Culture
2022.09.28

前田青邨とは?「洞窟の頼朝」など代表作も展示の岐阜県美術館にインタビュー

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前田青邨という日本画家をご存じでしょうか。
岐阜県中津川市の出身で、大正から昭和にかけて日本美術院で中核的役割を担い、歴史画を主軸として花鳥画や肖像画など幅広い作品を残した人物です。
青邨は東京藝術大学の日本画科主任教授(後に名誉教授)となり、平山郁夫(ひらやま いくお)など後進の育成にも尽力しました。

このたび岐阜県美術館では開館40周年を記念し、「前田青邨(まえだ せいそん)展 究極の白、天上の碧(あお) -近代日本画の到達点-」が開催されるとのこと。
岐阜県美術館・学芸課長の青山訓子(あおやま のりこ)さんに、青邨の歴史画家としての歩みや人となり、また本展覧会の見どころについてインタビューしました。

前田青邨(1885~1977)画像提供:岐阜県美術館 
ポスターに使用されている《洞窟の頼朝》(大倉集古館蔵)は、1929(昭和4)年に描かれたもので、青邨の代表作。国の重要文化財に指定されている。若き日の❝鎌倉殿❞とその主従を描いた大作。今回の展覧会では全期間(9/30~11/13)通じて観ることができる。早稲田大学 會津八一(あいづ やいち)記念館蔵の《羅馬使節(ローマしせつ)》も約40年ぶりの郷土での公開。そのほか《紅白梅(こうはくばい)》(公益財団法人ひろしま美術館蔵)などの華麗な作品から、肩の力を抜いて鑑賞できるホッとするような小品まで、100点を超える作品群が一堂に介する(※半期ごとに入れ替えあり)。

青邨の生い立ち

生家は今も残る老舗の乾物屋

―青邨さんは岐阜県中津川市の出身だと聞いていますが、その生い立ちについてお聞かせください。
青山:青邨さんの出身地である中津川はかつての中山道の宿場町で、人の交流も多く、にぎやかな場所でした。
本名は廉造(れんぞう)さんといい、三男一女の次男さんでした。おうちは人を雇って商売をするような乾物屋さんだったそうです。
生家は青邨さんのおにいさんが継がれ、今も中津川名物の菊ごぼう漬けなどを扱う老舗の食品会社として存在しています。
社屋の2階には「前田館」というギャラリーがあって、そこには青邨さんの描いた絵画や、青邨さんと交流のあった梶田半古(かじた はんこ)さんや安田靫彦(やすだ ゆきひこ)さん、横山大観(よこやま たいかん)さんといった人たちからの手紙なども展示されています。
―上京されても故郷との縁を大切にしておられたのですね。ご商売に興味はなかったのでしょうか。
青山:算数はあまり得意ではなく、幼い頃から絵が上手で、校長先生から「将来何になる?」と聞かれて「絵でも習ってみたい」と答えたそうです。
とはいえ身近な所に絵描きさんのつてもなく、尋常高等小学校を卒業してから1、2年、家業を手伝っていた時期がありました。

東京美術学校受験のために東京の中学校に入学するが、胸の病気で断念

―その後、どうやって絵の道に進まれたのでしょうか。
青山:青邨さんは絵の勉強をするために、東京美術学校(東京藝術大学美術学部の前身)に入りたいと思いました。でも、東京美術学校を受験するには中学校の卒業資格が必要だったのです。そこでお父さんに相談して、東京で下宿屋を開いていたおじさんを頼って上京し、京華中学校に入学します。ところが胸の病にかかり、3カ月ほどで退学せざるをえませんでした。
―う~ん、なかなか思い通りにいかないですね。
青山:そうですね。実は中学に入学する前年に、おかあさまが胸の病で亡くなっています。青邨さんは静岡でしばらく療養した後故郷に戻り、母校の補習科に通うなどするうち、やっと体調が回復します。そこで今度は中学に通うのをあきらめ、直接画家に弟子入りできないかということで、おじさんを頼ってつてを探し始めます。

