Culture
2022.07.01

旧暦6月16日、明治天皇もされた嘉祥の日の月見とは【彬子女王殿下と知る日本文化入門】

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月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月

なんだか魔法の呪文のようで、心惹かれるこの歌は、公家の子女の成人儀礼である「月見」をする際に唱えられるものである。旧暦6月16日、16歳になる子どもがいる年、男子は脇ふさぎ、女子は鬢そぎの行事が行われる。その日の夜、お饅頭をお供えし、お饅頭の真ん中に萩の箸で穴を開け、その穴から月を眺める。そのときに小声で三度唱えると言うのが、「月々に~」の歌。宇宙と言う概念もなかった時代。人々は夜空の月に、どのような思いを寄せたのだろうか。

元は厄除けだった嘉祥の日

旧暦6月16日は、嘉祥(嘉定)の日と言われている。仁明天皇の御代、疫病が流行したことから、848(承和15)年6月16日に元号を嘉祥と改め、16種の蒸菓子をご神前に供え、厄除けの御祈願をされた。戦国時代頃からは、室町幕府で用いた宋銭「嘉定通宝」の「嘉通」を、「勝つ」と同義とみなして吉祥とし、通宝16枚で食べ物を買い、6月16日に贈答をするという習慣が生まれたという。

嘉祥の日、宮中では、水仙(葛切)と蒸菓子7種がお供えされる。小麦粉や砂糖などを臣下がお祝いとして賜り、それでお菓子を作って献上するという習慣があったという。ご下賜の材料の量は、1升6合と16にちなんでおり、また16を分け、1+6で、7種類のお菓子を作るのが一般的だったとか。対して江戸幕府では、6月16日には、お目見え以上の大名・旗本が総登城し、「嘉祥頂戴」として一つずつ菓子を与えるという行事が行われた。同じ嘉祥の日でも、朝廷と将軍家では様相が異なっているのが興味深い。

千代田之御表 六月十六日嘉祥ノ図 国立国会図書館デジタルコレクション

この日の夜に行われたのが、月見。慶応3(1867)年6月16日、明治天皇も月見をされたことが『明治天皇紀』にある。

「十六日 月見、帯結初並びに袖留の儀を行はせらる、(中略)月見後三献の儀あり、但し諒闇中なるを以て祝宴を行なはせられず」

とあり、前年の年末に父宮の孝明天皇が崩御されたお悲しみの中で成年の儀式が行われたことがわかる。元服をされるよりも早く、満14歳で践祚(せんそ)された明治天皇は、立太子礼を経ずに天皇の位につかれている。突然の皇位継承は、少年帝の御肩にどれだけの重みを負わせたのだろうか。成年を迎え、月を眺められたときの明治天皇のお心持ちはいかなるものであったのだろう。

月見饅の経験を後世につなぐ

虎屋には、和宮様が万延元(1860)年6月16日に「御月見御用」として、月見饅を注文された記録が残っている。和宮様以降、注文がなかったというこの月見饅。どうしても、お饅頭から月を覗いてみたくて、数年前の中秋の名月の日に虎屋にお願いして作ってもらった。私の顔よりも大きな薯蕷饅頭の真ん中には、赤い丸印。そこに萩の箸で小さな穴を開け、ゆっくりと片目をつけてお月様を覗いたときのしびれるような感覚は、今でも鮮烈に体に残っている。お月様と自分がつながった、と思った。お月様と自分しか存在しない、不思議な世界に一瞬にして連れていかれたような、そんな感覚。かぐや姫が、月に帰るとき、羽衣をまとうと地上の人々のことを忘れてしまうという場面があるけれど、それと同じような感覚かもしれないと思った。

竹取物語 国立国会図書館デジタルコレクション

今では忘れられてしまっているけれど、こんな素敵な行事があることをたくさんの方に知ってほしくて、昨年心游舎では月見の復興を試みた。新暦6月16日は梅雨の最中なので、旧暦6月15日、満月にあたる2021年7月24日に、上賀茂神社で月見饅をテーマにしたオンライン配信を行ったのである。

ちょうど16歳になる友人の娘さんが、淡い朱鷺色の袿装束に身を包み、宮司様に手を取られて登場。三方にお供えされた月見饅に萩の箸で穴を開け、「月々に~」の歌を三回唱えながら月を見る。その間に鬢親役の宮司様が、袖を切る「お袖留」の所作をされる。つまりこれが、この先は成人用の短い袖の着物を着るという成人の儀礼なのである。鬢親は、許婚か、許婚がいない場合は父親がするのだという。当時16歳は立派な大人で、結婚相手が決まっているのが当たり前であったということ。本人も、父親も、今はそのことが想像できない様子で、宙を見上げながら感慨深げな表情をしていたのが印象的だった。

月見饅のことを知ってから、私は仲良しの和菓子屋さんに、「本当に素晴らしい経験だったので、絶対現代でもやった方がいいと思うんですよね」と熱っぽく話していた。すると、「それは面白そう!」と和菓子屋仲間に声をかけ、史料片手に勉強会をし、あれよあれよという間に「月見饅プロジェクト」を始めてくれた。月見饅の大きさ、生地や中身は、各店で様々。6月16日だけでなく、秋の月見の時期にも販売している。

近世の月見饅の記録も、直径7寸(21センチ)ほどの大きな饅頭に手で穴を開けるとか、中に16の小饅頭が入っている大きなお饅頭の真ん中に紅を塗って、萩の箸で穴を開けるとか、三方に載っている16種の菓子の中から、饅頭を取って穴を開けるとか、いろいろなパターンがある。現代の月見饅も、様々な形があっていいのだと思う。

6月30日の夏越の祓に食べることで定着した水無月のように、いつしか成人儀礼という要素は忘れられて、「中秋の名月は、お饅頭の真ん中に穴を開けて見る」といった新しい月見饅の「伝統」が日本に根付いていくのかもしれない。その伝統の始まりは、数年前のあの中秋の名月だったと、心の中で私が静かに喜べる日はくるだろうか。

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。