侍に美女も!外国人が撮影した明治日本の様子【誰でもミュージアム】

この美術館の館長

「あ! エモい!」

街を歩いていてそう感じたら、皆さんどうしますか?

今では多くの人がすぐにスマホで写真を撮るのではないでしょうか。
伝説的戦場カメラマン、ロバート・キャパはかつてこう言ったとか。

「『写真』はそこにある。私たちは、ただそれを撮るだけだ。
(The Pictures are there, and you just take them.)」

いまから約150年前、日本は世界で最高にエモい(?)場所の一つでした。
海外から訪れた人びとはその風景に、人びとに、暮らし方に驚き、当時広がりつつあった写真機でバッシャバッシャと撮りまくったのでした。
その時撮影された写真は、各地の美術館や博物館に多く保管されています。

今回はそうした「外国人が撮影した明治日本の様子」をパブリックドメインとして公開されている古写真からご紹介します。

刀や弓を持ったみなさん

フリーチェ・ベアト「侍, 横浜」(1864-65年)メトロポリタン美術館蔵
眼光が、眼光が鋭い……!!! まずは一番インパクトのあったこの写真から。撮影したベアトは、イタリア生まれの写真家。アジアを撮影した初期の写真家の一人として有名で、従軍写真家でもあり、1864(文久4)年の下関戦争の様子なども撮影している。ところで被写体のこの人物、絶対に人を斬ったことがある……。根拠はなくてもそう確信させる、ただならぬ空気感を捉えているところ、写真の黎明期とはいえ、さすがプロです。

アントニウス・ボードウィン「二人の侍像」(1862-1866年)アムステルダム美術館蔵
ボードウィンはオランダ出身の軍医で、日本の出島に滞在していた弟の働きかけで、1862(文久2)年に江戸幕府の招きを受けて来日。東京、大阪、長崎でオランダ医学の普及に努めたほか、明治維新後も日本の教育制度の充実を図った。写真が好きだったそうで、アマチュアながら各地でさまざまな被写体を撮影している。写真の二人は親子のようにも見える。

ジェームズ・マードック著『Ayame-san』(1890年刊)より。撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)
マードックはスコットランド生まれの学者でジャーナリスト。1889(明治22)年に日本に招かれ、第1高等中学校でヨーロッパの歴史と英語を教えた。なんとこの時の生徒が夏目漱石。この本は「Ayame」なる女性をめぐる、男たちの奔放な物語で、小説なのに挿絵じゃなくて各地で撮影された写真が使われている。撮影したのは、彼と幼なじみでもあった写真家ウィリアム・K・バートン。

町や農村のみなさん

同前。撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)
バートンは外交官だった永井荷風の父・永井久一郎とヨーロッパで知り合ったことがきっかけで、1887(明治20)年に来日。母方の祖父が写真愛好家だったことから、自身も写真を撮り始めたらしい。戊辰戦争で有名な榎本武揚を会長として設立された日本初の写真同好会「日本寫眞会」の創立メンバーにもなっている。この写真の後ろに映っているのは1890(明治23)年に竣工し、バートンが基本設計にも携わった浅草の凌雲閣。以下しばらく同書に掲載されているバートンの作品をどうぞ。

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

アントニウス・ボードウィン「三人の農民」(1862-1866年)アムステルダム美術館蔵
こちらは再びオランダ人軍医・写真家ボードウィンの作品。文久2年から慶応2年の間に撮影したと思われる。江戸時代の農村の人びとの雰囲気がよく分かる。撮影した場所は不明なものの、美術館の解説によれば出島に到着してボードウィンはすぐに写真を撮り始めたそうなので、もしかすると被写体の人たちも長崎の人びとかも。ポーズや場所を周到に用意して撮った感じではなく、その場で声をかけて撮ったような雰囲気。

