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2022.01.06

遊郭の花魁と太夫はどっちが格上?遊女の階級を解説

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アニメ『鬼滅の刃』の舞台としても登場する遊郭。そこで働いていた遊女たちにはいろいろな格付け、仕事上の階級がありました。立場によっては、働きかたも大違い。
遊女の格、そして格上の遊女に必須の資質とは?

遊郭ってどんな場所?

豊臣秀吉が天下を統一したのち、1585(天正13)年に大坂に、1589(天正17)年に京都に遊女(ゆうじょ)を集めた場所をつくったのが遊郭(ゆうかく)の始まり。女好きの秀吉は、遊女を集めて武士たちを慰労しようと考えたようです。

江戸時代にはそれを引き継ぐように江戸吉原、大坂新町、京都島原、長崎丸山など全国に約20カ所の遊郭が設けられました。実は最初、幕府は徳川家に敵対心を持つ浪人が遊女たちを隠れみのに集まるのを警戒し、江戸から遊女を追い出そうとします。が、それをあきらめて遊女を1カ所に集めるという形で、取り締まることにしたのです。

遊郭の郭とは城の囲いのこと。遊郭が周囲を掘で囲むなどして一般の土地と区別されていることを、城郭になぞらえてつけた名前です。

江戸の遊郭吉原にはおおよそ、2,000~3,000人もの遊女が暮らしていました
『東都名所 吉原夜桜の図』歌川広重(メトロポリタン美術館より)
遊郭について、詳しくはこちらもご覧ください↓↓↓

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遊女という職業、その実態

遊郭のことを別名で色里(いろざと)ともいいます。色というのは恋愛や情事のこと。遊女の仕事は客を宴席で遊ばせ、床を共にすることでした。
遊女の客は、財力のある武士や商人たちです。遊郭は江戸時代の社交の場でもあり、一流の遊女はもてなし役として高い教養を身に付けていたのだそう。
人気のある遊女は浮世絵に描かれ、歌舞伎の登場人物にもなっていて、江戸時代の人々にとっては憧れのスター、アイドルのような存在だったことが伺えます。

玉屋という妓楼に所属していた人気遊女の花紫。遊女を描いた美人画は大人気で、風紀を乱すとしてのちに販売が禁止されたほど
『青楼七小町 玉屋内花紫』喜多川歌麿(メトロポリタン美術館より)

そうはいっても、遊女の仕事は決してやさしいものではありません。生活に困るような事情があって、売られるようにして集められた女性たちも少なくありませんでした。
前借金をかたにした年季奉公という形で遊女を集めて、働かせたのが遊女屋です。遊女屋とは遊女たちが所属する妓楼(ぎろう)のこと。その主人は、金儲けのために人として大切な仁義礼智忠信孝悌の8つの心を忘れたとして、「忘八(ぼうはち)」というあだ名で呼ばれたといいます。

遊女たちは一度遊郭に入ったら、もう自由に出入りはできません。年季があけるまで働くか、遊女屋に大金を払って身請けをする客が現れるか、逃亡をするか……。あるいは死んで葬られるまで、外に出ることができなかったのです。

一見華やかに見えるけれど、遊女の境遇は「苦界」とも呼ばれていました。

美しさのほかにも意外な条件、遊女の格付け

しかし、厳しい境遇のなかでも、遊女たちはうつむいてばかりはいませんでした。
「意地と張りがある」ことが、遊郭で出世をしていくために大切な遊女の資質。ときにはマナーの悪い客を袖にするような、芯のある遊女が客からも好まれたといいます。

一流の遊女ともなれば、格子の奥に並んで客をひく必要はありません。指名があれば妹分の遊女や見習いの禿(かむろ)を引き連れて、客の待つ揚屋(あげや)まで練り歩くのが遊郭の名物。気位が高く、お座敷につけば客の上座に座りました。
それが許されていたのが、太夫(たゆう)や花魁(おいらん)と呼ばれた、トップ遊女たちなのです。

恵比須、大黒天、福禄寿の三福神が吉原へ。神様が相手でも、遊女は床の間を背にして上座に座っていますね
『三幅神吉原通い図巻 全盛季春遊戯』鳥文斎栄之(メトロポリタン美術館より)