青邨が憧れた東京美術学校 『東京風景』小川一真出版部 国会図書館デジタルコレクション

親戚のつてで尾崎紅葉を知り、梶田半古に弟子入り

―地方出身者にとって、東京で師事する日本画家を見つけることは容易(たやす)くなかったと思うのですが…
青山:東京のおじさんは顔も広く、いろいろな人脈があったようです。おじさんの息子さんに絵の好きな知り合いがいて、その人が小説家の尾崎紅葉と旧知の間柄でした。
当時、紅葉は読売新聞に『金色夜叉(こんじきやしゃ)』を連載しており、その挿絵を描いていたのが、青邨さんの師となる梶田半古さんだったのです。

師と弟子・半古と青邨

日本画家であると同時に最先端の売れっ子画家だった半古

―梶田半古さんとはどんな方だったのでしょう。
青山:半古さんは当時読売新聞の社員でした。紅葉だけでなく連載小説の挿絵のほとんどを手掛けており、当時大人気だった恋愛小説『魔風恋風(まかぜこいかぜ)』の挿絵も描いていました。これに描いた女学生像―袴姿でブーツをはき、自転車に乗っている―が、実際の女学生の間で「あの着こなし、ステキ!」と話題になるほどの、流行の最先端を作り出すような画家だったんです。
―大和和紀さんの漫画『はいからさんが通る』に出てくるような女学生像ですね!
青山:そうです、そうです。その一方で日本画家としても評価され、「日本青年絵画協会」(現在の「日本絵画協会」)を立ち上げる時にも、発起人の一人として名を連ねるような人物でした。お弟子さんも当時、10人以上はいたようです。
―日本画家としての評価も高く、それ以上に売れっ子の挿絵画家だったのですね。
青山:半古さんの描く女性は優しく、かわいらしく、男性は品格があって、とても大衆に好まれました。

『新版引札見本帖. 第1』より さっそうと自転車に乗って行く当時の女学生。まさにハイカラさんそのもの   国会図書館デジタルコレクション

梶田半古の弟子育成方法は、まさに❝神❞!

―半古さんはどんな先生だったのでしょうか。
青山:半古さんにはしっかりした教育方針があって、「写生は大事だから目の前のものを写生しなさい。そして、昔の絵からは学ぶところがたくさんあるので、よく勉強しなさい」と言っていたそうです。半古さん自身はいろいろな絵描きさんに師事しましたが、独学に近かったようで、流派にこだわらず、さまざまなものを吸収するタイプの画家だったようです。お弟子さんに対しては最初はきちんと手ほどきするけれど、ある程度描けるようになったら「自由に好きな絵を描きなさい」といっていました。ですから、青邨さんものびのびと、いろんなものが描けたのではないでしょうか。
―弟子にとっては❝神❞的存在の先生だったのですね。
青山:はい、本当に理想的な師だったと思います。半古さんの塾は有名な画家を何人も輩出しました。青邨さんのほかにも、その兄弟子で塾頭を務めていた小林古径(こばやし こけい)さん、奥村土牛(おくむら とぎゅう)さんなど十数名はいたようです。

梶田半古 『名媛絵端書双六』 国会図書館デジタルコレクション

歴史画家・前田青邨

17歳の画壇デビュー作は《金子家忠》

―半古さんの塾で青邨さんはほかの塾生と切磋琢磨しながら、頭角を現していったのですね。
青山:はい。初めて出品したのが1902年に行われた「第7回日本美術院連合絵画共進会」です。これに馬に乗った金子家忠という武将を描いた《金子家忠》を出品。3等に入賞しました。青邨さんは17歳で、師匠の半古さんから❝青邨❞という雅号をいただいたのもこの時です。
―金子家忠とはどういう人ですか。
青山:源平合戦時代の武将です。江戸時代に菊池容斎(きくち ようさい)という人が書いた挿絵入り歴史人物事典『前賢故実(ぜんけんこじつ)』に描かれており、武者絵が好きだった青邨さんはそれをモチーフにしたと考えられます。『前賢故実』は全十巻に及び、描かれている歴史上の人物は500人以上。半古さんは有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しかった容斎を大変尊敬していて、常日頃、青邨さんたちに『前賢故実』を読んでしっかり勉強するようにと言っていたそうです。きっと青邨さんたちも『前賢故実』を参考に、「これ、勉強になる~」とか言いながら模写していたんやろなあと思いますね。

