Gourmet
2019.10.09

「INUA」ガストロノミーの極 最先端の北欧キュイジーヌに化身する和の食材 

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「新しい料理法の発見は、人類の幸せにとって新しい星の発見以上の貢献である」
19世紀フランスの美食家ブリア・サヴァランのこの有名な言葉が真だとすれば、今、人類への最大の貢献をしている人物が日本にいる。
東京・飯田橋にあるレストラン「INUA(イヌア)」のシェフ、トーマス・フレベルその人だ。

およそ美食に関心があるなら、デンマークで北欧キュイジーヌの旋風を巻き起こした「noma」とそのオーナーシェフであるレネ・レゼピの名を知らぬはずはない。レゼピは「新しい北欧料理のためのマニフェスト」を掲げて地産地消と新食材の開発を徹底して行い、高い思想性を帯びた斬新な料理で注目を集めた。ローカル食材を積極的に使うことで地元経済に好循環を及ぼし、世界中から「noma」で食事をするためにコペンハーゲンに足を運ぶ人々を集めたことで、米国のタイム誌が「ノマノミクス」という造語を作ったほどだ。
そんな伝説級のレストランで長らくヘッドシェフを務めていたのがトーマス・フレベルであり、「INUA」はまさに「noma」の正統を継承するレストランなのである。
「noma」といえば予約が取れないことでも有名だったが、その流れを汲む料理を日本で味わえる事実がどれほどの幸運なのかは、フロアに入れば一目瞭然。目立つのは外国人のゲストで、英語のほか、イタリア語、中国語など様々な言語が漏れ聞こえてくる。世界各国から「INUA」を目指してやって来ているのだ。「noma」と同じ現象が今まさに起っているのである。
「INUA」の料理はすべておまかせの「INUAの四季 」ワンコースのみで、ドリンクはアルコールかノンアルコールのペアリングを選ぶことができる。ディナーの飲み物であればアルコールを選ぶのが普通だが、「INUA」ではあえてノンアルコールのペアリングをおすすめしたい。他所では絶対に味わえない、独創的かつ美味なジュースやお茶の数々が用意されているからだ。

理想的なのは、食前酒として軽く一杯シャンパーニュなどをいただき、その後はジュースで、といったところだろうか。

訪れたのは9月下旬。この日のコース内容を先に紹介してしまおう。

鮟肝テリーヌ、炭火焼きインゲン、ブナの実
秋の恵み、エノキの茎、鹿の脂身
タケノコとキャビア
白エビと麹のケーキ
熟成・燻製させた舞茸
プラムレザーとアロマティックフラワー
つぶ貝、スベリヒユ、かぼちゃの種の麹
金目鯛、卵黄ソース
枝豆シチュー
炊きたてのななつぼしと蜂の子
キャラメライズした麦麹のアイスクリームと松ぼっくり
わかめのミルフィーユ

いかがだろうか。キャビアや白エビはいかにも高級食材だが、つぶ貝や枝豆となるとぐっと私たちに近づいてくる。まして「エノキの茎」となると完全に節約メニューだ。
そんなものを食べに、わざわざ高級レストランに? と思うかもしれない。
だが、ここであなたを待っているのは、あなたが知っている「エノキの茎」ではない。映画「マイ・フェア・レディ」で下町の粗野な花売り娘が高貴なプリンセスに変貌したように、まったく知らなかった顔を見せてくれる。と、能書きはひとまず置いて、一つ一つの皿を順に紹介していこう。なお、今回掲載する写真はすべて筆者が撮ったもので、小食な筆者の腹具合に合わせて通常の量の八分目から半量に調整してもらっていることは先に断っておく。

一皿目の「鮟肝テリーヌ、炭火焼きインゲン、ブナの実」はゲストに対する最初のプレゼンテーションとなる一品。それだけにのっけから意表を突く仕掛けが施されている。

彩り麗しいテリーヌとそれを取り囲む魚類の鋭い歯。人の手を尽くすアートとしての料理、だがその底に人力では制御不能の野生があることを思いおこさせる哲学的なサービングだ。
美しくストライプを描くインゲンの下に隠れた泡、これが鮟肝だと聞いて驚いた。「とにかく急いで食べてください」と急かされる。それというのも、これは鮟肝を泡状にして凍らせ、それで形を保っているので、溶けてしまえば一巻の終わりだからだ。スプーンでインゲンごとすくい、口に入れる。舌先でとろける泡。確かに鮟肝の力強いコクが感じられる。だが、蒸し鮟肝に感じるような臭みや雑味は一切ない。鮟肝の脂の旨味だけが軽やかに浮かび上がってくる。そこにインゲンやブナの実の甘み、ソースの酸味、松のような複雑な香りが加わり、食感はどこまでもライトなのに重量級のうまさが口中で作り上げられる。まるで奇跡のようだ。ここから始まる12皿の旅を彩るにふさわしい一皿である。ちなみにブナの実は大変貴重な食材で、山で暮らす人たちにとっては大のごちそうなのだそうだ。