気位の高いセンター「太夫」

太夫というのは、歌舞伎や浄瑠璃などの芸能に秀でた人に使われる敬称です。江戸時代の初期に、京都の四条河原などに作られた舞台で、遊女たちが歌舞伎を披露していた時期がありました。そこから優れた遊女を太夫と呼ぶようになり、遊女の最高位として定着。太夫は美しく、楽器の演奏などもできて、また大名の話し相手ができるくらいの才智がなくては務まりませんでした。

江戸時代には伝説的な太夫が何人かいますが、たとえば「仙台62万石の大名伊達綱宗が惚れ込んで、太夫の体重と同じ重さの小判を払って身請けをした」という伝説のある高尾太夫もそのひとり。「高尾」や「薄雲」など、人気のある太夫の名前は世襲制で受け継がれていったので、何人もいる高尾太夫と区別をするために仙台高尾とも呼ばれます(高尾太夫の伝説ははっきりとしない部分が多く、伊達綱宗が身請けをしたのは別の太夫だったという説もあります)。

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遊女の格付けは、江戸時代の初期には太夫とその両脇に控える「端女郎(はしじょろう)」の2階層でしたが、そこからさまざまに分かれていきます。

ナンバー2は東の「格子」と西の「天神」

1617(元和3)年に江戸吉原に遊郭ができると、太夫に次ぐ遊女として「格子(こうし)」が登場。見世(みせ)といって、道路に面している格子のついた部屋に遊女たちが並んで客を待っていたことが、名前の由来です。

同時期、関西の遊郭では「天神(てんじん)」が格子と同等のナンバー2でした。
名前の由来は、遊女をお座敷に呼ぶ揚げ代が25匁(もんめ)で、25日の北野天神の縁日と同じだったからと言われています。江戸時代には物価の高騰が激しく、のちに代金が25匁ではなくなると、天職とも呼ばれました。
また、太夫を松の位、天神を梅の位と呼ぶことも。

庶民派のアイドル「散茶」

1657(明暦3)年、日本橋にあった吉原が火事で焼けたことなどをきっかけに、浅草の新吉原に移転をします。その後の1668(寛文8)年に幕府が江戸市中の茶屋などで営業をしていた遊女を取り締まり、新吉原に集めるという出来事がありました。そのときに増えた遊女たちが「散茶(さんちゃ)」です。
散茶というのは挽いて粉にしたお茶のことで、袋から振り出さずに湯に入れることから、格上の遊女のように客を振らないという意味があったそう。

ひとつひとつの言葉に、ひとひねりあるんだなぁ。

江戸時代の幕開けから60~70年。参勤交代に苦しめられていた武士とは違って商人たちは経済的にも安定し、江戸はバブル前夜といったところです。町人文化が花開く元禄年間(1688-1704)まであと少し。

最下位でもプロです「切見世」「局見世」

新吉原に移転をしたころに、遊郭の端の長屋に暮らして客をとる「切見世(きりみせ)」「局見世(つぼねみせ)*」という最下級の遊女たちが現れます。借金のかたに若くして遊女になったというよりは、キャリアの長い手慣れた遊女が多く、年季は比較的短いといった一面も。
*局見世という名称は江戸時代前期に、端女郎より上の中級の遊女にも使われていましたが、それとは異なります。

遊女の格付けは時代によっても遊郭のあった場所によっても違うため、全部は紹介しきれないのですが、最高位から最下位までざっとこんな感じです。でも、花魁がいませんね?
……とその前にまず、吉原では遊女の格付けがこの後、がらっと変わったことに触れなくてはなりません。

太夫の消滅、散茶の逆転

8代将軍の徳川吉宗が幕府の財政再建に乗り出したのは享保年間(1716-35)のこと。江戸中期になると将軍家に限らず武家の多くは財政難に悩んでいます。つまり、遊女の中でも別格とされた太夫の相手ができるような客が減っていきました。すると妓楼でもこれまでのように、太夫の教育にお金をかけることはできなくなります。吉原では宝暦年間(1751-63)を最後に太夫が姿を消し、やがて格子もいなくなりました。

そして明和年間(1764-71)以降はナンバー3だった散茶が繰り上げで吉原のトップに。「呼出(よびだし)」、「昼三(ちゅうさん)」、「附廻(つけまわし)」という格付けに分かれて活躍するようになっていきます。
呼出は張り見世といって、格子の奥にならんで客を引くことはせず、客に指名されたら茶屋へ出向いていきます。昼三というのは、昼だけ呼んでも三分のお金がかかったからそう呼ばれたのだそう。