金子家忠。1180年に行われた衣笠城合戦において、平家方として戦い、21本の矢を受けても一歩も引かずに戦ったという逸話の持ち主である。『前賢故実』巻第7 国会図書館デジタルコレクション

「文展」での落選に発奮 以後は受賞の常連組に

―日本画家として順調なスタートを切った青邨さんですが、その後、どんな道を歩んで行くのでしょうか。
青山:1907年、国主催の「文部省美術展覧会(文展)」が始まります。これは日本で初めての官営の美術展覧会で、現在の「日展」の前身です。青邨さんも出品するのですが、落選してしまいます。
―え~、そんな!
青山:この時はそれまでにもらった賞状などをおとうさんに見せるために、春、中津川に帰郷しており、出品のための取り組みが遅れたんですね。
これは青邨さんにとって最初で最後の落選でした。とてもショックだったようですが、これで発奮し、以後は受賞の常連組として名を連ねるようになります。

「紅児会(こうじかい)」に入会 原三溪から支援を受ける

青山:また、1908年、青邨さんは「紅児会」に入会し、安田靫彦さんや今村紫紅(いまむら しこう)さんらとともにいっそうの研鑽に励みます。
―「紅児会」とはどのような会だったのでしょうか。
青山:安田さんや今村さんが中心になってつくった若手による日本画の研究会です。最初は「紫紅会(しこうかい)」という名前でしたが、後に「紅児会」に改められました。その活動は停滞気味だった日本画壇に新風を吹き込みました。1913年に解散しますが、会員の多くはその後岡倉天心が創立した「日本美術院」に参加し、活躍しました。
―青邨さんも「日本美術院」に同人として参加するのですね。
青山:そうです。この頃には岡倉天心や下村観山から指導を受けています。1911年、後に荻江節(おぎえぶし)という三味線音楽の流派の5代目を襲名する松本すゑさんという女性と結婚しますが、この年に横浜の実業家・原三溪(はら さんけい)から支援を受けています。原三溪は岐阜県の出身で、同郷ということもあったのでしょう。彼は芸術に深い理解と関心を示し、ほかにも多くの芸術家たちを支援しています。

原三溪(原富太郎)。生糸貿易によって財をなし、「三溪園」を造って人々に無料で開放した。関東大震災後は私財を投げうって、横浜の復興に尽力した。「近代日本人の肖像」国立国会図書館

絵巻物から学んだ優れた人物描写

―青邨さんの絵には歴史上の人物も数多く登場しますが、人物描写はどのように学んだのでしょうか。
青山:古来、日本では絵画形式の一つとして絵巻物がありました。有名な『源氏物語絵巻』や『鳥獣人物戯画』などはその一つです。青邨さんは絵巻の中の人物像をすごく勉強していました。
たとえばかぐや姫の物語として知られる『竹取物語』では、月の国から姫を迎えに使者がやってくるのに対し、姫を月に返すまいと人々が屋根に上り、これを迎え撃とうとします。しかし、どうすることもできず、右往左往しながら立ちすくむばかり。この時の人々の表情や様子を、昔の絵巻に描かれている人物の表現を参考にして研究しました。
―へえ、絵巻物の中の人物描写ですか!
青山:はい。平安から鎌倉時代にかけて、超常現象(托鉢に使う鉢の上に米倉が乗って宙を飛ぶ)が登場する『信貴山縁起(しぎさんえんぎ)』や、不眠症に悩む女などをリアルに描いた『病草紙(やまいのそうし)』など、人々の心理描写に優れた説話絵巻や雅(みやび)やかな物語絵巻が数多く存在します。青邨さんは絵巻に出てくる人物を模写しながら描き方を学び取り、自分の中に落とし込んで再構築していったのだと思います。青邨さんは人物描写について、「絵描きにとって人間を描くのは難しいことだと思う。風景や花鳥を描くのが難しくないとはいわないけれども、人物を描けることが一番なんじゃないかと。人物が描けるようになると、他のものも描けるようになる気がする」といっています。