「秋の恵み、エノキの茎、鹿の脂身」では、秋の食材が北欧キュイジーヌの文脈で表現されている。曲げわっぱにあるのはカシスの枝で串刺しにしたサルナシの実、ハマナスの実、ナッツのオイルを添えたセップ茸。デンマークの伝統的な意匠だという木の皿には鹿の脂身のグリルを上に乗せたエノキの茎のローストが提供される。一見、野趣あふれるようで、その実一品一品の手の込み方は半端ではない。どのようにしたものなのか形を保ったままシャーベットになっているサルナシの実、舌先で潰れるハマナスの実、セップ茸は松茸に似た香りで秋の気配を感じさせる。エノキの茎は醤油ベースの味付けだろうか。独特のシャキシャキした歯ざわりにとろけるような鹿の脂身が乗ってくると、山の幸ならではの深みのある旨さが誕生する。これぞ食材の相乗効果というものなのだろう。


「タケノコとキャビア」も驚きの一皿だった。タケノコというと春の代表的な食材だが、中には秋に芽吹く種類があるそうで、そんな変わり種をアク抜きしないままグリルし、キャビアを惜しげもなく載せた。タケノコのアクは通常邪魔な雑味とみなされ、適宜取り除かれるものだが、ここではその雑味がキャビアという強い食材を迎え撃つにふさわしい武器になっている。タケノコとしっかりとした苦味とキャビアのまろやかな塩味が重なると、これまで知らなかったタケノコ本来の味が表面に出てきた。これは大きな発見だ。和食のタケノコが手弱女振りだとすると、このタケノコは明らかに益荒男振りだ。

続く「白エビと麹のケーキ」は、毎日数人のシェフが総出で手むきをしているという白エビの、トロリとした甘さを邪魔しないように麹で塩味をつけたもの。白エビの繊細さを前にすると、醤油や塩では確かに強すぎる。麹の自然な旨塩加減は、白エビという食材にとっての最適解なのかもしれない。

「熟成・燻製させた舞茸」は「noma」で完成された熟成や燻製の技術をストレートに感じさせる「INUA」定番の一皿だ。
数日をかけて熟成・燻製の手間をかけた舞茸が、松の木や昆布の出汁に味噌で味をつけたスープに沈んでいる。松の木のスープというと驚くかもしれないが、松の木の香り高さと松の実の植物らしい丸みある油が感じられ、舞茸本来の旨味ととてもよく合う。洗練の極みにある野性味、とでもいえばよいだろうか。そこに加えるよう別添で運ばれてくるのが桜の塩漬けを乾燥させたものだ。手で細かく砕いて、ぱらりと振りかける。

桜のたおやかな、だが芯のある香りは、タフな松香に一歩も引けを取らない。皿の上で妍を競う春秋の香り。見た目は無愛想な料理だが、内奥には聞香を楽しんだ平安貴族に通じる優雅さがある。

日本らしい控えめな優雅の次は西洋の優美。「プラムレザーとアロマティックフラワー」は文字通り絵画と見紛う一品だ。プラムの硬めのゼリーの上に、バラの花弁やハーブが載せられている。これほど美しい一皿は見たことがない。ルビーの色に輝くシートは手で丸め、一口で食べる。バラやコリアンダーの香りが最初に立ち、次はプラムの酸味、最後には各種ハーブの複雑なアロマが交互に現れては消えていく。宝石のような姿を愛でた後、口の中で始まる香りの探検。食はアートにしてエンターテインメントという精神をこれ以上表現した一皿はないだろう。

「つぶ貝、スベリヒユ、かぼちゃの種の麹」では居酒屋の定番であるつぶ貝も纏う衣を変えればヴィーナスになることを教えてくれる一品。添えられたスベリヒユは道端に生えている珍しくもない雑草だし、かぼちゃの種は中国では子どものおやつだ。そんな野生児たちでも、シェフが手を加えれば女神を助ける侍童になる。添えられた長命草のソースは長老のごとく場をまとめ、つぶ貝の甘みをいや増していた。
さて、いよいよこの日のコースで私がもっとも感動した一皿にたどり着いた。「金目鯛、卵黄ソース」である。