ライムント・フォン・シュティルフリート(推定)「二人のポーターと籠の椅子に座っている日本人女性」(1862-1866年)アムステルダム美術館蔵
シュティルフリートはオーストリアの写真家で若くして世界中を放浪した人物。1860年代に少なくとも2度来日しており、再度来日した際に横浜に居を構え、先ほど紹介したベアトに写真技術を学び、後に自身の写真スタジオを設立した。撮影スタイルはスタジオを使ったポーズ写真が多く、彩色した写真は1873(明治6)年のウィーン万国博覧会などにも出展され、豪華なアルバムにして彼が販売した写真集は外国人に大変な人気となったそう。日下部金兵衛など、彼が育てた日本人写真家も多い。

ライムント・フォン・シュティルフリート(推定)「二人の相撲力士」(1871-1885年)アムステルダム美術館蔵
幕末当時、たとえば坂本龍馬らのポートレートは、フィルムではなくガラスに撮影された。その多くは、薬液で湿らせたガラス板を使う「湿板写真」だったそう(明治30年代からはより簡易な乾板方式が普及していった)。できあがったモノクロ写真に手作業で色を付けたのがこのような「彩色写真」。

女性のみなさん

ジェームズ・マードック著『Ayame-san』(1890年刊)より。撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)
タイトルが「あやめさん」だけあって、先ほど紹介したこの本の中の写真は女性の写真が多め。それも美人な女性ばかり。ちなみにマードックは1899(明治32)年に岡田竹子という日本人女性と結婚し、芝高輪で暮らした。

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

撮影:ウィリアム・K・バートン(大英図書館デジタルコレクション)

アドルフォ・ファルサーリ(推定)「ある日本人女性の肖像」(1883-1885年)アムステルダム美術館蔵
明治時代、横浜を拠点に活躍したイタリア人写真家がファルサーリ。彼の写真もとても人気だったそうで、本や写真集などで広がり、彼の写真技術は日本の写真技術の向上に大きく影響したと言われる。ただ、この写真の撮影者には諸説あり、先述した日下部金兵衛の説も。アムステルダム美術館では「推定」とされている。

ライムント・フォン・シュティルフリート(推定)「アクロバティックなポーズの芸者」(1871-1881年)アムステルダム美術館蔵
こちらもシュティルフリートの作品。きっと彼、このポーズをどこかのお茶屋で見て驚愕したんでしょうね。「WHY JAPANESE PEOPLE!?」と言った記録があるとかないとか。ちなみにこのポーズ、「しゃちほこ芸」と言って、現在でも名古屋の芸者さんの必須スキルなのだそう。ただ、ガラス湿板で撮る場合には10秒程度じっとしておく必要があります。彼女の表情をよくご覧ください。

ライムント・フォン・シュティルフリート(推定)「入浴する三人の女性」(1871-1881年)アムステルダム美術館蔵
おそらく実際の風呂は暗すぎたのでしょう。屋外に小道具を用意して撮影したと思われる一枚。そんなことよりも大きな疑問なんですが、当時の市井の人々は外国人写真家から「写真撮りたいんだけど」と頼まれたら、こういう写真にも快く応えてくれたんでしょうか。「お風呂入っているところ撮りたいのですが?」は、現代では確実にアウトだと思うんですが……。

おまけ

歌川芳員「仏蘭西人写真家とその妻」(1861年)メトロポリタン美術館蔵
幕末から明治にかけて、多くの写真家が日本の様子を撮影しました。彼らはきっと「なんて不思議な人々なんだ!」という驚きを感じていたのでしょうが、奇妙な黒い箱に潜り込んで興奮気味に何やらゴニョゴニョしている彼ら自身も、日本の人々からすれば十分に不思議な人たちだったのでしょう。撮影している彼らを描いた浮世絵が残っている、ということがそのことを物語っているように思えます。

異文化との出会いこそ

幕末から明治にかけての日本は、異文化との遭遇の時代でもありました。

数多く残る写真からは、日本を初めて訪れた人々が感じた驚きや感動、その美しさを留めておこうとした興奮が伝わります。
一方で、その情景は被写体となった人々からすれば、「当たり前の光景」でした。

自らがどれほどの「美しさ」を秘めているか、自分ではなかなか気づかないものです。
そのことに気づかせてくれるのは、普段交わることのない人たちとの出会いやコミュニケーションなのかもしれません。

「誰でもミュージアム」とは?

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