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2022.02.09

滋賀をこよなく愛した西洋画家・野口謙蔵の生涯

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東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)で西洋画を学んだ、野口謙蔵(のぐちけんぞう:1901~1944年)。多くの画家が、中央画壇の東京で活動したり、芸術の都パリに留学したりする中、卒業後は出身地滋賀県蒲生郡(がもうぐん:現東近江市)に戻り、ふるさと蒲生野(がもうの)の風景を描き続けました。そんな彼の生涯をお伝えします。

アニメ化もされた人気漫画『ブルーピリオド』の主人公の専攻も、西洋の油画でしたね! 野口謙蔵、どんな人だったんだろう?

画家を目指して

近江商人の家に生まれる

古代に蒲生野と呼ばれ、『万葉集』で大海人皇子と額田王の間で交わされた和歌で有名な蒲生郡(※1)。
1901(明治34)年、その滋賀県蒲生郡桜川村綺田(かばた)で、野口謙蔵は生まれました。
野口家は江戸時代から山梨県の甲府市で醸造業を営む、近江商人。商いだけでなく代々文化・教養を重んじる家系で、画家富岡鉄斎(とみおかてっさい)が逗留(とうりゅう)したこともありました。ちなみに、鉄斎の長男も謙蔵で野口謙蔵の名前は、それにちなんでつけられました。

※1 668(天智7)年、蒲生野で薬猟(くすりがり:鹿の若角や薬草を摘む宮廷行事)で、詠み交わされた短歌。
額田王(ぬかたのおおきみ)「あかねさす 紫野行き標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る」
大海人皇子(おおあまのみこ)「紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも」

「夏の蒲生野」(東近江市近江商人博物館提供)
この絵を見ながら、古代の薬猟をイメージしてください。

伯母と従姉が画家

画家との交流があった野口家は、謙蔵が生まれる前に伯父の妻に画家の野口小蘋(しょうひん)を迎えていました。その娘は、母親の血を受け継いで同じく画家となった野口小蕙(しょうけい)。謙蔵の従姉にあたります。

蒲生野の美しい風景と伯母と従姉の存在は、謙蔵の将来に大きな影響を与えます。

謙蔵の周囲には、画家が何人もいたんですね!

大正天皇に絵画を献上

幼いころから絵を描くのが得意な謙蔵は、1914(大正3)年旧制彦根中学校に入学。在学中の1917(大正6)年、滋賀県湖東地域で陸軍特別大演習が行われました。このとき、大正天皇は県下児童・生徒の代表作品を観覧。謙蔵の水彩画「彦根城山大手橋」は、優秀作品として献上されたのです。
大変な栄誉を受けて以来、謙蔵は「画家になりたい!」と強く思うようになりました。東京美術学校西洋画科卒業の教師に、受験勉強のためにデッサンを学びました。教師の熱心な指導と本人の努力で、謙蔵は無事に合格。
東京美術学校の受験は、30人の募集にその数倍の応募者がおり、中学校卒業後2~3年は絵の研究所でデッサンの勉強をしないと入学できないくらい難関だったそうです。
一度の受験で合格した謙蔵が、いかに優秀だったかわかります。

現在でも、藝大の現役合格はとても難しいと聞きます……。

歌人米田雄郎との出会い

中学校時代に、もう1つ大きな転機が訪れます。
1918(大正7)年、実家にほど近い極楽寺に年若い住職、米田雄郎(よねだゆうろう)が就任。歌人でもある彼に謙蔵も影響を受けて、短歌を学び親しむことで、美への感性をさらに磨いていきました。
雄郎も短歌も、謙蔵にとっては生涯かけがえのない存在でした。

多感な時期に、とても素敵な出会いがあったのですね!

米田雄郎(左)と謙蔵 (東近江市近江商人博物館提供)
雄郎は謙蔵の10歳年上。短歌の師として、そして兄として慕っていたのではないでしょうか。

東京美術学校で、西洋画を学ぶ

1919(大正8)年、旧制彦根中学校を卒業した謙蔵は東京美術学校西洋画科に入学。
東京では、上京していた伯母野口小蘋・小蕙宅に下宿(小蘋は2年前に死去)。小蕙の紹介で、当初は「湖畔」などで有名な黒田清輝教授、その後弟子和田英作教授(※2)の指導を受けました。また、校内の「短歌の会」に参加。リア充な学生生活のようです。

黒田清輝!詳しくないけれど名前は聞いたことあります!まるで実験室!黒田清輝の描くヌードはなぜ美しいのか?

謙蔵は、実家の父にこまめに手紙と絵を送りました。「長寿をしてドイライ絵を沢山かきます」(原文ママ)と画家になる決意を語っています。そうなると、多くの作品が後世に残されているのでは、と想像しますが。

在学中の謙蔵の絵は、ほとんど残っていません。
1924(大正13)年、東京美術学校を卒業し、帰郷するにあたり作品のほとんどを東京の川に流してしまいます。それを察した下宿の人が数点だけ抜き取り残して置いたと、後年兄が語っています。

え、どうしてだったんだろう……。

※2 謙蔵にとって、生涯の師となる。1932(昭和7)年には、東京美術学校校長に就任。

東京美術学校卒業、そして帰郷

東京美術学校を卒業後、まっすぐに帰郷した謙蔵。当時多くの画家は中央画壇の東京で活動を続けたり、芸術の都パリへ留学したりする中、独特の進路と言えます。
在学中の作品の大半を処分して、「ふるさとで心機一転だ」という気持ちがあったのでしょうか。
また、近江商人の家に生まれた以上、次男であっても家や店や土地を守るべき、という責任感があったのかもしれません。

「どうしてみんなフランスに行きたがるのか、滋賀県にもこんなに見あきぬ美しいところがいくらでもあるのに」
と語っているので、ふるさとを愛して作品のテーマに選んだことは、間違いないと思います。

ふるさとを思う気持ち、ちょっと分かるかも。

悩みの中で、日本画を学ぶ

蒲生野の自然を描き、毎年帝展(帝国美術展覧会、日展の前身)に出品する謙蔵。しかし思うような作品が描けず、悶々とした日々を過ごします。
当時日本画家である従姉の野口小蕙は、関東大震災を機に兵庫県西宮市に転居。そこで、「日本画を学んでみよう」と小蕙に教えを請います。
その後、東京に住む日本画家平福百穂(ひらふくひゃくすい)の指導も受けます。百穂は「絵は無声の詩なり」をモットーにしていました。短歌をたしなむ謙蔵と、感性が合ったのかもしれません。

絵は言葉のない詩、なんて、ロマンチック!