「志貴山縁起」 国会図書館デジタルコレクション

最大の見どころ《洞窟の頼朝》と《羅馬使節》

西洋美術視察のため、小林古径らと渡欧

―1922年、10カ月にわたり青邨さんはヨーロッパ各地を旅行していますが、これはどういう目的があったのでしょうか。
青山:「日本美術院」の設立25周年記念事業で、小林古径さん、彫刻家の佐藤朝山(のち玄々)さん(当時は彫刻の部もあった)と共に西洋美術の見聞に出かけたのです。古径さんはこの旅で、「大英博物館」で中国の古い絵を模写するという依頼を受けていました。イタリアに始まり、エジプトでは王家の谷でツタンカーメン王墓の発掘を見学。アッシジのジョットやミラノの「最後の晩餐」、オランダではレンブラント、ベルギーではルーベンス、スペインのベラスケス、そして「ルーブル美術館」に「大英博物館」など、ヨーロッパのありとあらゆる所の美術を見て回るグランドツアーだったのです。
―まさに眼福の旅でしたね。

日本画に対して自信を失いかけていた青邨

青山:実は渡欧する前、青邨さんは日本画に対して自信を失いかけていたんです。
―えっ、それはなぜでしょうか。
青山:当時の流行は西洋絵画の写実主義に傾いていました。日本画家の中でもそれに倣って、徹底的に細密描写をするという傾向があったのです。それに対して「なんだ、これは」と怒る人もいれば、「すごい」と誉める人もいるという状態で、青邨さんがこれまで良いと思って描いてきた日本画と流行とがそぐわなくなり、心底悩んでいたようです。
―それは辛かったでしょうね。
青山:ところがヨーロッパに行ってみると、初期ルネサンスのジョットのフレスコ技法の壁画は顔料を溶いて絵の具を作って描くというスタイルで、日本画に通じるところがあったんです。こうした発見をすることで、ヨーロッパの絵画は異質なものではなく、日本画とも相容れるところがあることがわかり、「これならイケる!」と思えるようになったんですね。それで自信を取り戻すことができたのです。

歴史画の集大成・大迫力の《洞窟の頼朝》

青山:青邨さんは渡欧することでより深く西洋絵画を知り、日本画の方向性についてヒントを得ることができました。
それは西洋絵画は額縁で切り取ったような小さなものではなく、建物を覆いつくすようなスケールの大きなものが多いということでした。ですから、日本画も大きさを出したモニュメンタルな絵に取り組むべきだと考えたのです。そして描かれたのが《羅馬使節》や《洞窟の頼朝》です。
―二つの絵は全期間通して展示されるということですが、見どころを教えてください。
青山:《洞窟の頼朝》は1929年に描かれており、青邨さんの作品の中で唯一、重要文化財に指定されています。
源氏再興を目指して挙兵したものの石橋山の戦いに敗れ、頼朝とその家来たち7人が追手を逃れ、山中の洞窟に身を潜めている大変緊迫した場面です。
高さが2m以上ある大変大きな作品で、まずはその大迫力に驚かれるかと思います。でも、よく見ると鎧とか人の顔の描き方とか、一つ一つがこれまで青邨さんが研究してきた日本画の美しさを前面に押し出しているんです。西洋絵画を研究したからこそ日本画の美しさに戻ってこれた。ただ、以前と同じではなく、西洋美術を見て来たからこそ、行きついた世界観だと思うんですよね。
―私はこの絵を見ると、頼朝がとてもふくよかで若々しく、なんとなく微笑しているかのように見えます。
青山:青邨さんは《洞窟の頼朝》を描く際、鎧を描くのにとても集中していて、もう少し人物の心理描写を深く描けばよかったと思っていて、この後何度も同じテーマで構図を変えたりして、《洞窟の頼朝》を描いています。今回も登場するのでぜひ、比べていただきたいですね。
―大将の着るような鎧は装飾性も高く、とても美しいですね。
青山:はい。研究熱心な青邨さんは、日本各地で秘蔵されている鎧が公開されると聞いたら写生に行ったり、各地の神社などにお願いして鎧を写生する機会を得たそうです。

