謀反を起こした「明智光秀」、信長の重臣であった「柴田勝家」を秀吉は相次いで破り、最大のライバルとされた「徳川家康」とは、「小牧・長久手」の戦いののちに和睦。両者とも、これ以上の直接対決は望まなかった。

そして、秀吉は政治的な駆け引きを制し、天正13(1585)年に関白、天正14(1586)年に太政大臣に首尾よく収まり、国内統一へと王手をかける。天正15(1587)年に九州征討で島津氏を降したのち、次に目を向けたのが東日本であった。

ターゲットとなったのは、名門北条氏。
残念ながら、度重なる秀吉の上洛要請にも応えず、時代の変化に敏感ではなかった一族だ。

ただし、この「小田原攻め」は、そんな北条氏討伐だけが目的ではなかった。既に臣従した諸大名を動員して、圧倒的な兵力を見せつける。これが、今なお臣従に消極的な奥州勢への布石となり、加えて、今後、秀吉に対して反旗を翻すことがないようにとの見せしめにもなったのだ。

「豊臣秀吉書像・豊太閤真蹟集上」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

さて、ここからは、「豊臣秀吉」と「徳川家康」の2人に話を戻そう。
永遠のライバルともいえる彼らだが、その勝負のポイントは、決して表立って行わないコト。

先ほどご紹介した通り、彼らは過去に一度だけ正面切って武力衝突となったワケだが。正直にいうと、これに懲りたのだろう。互いに勢力を削ぎ合っている間に、第三者に「漁夫の利」的に天下を持っていかれるのは避けたいとの思惑があったようだ。そうこうしているうちに、時代は秀吉へと傾いた。一気に天下取りへと駆け上がったのである。

既に立ち位置が異なる2人。しかし、それでも小競り合いは止まなかった。好敵手だから、つい、手合わせしたくなるのだろう。図式的には、上から無理難題をふっかける「秀吉」と、涼しい顔してかわす「家康」といったところか。

そして、今回、最初に仕掛けたのは…。
もちろん、この方。豊臣秀吉である。

天正18(1590)年春。
実際に「小田原攻め」が動き出した頃のこと。

家康は断腸の思いで、三男の「長丸(のちの2代将軍秀忠のこと)」を、秀吉の元へと送り出した。全ては、大事な後継ぎ候補である彼を上洛させるため。お供したのは、家康の家臣の中でも「徳川四天王」と名高い井伊直政ら。こうして、初めて「長丸(秀忠)」を秀吉に拝謁させたのである。

名目は「上洛」。
しかし、実質は「人質の差し出し」だ。それは、子どもの場合もあれば、正室の場合もある。上洛させられた彼ら彼女らは、今回の「小田原攻め」で、諸大名らが裏切らないようにと「担保の役割」を担うのだ。徳川家では、その役割が「長丸(秀忠)」だったというワケである。

「徳川治蹟年間紀事・二代台徳院殿秀忠公」 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

ここで、秀吉と「長丸(秀忠)」の初対面となるのだが。

じつは、意外にも、秀吉は「長丸(秀忠)」の上洛を大層喜んだという。
江戸幕府が編纂した歴史書である『徳川実紀』には、このように記されている。

「秀吉は大変喜び、(長丸)君のお手を引き、奥御殿に連れて行き色々ともてなした。大政所は、自ら(長丸の)髪を結い直し、衣装までも着替えさせ、黄金作りの太刀を帯びさせ…」
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』より一部抜粋)

これまた、まあまあな面倒見の良さである。
それだけではない。
秀吉はさらに、予想外の行動に出る。

「『幼子を遠き所に置かれて、亜相(家康)も、さぞつらく(長丸の帰国)を待ち遠しく思っていることでしょう。早速お供をして帰りなさい』と言って、直政を始め(長丸のお供)の人々にもそれぞれ祝儀を与えて(長丸を家康のもとに)返されたのである」
(同上より一部抜粋)

これに驚いたのは、もちろん、家康その人である。
もともと「人質」として差し出したというのに、まさか無事にそのまま「長丸(秀忠)」が帰ってくるだなんて、思いもしなかったのだろう。

まずは、この家康の意表を突いたところに、秀吉の「一本」。
秀吉は、こういうさじ加減がじつにうまい。全てに対して、均一的な対応をしない。相手をしっかりと見定め、その性格や現在の状況などを踏まえた上で判断する。

緊張のあとの弛緩。
絶妙なタイミングで、うまく相手の隙を作り出すところは、誰も真似できない技である。

是非とも、今回は、これにて秀吉の「一本」としたい。

後攻は、先読みが得意な「家康」

一方で、徳川家康がやられっぱなしかというと、そうでもない。もちろん、コチラも、負けず劣らずのタヌキ親父である。

なんといっても、晩年の秀吉には、後継ぎがいた。あの「豊臣秀頼」である。確かに幼かったという事情はあるにせよ、それでも豊臣家の存続は不可能だったワケではない。しかし、秀吉の死後、うまい具合に豊臣恩顧の諸大名らを味方につけて、天下人となったのは、この徳川家康であった。

だから、簡単にいえば。
秀吉に一本取られっぱなしの人生ではなかったというコト。

家康公肖像 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

それでは、再度、「小田原攻め」を前にした、2人の小競り合いに話を戻そう。

まずもって、家康は驚いた。
人質として差し出した「長丸(秀忠)」が無事に帰ってきたからだ。
しかし、驚くと同時に疑問を持つ家康。ただ手放しで喜ぶのではなく、何か裏があるのではと読むところは、やはりタヌキ親父である。

そして、家康はその真意に気付いてしまうのだ。
──ひょっとして、秀吉は「貸し」を作りたいのでは?