1927(昭和2)年頃まで、26~27歳の謙蔵は集中的に日本画を学びます。後に謙蔵の絵は「日本画的洋画」と評価されますが、このときの努力が生んだものでしょう。

また精神的に謙蔵を支えたのが、米田雄郎。謙蔵の画室にこまめに訪れました。短歌を作ったり、他愛のない話をしたりして、謙蔵の気持ちは和らいでいったのでしょう。

こうして謙蔵は再び、油絵を描く決意をします。

米田雄郎創刊の短歌雑誌『好日』(東近江市近江商人博物館提供)
表紙絵は謙蔵が手掛けています。

洋画家として生きる

1928(昭和3)年、第9回帝展に出品した「庭」が入選したのを皮切りに、1929(昭和4)年第10回の「梅干」、1930(昭和5)年第11回の「蓮」が続けて入選。そして1931(昭和6)年第12回の「獲物」では、ついに特選に選ばれました。謙蔵の作品は中央画壇で認められるようになりました。
帝展ではその後も特選になる作品を発表し、他の展覧会にも出品。また銀座や神戸市で個展を開催したり、雄郎を始めとする歌人の歌集などの装丁を、手掛けたりもしました(謙蔵自身が短歌を寄稿することも)。

謙蔵の快進撃!

第12回帝展特選「獲物」(絵はがき)(東近江市近江商人博物館提供)
この作品は現在行方不明で、モノクロ画像しか残っていません。しかし、最近モノクロ画像に着色した絵はがきが発見されました。非常に貴重な資料です。

枕元に描きかけの作品を残して死去

精力的に活動を続けた謙蔵でしたが、1943(昭和18)年頃から体調を崩します。上京して第6回新文展(旧帝展)の審査員を務めましたが、審査が終わり蒲生郡に戻ってからは寝込むようになりました。
それでも、1944(昭和19)年6月1日には病床から滋賀県芸術文化報国会絵画部会長に就任するなど、県内の芸術文化にも尽力します。
その1月後の同年7月5日、家族に見守られながら43歳の短い生涯を閉じました。枕元には絶筆となったクレヨン画「喜雨来」と、愛読していた画集や詩集・歌集が散らばっていました。

きっと、どこまでも深く芸術を愛していたんだろうなあ。

戦後1948(昭和23)年、米田雄郎によって謙蔵の遺歌集『凍雪』が刊行されました。謙蔵と雄郎の友情を感じます。

「喜雨来」(絶筆)(東近江市近江商人博物館提供)
日照り続きの年、待望の恵みの雨に喜ぶ村人や牛に魚が、生き生きと表現されています。最期まで蒲生野の人々や自然を愛していたことを、伝えたかったのかもしれません。

東近江市近江商人博物館職員に伺う、野口謙蔵の魅力

今回協力いただいた、東近江市近江商人博物館。江戸時代、近江国(現滋賀県)を本拠地とし、天秤棒を肩に全国へと行商に出た近江商人を紹介しています。前述のように、謙蔵の実家野口家は代々近江商人。ゆかりの芸術家の1人として、多くの資料を所蔵・展示しています。

博物館の職員の方に、謙蔵とその作品に対する想いを伺いました。

野口謙蔵は、ふるさと蒲生野の風景を生涯に渡り描きました。
作品には、川で野菜を洗う人や草原で遊ぶ子どもなど、謙蔵の身の回りにあった人々の日常の一コマが愛情深く描かれています。思うままに色をのせる伸びやかな筆の運びは、彼の自由で温かな人柄が表れているかのようです。
現在は野口謙蔵記念館となっているアトリエ周辺には、山の形などに作品の面影を見ることができます。ぜひ現地を訪れて、謙蔵に思いをはせていただけるとうれしいです。 

ありがとうございます。

おわりに

東京美術学校卒業後、一途にふるさとをテーマに絵を描き続ける。野口謙蔵には、「孤高の画家」のイメージを持っていました。
実際は文展に大作を発表するだけでなく、こまめに上京し研究会にも参加して、後進を指導。一方滋賀県の芸術文化にも貢献しました。地方にいながら、日本の画壇全体を見る視野の広さがありました。ただ、自身を絵で表現するには、生まれ育った大好きな蒲生野でなければならなかったのでしょう。
生前父と約束した「長寿をして」はかなわなかったけど、「ドイライ絵を沢山」描けたのではと、私は思います。

※アイキャッチ画像 野口謙蔵と従姉の野口小蕙(東近江市近江商人博物館提供)

<協力>
東近江市近江商人博物館 

<参考資料>
・東近江市近江商人博物館「生誕120年記念 野口謙蔵の生涯」(2021年)
・角省三『近江の埋もれ人 中川禄郎・河野李由・野口謙蔵』(サンライズ出版、2017年)
・石丸正運編『近江の画人 海北友松から小倉遊亀まで』(サンライズ出版、2020年)

近江の画人 海北友松から小倉遊亀まで

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。