前田青邨《洞窟の頼朝》1929年 重要文化財 大倉集古館蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

異国情緒漂う白馬に乗った美少年《羅馬使節》

―それではもう一つの作品《羅馬使節》について教えてください。
青山:こちらは1927年に制作された作品で、戦国時代末期に九州のキリシタン大名が派遣した天正遣欧少年使節を題材に、白馬にまたがる少年の姿を描いています。少年はおそらく首席正使であった伊東マンショだろうと思われますが、青邨さんははっきりそうだと断言されておらず、あくまで天正期にバチカンに派遣された美少年を描くことで、東西文化の融和を図ることを意識したのではないかと考えられます。こちらも縦290㎝に及ぶ大作です。
―宗教画のような趣の強い作品で、青邨さんとしては珍しいテーマではないかと思うのですが、キリスト教に対するリスペクトもあったのでしょうか。
青山:キリスト教文化に対する尊敬の念というのはすごくあったんじゃないかと思いますね。
空の上の方にちりばめられた十字の星のような模様は拡大すると鳥なんです。かなりデフォルメされているのではっきりとは言えないですが、私個人としてはヒワではないかと。十字架にかけられたイエス・キリストはイバラの冠を被せられますが、そのトゲをヒワが抜いてあげたんです。その時に飛び散った血がヒワの胸を赤く染めたといわれていて、キリスト教美術では、この鳥はとても大事にされています。
また馬の脚元にはクジャクバトがいます。ハトも旧約聖書に出てくる「ノアの方舟」のエピソードにちなみ、キリスト教では平和の象徴とされている鳥ですね。
このほか、ヨーロッパの宗教画に用いられたフレスコやテンペラの技法を東洋画の絵具を用いて取り組むことで、これまでになかった独自の表現方法を生み出そうとしていることが見て取れます。
―実際イタリアに行って見聞したからこそ、生まれた作品といえますね。

前田青邨《羅馬使節》1927年 早稲田大学 會津八一記念博物館蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

青邨が求めた❝究極の白と天上の碧❞

「前田さん、濁りを取りなさい」

―今回、タイトルとしてつけられた❝究極の白と天上の碧❞とはどういう意味でしょうか。
青山:色彩の美しさを追求することは、青邨さんにとって大変重要でした。「紅児会」時代、岡倉天心に指導を受けたことはすでにお話ししましたが、ある時、たまたま会場にいた青邨さんに、天心は「前田さん、濁りを取りなさい」と声をかけたのです。それでハッとした青邨さんは、自分の色の使い方がよくないことに気づきました。
天心の言葉が絵を見直す大きなきっかけになったのです。
―「濁りを取る」とはどういう意味だったのでしょうか。
青山:色の使い方でその絵が人に与える印象は大きく変わってきます。「濁りを取る」というのは、色彩感覚をもっと研ぎ澄まして品格の高い絵を描きなさいというアドバイスでした。青邨さんは天心によって、より高みへと引き上げられたのです。それを「天上の碧」という言葉で表してみました。

青邨の水墨画‐極められた墨の線‐

青山:青邨さんは濃密な色彩の仕事をする一方で、水墨画も描いています。着色画と水墨画の両方を院展に出したこともありますし、水墨画を出した翌年に着色画を出展したこともあります。
―水墨画を描くことで、青邨さんは何を極めようとしたのでしょうか。
青山:墨の線と余白の美だと思います。着色画と水墨画は、ともに青邨さんの絵の両輪として描かれました。

1933年、鵜飼を取材した後、時を置いて制作された。墨の瑞々しい色が鵜の艶やかな羽の色として際立っている。前田青邨《鵜》1940年 株式会社十六銀行蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