そこで、家康の頭の中では、点と点が結びつく。
──そうか…
──「小田原攻め」の行軍の際に、領内の諸城を借りたいのか…

こうして、家康は先手を打つ。

「本多正信を呼んで、『皆その(秀吉が城の借用を申し出ることに対する)用意せよ』とおっしゃって、三河から東の諸城の修築をされて、道や橋の修復もされた」
(同上より一部抜粋)

その3日後。
なんと、コトは家康の読み通りに動く。
秀吉自らの書状で、家康の領内の城を借りたいとの要請があったというのである。

ここで、先回りして秀吉の意図を汲んだところに、家康の「一本」。
秀吉の行動をしっかりと分析するあたりが、さすがである。相手が「貸し」を作りたいのであれば、それを回収する機会がいつなのかを考える。先読みして、実際に行動を起こすところに、家康の「一本」を認めたい。

さても、両者、ここで「引き分け」となりそうだが。
ふむ…。
さらに、家康側が追い打ちをかけるようだ。

というのも、「徳川四天王」の1人である「榊原康政(さかきばらやすまさ)」らが、家康にある1つの提案をするからだ。

その提案とは「接待」。
珍しく秀吉が下向(げこう:都から地方へ行く)するのだ。それも我が領内を通るとなれば、この機会に格別のもてなしをするべきではないかと。

森田亀太郎模写『榊原康政像(摸本)』出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

確かに、彼らの提案も一理ある。
しかし、家康は、逆の発想でこれを拒否。

じつは、このような裏事情を予想したのである。

「『私は秀吉の様子を見るに、自身の才略でこの世の人を篭絡しようとする人なので、私がまた秀吉に対して才智を誇示して、智謀ある人と見られるとかえってよくないことだ』」
(同上より一部抜粋)

非常にややこしいのだが。簡単にいえば「出る杭は打たれる」的な発想か。

やり過ぎて、かえって秀吉に目を付けられたくないというのが、家康の本音なのだろう。彼にしてみれば、ぶっちゃけ「プライドなんかくそくらえ」なのである。世間にデキる人と思われたいなんて、そんな小さなコトにはこだわらず、大局を見る。

大事なのは、秀吉の次の世だ。
つまり、現在の秀吉の政権下では、現状維持がベスト。弱体化せずに、いかに今の勢力を保つかにかかっているのである。そのためには「うつけ」と思われようが構わない。

ここに、家康の「一本」。
将来の天下取りに向けて、潔いまでの割り切りに「一本」を認めたい。

ちなみに、この後日談だが。
家康の言った通り、ホントに、秀吉への接待は「並み」レベルだったとか。
「吝嗇家(りんしょくか:ケチなこと)」家康のあるある話の1つであった。

最後に。
「秀吉」VS「家康」の小競り合い。
まさに家康が一歩リードして終わりそうと思いきや、1つ書き忘れていたことを思い出した。ここで、追加しておこう。

「長丸(秀忠)」が上洛して、初めて秀吉に拝謁したときの話である。
秀吉は、意外にも「長丸(秀忠)」に対して非常に面倒見が良かった。確か…秀吉の母である「大政所」が髪を結ったり、衣装を変えさせたりしていたはずだ。

それにしても、秀吉の「長丸(秀忠)」への扱いは格別なもの。
じつは、この時に、秀吉はお供の井伊直政らに、このような言葉を残している。

「『長丸は大変落ち着きがあってよい性分である。ただ髪の結い方から、衣服の装いまですべてが田舎びているので、今京風に改めてお返しします』」
(同上より一部抜粋)

一見、親切そうに見えるのだが。よくよく聞くと、「田舎びている」とサラリと嫌味。

これは素晴らしい。
京女の私でも、なかなかマスターしにくいスキルである。
この秀吉の上級テクニックに、特別に追加で「一本」を認めたい。

こうして、「秀吉」VS「家康」の勝負の行方はというと。
両者共に「引き分け」。

毎回だが、決定的なオチはつかず。
こうして、彼ら2人の小競り合いは…。
相も変わらず、次回へと持ち越されるのであった。

参考文献
『現代語訳徳川実紀 家康公伝3』 大石学ら編 株式会社吉川弘文館 2012年2月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月など

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京都出身のフリーライター。北海道から九州まで日本各地を移住。現在は海と山に囲まれた海鮮が美味しい町で、やはり馬車馬の如く執筆中。歴史(特に戦国史)、オカルト、社寺参詣、職人インタビューが得意。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。