店内では「スペアリブ・カット」と呼んでいるというスペシャルな形に整えられた金目鯛は、わかりやすくいうと「皮をパリッと、中はやわらかくジューシー」に焼き上げられたローストなのだが、もちろんそれだけで終わるはずがない。まず、この「皮をパリッと、中はやわらかくジューシー」のレベルが違うのだ。皮はギリギリの緊張感で焼かれ、歯が当たっただけで裂ける。その裂け目から飛び出してくる旨味の塊のような脂混じりのスープは、食材がその身の内に秘めていた水分だ。それがほとんど損なわれず、それなのに決して水っぽくはない。金目鯛のように身の柔らかい魚を焼く場合、通常は塩で〆て水分を抜き、旨味を凝縮させるものだが、「INUA」では水分も食材のポテンシャルとして最大限に活かしているのである。これにはもう恐れ入ったというか、これまで食べてきた金目鯛はなんだったのだろうと少々呆然としたものだった。決してオーバーに言っているのではない。あの驚きを伝える表現としては、これでもまだ足りないほどだ。
卵黄ソースは皮のスパイシーな味付けをを辛すぎると感じる向きのために添えられているらしいが、私には必要なかった。この日食べたもののうち、もっとも切実に「もう一度食べたい」と願う最高の逸品だった。
「枝豆シチュー」、そして定番メインである「炊きたてのななつぼしと蜂の子」もまた、「INUA」の精神を表現している。まるで欧州の田舎のおばあちゃんが作ってくれたような「枝豆シチュー」といい、信州の郷土食である蜂の子を白飯に混ぜた「炊きたてのななつぼしと蜂の子」といい、カントリーサイドが持つ食の豊かさを、最高の技術で美食に引き上げている。最後の最後に豆と米が連続するのも、優しいおばあちゃんが「もうお腹がいっぱいになったかい? まだ足りないんじゃないのかい?」と心配しながら出してくれているようで、なんだか微笑ましい。ゲストを家族のようにあたたかくもてなそうとする気持ちが感じられる。
デザートは二品。松ぼっくりにせよ、わかめにせよ、誰がデザートになると想像するだろう。最後の最後まで山の幸と海の幸がそれぞれ新しい顔を見せてくる。驚きに始まり、驚きに終わったコースだった。
「INUA」はわかりやすい高級食材をわかりやすい高級料理として出す店ではない。高級ホテルのメインダイニングのようにエンゲージリングを用意して一世一代の舞台にするタイプの店でもない。
ここは、純粋にガストロノミー、それも世界最先端のガストロノミーを味わいに行く空間であり、これまで知らなかった味覚の宇宙を発見しに行く場所なのだ。ある種、ラボのようなものだといえるかもしれない。食事の前には、希望者は別フロアにあるテストキッチンに案内してもらえるが、そこにある風変わりな食材の数々と遠心分離機などおよそキッチンとは縁がなさそうな機器を見ると、食の可能性はまだまだ無数に隠れているのだと思い知る。
トーマス・フレベルは言う。「日本の秋の食材といっても単純に一つに括れるものではありません。長野の深い森の秋に育まれたものもあれば、沖縄の、本土とはまったく違う秋に成るものもあります。探検するたびに驚くような食材に出会うのです。私たちはそんな日本の食材を使っており、固有の長い歴史や文化に大変な尊敬の念を持っていますし、その中から生み出されてきた料理法にも敬服しています。しかし我々は和食を作りたいわけではありません。驚くほどレベルの高いレストランが立ち並ぶ東京という都市で、次に段階に位置するタイプの新しいレストランを創り上げていきたいのです」
好奇心と探究心、そして美食の真実を求めに行くレストラン。ガストロノミーの真髄を極めるのであれば、一度は足を運んでおきたい場所であることは言うまでもない。
そして、一度足を運べば、二度三度と行きたくなるはずだ。ワンステージ上の「食の喜悦」を一度でも知ってしまえば、もう後戻りはできないのだから。

書いた人

文筆家、書評家。主に文学、宗教、美術、民俗関係。著書に『自分でつける戒名』『ときめく妖怪図鑑』『ときめく御仏図鑑』『文豪の死に様』、共著に『史上最強 図解仏教入門』など多数。関心事項は文化としての『あの世』(スピリチュアルではない)。