「散茶」と違い呼び名がストレートになってきた。

呼出と昼三は、妹分の遊女や見習いの禿を引き連れて、吉原のセンター通りを練り歩く「道中」をすることが許されていました。

また、その下には「座敷持ち」「部屋持ち」という位が登場。座敷持ちというのは、遊女が暮らす部屋のほかに、仕事をするための座敷を持っている遊女のことです。部屋持ちというのは座敷を持たずに、寝起きをしている部屋で仕事をした遊女のこと。最下位には「切見世」が定着したままです。
江戸ではまさに、町人文化が花盛り。吉原は庶民も手を伸ばせば届くような場所として発展をしていったのでしょう。

「花魁」もトップ遊女の代名詞

見習いの禿(かむろ)や妹分の新造(しんぞう)を引き連れて歩くような遊女のことを、花魁(おいらん)とも呼びます。太夫や格子、天神などの格上の遊女たちとは、どう違うのでしょう?
花魁という呼び名は、禿が自分の仕える遊女を指して、たとえば「おいらの太夫でありんす」などと言うところを省略し「おいらん」と短くなったのが始まりという説があります。禿を従えるクラスの遊女という意味の、敬称のようなもの。
時代によっては太夫や格子が花魁と呼ばれ、またのちには、禿や新造を連れて道中をすることが許されていた呼出や昼三も花魁と呼ばれました。ですから細かな階級は、花魁によりけりということになるでしょうか。

花魁道中はスターの証

もともと、客が揚屋というお座敷で遊女を指名して待ち、遊女は指名を受けて妓楼から揚屋まで出向いていくのが、遊郭での上等な遊び方です。
その後、お座敷は揚屋よりも気楽な茶屋へと変わり、またお座敷ではなく自分の部屋に客を迎える遊女も増えていきますが、花魁道中は遊郭ならではのショーとして残りました。
ちなみに道中が許されている花魁でも、格付けによって連れて歩ける禿や新造の人数は2人または1人までなど、暗黙のルールで決まっていたそうです。

左の花魁と右の花魁、従えている人数でどちらが格上なのか推測できるかも……?
『青楼繪本年中行事』喜多川歌麿(メトロポリタン美術館より)
花魁同士のプライドがぶつかり合う場でもありそう!

見習いの面倒をみるのも仕事

禿というのは7~13歳くらいまでの少女で、花魁が呼ばれた座敷にあらかじめ煙草盆を運びこんでおくなどの雑用をこなします。新造というのは18歳くらいの新人遊女で、格付けでいえば部屋持ちのさらに下。最初、花魁は禿だけを連れて歩いていましたが、客が重なった時にお座敷でのつなぎを任せられるように、新造も連れて歩くようになったそうです。
その代わりに禿や新造は、立ち歩きのしぐさから話し方、客のあしらい方などを花魁から学びました。
禿と新造の衣装や、遊女としてのデビューにかかる費用は、姉女郎である花魁が持つのが決まりだったといいますから、妹分を持つのも楽ではありませんね。

「遊郭」「遊女」という言葉は、現代の倫理観で考えれば、抵抗があるかもしれません。
けれども歴史をのぞくようにしてみれば、置かれた場所で意地と張りを見せて、強く生きようとした女性たちの息吹を感じます。

遊郭の朝。客を見送る遊女たちは、しどけない姿もまた魅力的
『仮宅の後朝』喜多川歌麿 (メトロポリタン美術館より)

アイキャッチ:三幅神吉原通い図巻 『全盛季春遊戯』(メトロポリタン美術館より)

参考書籍:
遊女Ⅰ⁻廓(くるわ)⁻(雄山閣)
遊女(東京堂出版)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。

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大学で源氏物語を専攻していた。が、この話をしても「へーそうなんだ」以上の会話が生まれたことはないので、わざわざ誰かに話すことはない。学生時代は茶道や華道、歌舞伎などの日本文化を楽しんでいたものの、子育てに追われる今残ったのは小さな茶箱のみ。旅行によく出かけ、好きな場所は海辺のリゾート地。