可愛いらしい青邨さんも見てほしい

―最後に青山さんオシの青邨さんを教えてください。
青山:はい。日本画の巨匠のイメージが強く、代表作ばかりを集めた展覧会と思われがちなのですが、青邨さんは院展などに出す大作ばかりでなく、個人の依頼による小品も数多く描いています。今回はあえて、《柄長》のような小鳥や小動物、花などを描いたかわいらしい作品もご紹介します。
青邨さんて、本当に絵を描くことが大好きな一人の男性だったと思うんですよ。昔の作品にこだわらず、描き終えてしまうともう、次の絵について構想を練っている。
とにかく良い絵が描ければそれでいいと思っているような…周りのご家族たちもそのことがよくわかっていて、みんなでおとうさまの画業にすごく協力されていたんです。
作品を通して一人の人間としての魅力を伝えることで、青邨さんを身近に感じてもらえたらと思います。
―会期中には関係者の方々による記念講演会や美術講座、鑑賞会なども予定されています。
ぜひ、拝聴したいと思います。今回はどうもありがとうございました。

仕事中の青邨。院展出展の絵を描いている時は画室の横で音を立ててはいけない。線を引いていたりする時にちょっとでも音を立てると絵を描くのを途中でやめてしまうということもあったらしく、ご家族は画業の邪魔をしないように、とても気を使っていた。画商との交渉も奥様が取り仕切り、青邨が絵に集中できる環境を整えていた。また、若い頃に肺を患っていたため、常日頃、衛生管理をきちんとしなければということで、金属板の上に洗濯物を広げて天日で殺菌していた。そのため、タオルや手拭いがいつもバリバリだったというエピソードもある。 画像提供:岐阜県美術館

モデルは十四世喜多六平太(きた ろっぺいた)。舞台に上がる前の能楽師の緊張感に満ちた姿をとらえた異色の作品。青邨の代表作の一つ。前田青邨《出を待つ》1955年 岐阜県美術館蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

背景の全面に施された黄色は草花模様のカーペット。たらし込み(絵の具が乾かないうちにほかの絵の具を垂らしてにじませる)を用いて描かれている。前田青邨《猫》1949年 滋賀県立美術館蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

青邨が初めて本格的に花鳥画に取り組んだ作品。金屏風に描かれ気品が漂う。前田青邨《罌粟(けし)》1930年 光ミュージアム蔵 ©Y.MAEDA & JASPER,Tokyo,2022 E4702

展覧会詳細

会期:令和4年9月30日(金)~11月13日(日)
10:00~18:00
※10月21日(金)は20:00まで開館
展示室の入室は閉館の30分前まで
前期展示:9月30日(金)~10月23日(日
後期展示:10月25日(火)~11月13日(日)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は翌平日)
観覧料:一般1,300円 大学生1,000円 高校生以下無料
※20名以上の団体割引あり
問い合わせ:058-271-1313 岐阜県美術館

◆記念講演会「祖父の画室」
日 時:令和4年10月1日(土)13:30~15:00
会 場:岐阜県美術館 講堂
講 師:秋山光文(あきやま てるふみ)氏(前田青邨孫、お茶の水女子大学名誉教授、目黒区美術館長)
◆美術講座「青邨芸術の出発点」
日 時:令和4年10月22日(土) 13:30~15:00
会 場:岐阜県美術館 講堂
担 当:北泉剛史(きたいずみ つよし)氏(岐阜県美術館学芸員)
◆美術講座「作画三昧 青邨の人生と芸術」
日 時:令和4年11月5日(土) 13:30~15:00
会 場:岐阜県美術館 講堂
担 当:青山訓子(あおやま のりこ)氏(岐阜県美術館学芸課長)
◆鑑賞会
日 時:令和4年10月 9日(日) 15:00~16:00
令和4年10月21日(金) 18:45~19:30
令和4年10月23日(日) 15:00~16:00
令和4年11月 6日(日) 15:00~16:00
会 場:岐阜県美術館 展示室
担 当:本展担当学芸員
◆ナンヤローネアートツアー
日 時:令和4年10月2日(日)14:00~15:30
会 場:岐阜県美術館 多目的ホール、展示室
担 当:教育普及係


【取材協力】
岐阜県美術館
学芸課長:青山訓子氏

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

この記事に合いの手する人

人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。