Craft
2019.09.17

大人気の民藝!キーパーソンの人生をばくっとまとめてみた

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民藝の父、柳宗悦

「用の美」と称えられ、素朴な美しさで広く親しまれている民藝――。今ではすっかりおなじみになっていますが、民藝は大正時代の末に登場した新しい美意識です。生みの親は柳宗悦であり、彼と同じ美に対する認識をもっていた陶芸家の濱田庄司や河井寬次郎らとの語らいの中から、民衆的工芸を略した「民藝」という言葉がつくられたのです。その民藝の7大スーパースターを、2回に分けてご紹介しましょう。

この人がいなかったら
生活を豊かにする「用の美」は
生まれなかった!

民藝の父・柳宗悦(やなぎむねよし)

まずは、「民藝の父」と称される柳宗悦の足跡を簡単に振り返ってみましょう。
明治22(1889)年に東京麻布で生まれた柳は、学習院高等科のころ、後に文豪として名を馳せる武者小路実篤や志賀直哉らと文芸雑誌『白樺』を発刊。『白樺』は小説のみならず、西洋美術を積極的に取り上げ、その中心的役割を担ったのが柳でした。
その後、東京帝国大学哲学科を卒業した柳は宗教学者として世に出ます。当時、柳はイギリスの宗教詩人で画家であったウィリアム・ブレイクの、おのれの直観を重視する思想に大きな影響を受け、芸術と宗教に基づいた独自思想をもつようになります。
このころ、柳の人生は朝鮮から訪れた青年によって大きく旋回します。手みやげであった李朝の小さな染付の壺を見た柳は、そこにまったく新しい美を発見。朝鮮の民衆雑器への興味を募らせて朝鮮半島へ行き、多種多様な工芸があることに感銘を受けます。
さらに、江戸時代に諸国を遊行した僧・木喰(もくじき)がつくった仏像に惹かれた柳は、日本各地を訪ね歩く旅の途で、地方色豊かな工芸品の数々や固有の工芸文化があることを知ります。そのころ出会ったのが濱田や河井で、彼らと美について語らううち、「名も無き民衆が無意識のうちにつくり上げたものにこそ真の美がある」という民藝の考え方が定まるのです。
民藝の特性を柳は「実用性、無銘性、複数性、廉価性、地方性、分業性、伝統性、他力性」の言葉で説明。柳の求める美は民藝運動へとつながり、研究や批評をするだけでなく、全国に残る手仕事を訪ね歩き、生活全般にわたって用いることによって実践。蒐集した民藝品を展示する「日本民藝館」を東京の駒場につくり、その功績を伝えています。
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民藝と出合い、独自の造形を追求し、
生涯を一陶工としてまっとう

河井寛次郎(かわいかんじろう)

中学生のころから陶芸家を志していた河井寬次郎は、島根県の安来(やすき)から東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ進学。2学年下には濱田庄司がいて、卒業後に技師として入所した京都市立陶磁器試験場では同僚として、ともに釉薬の研究にいそしみます。
やがて、京都市五条坂に工房「鐘溪窯(しょうけいよう)」と住居を構えた河井は、初の個展で東洋古陶磁の技法を駆使した作品を発表し、技術と完成度の高さで好評を博します。しかし、河井自身は次第にみずからの作陶に疑問を抱きはじめ、同時期に柳宗悦から酷評を受けたことも、迷いに拍車をかけたとされます。
その後、濱田がイギリスから持ち帰ったスリップウエアと呼ばれる陶器を見た河井は、日用の器に自分の本分を見出し、疑問を解消。濱田を介して柳と出会うと、過去のわだかまりを超えて理解し合い、民藝運動へとのめり込んでいくことになります。
人気を博した中国古陶磁のスタイルから、日本民窯のモチーフをふんだんに取り入れるようにして、河井の作風は一変。「用の美」を意識した、暮らしに溶け込んだ品々を数多く生み出します。
第二次世界大戦の最中は作陶が中断されますが、戦後に再開すると、ため込んでいたエネルギーを放出するかのように意欲作を連発。生命感にあふれた力強い器や、不思議な造形を手がけ、民藝の枠を超えた新たな美へ作風を広げます。
その芸術性は国内外で高く評価されるようになり、文化勲章や人間国宝に推挙されるも、ことごとく辞退。河井は最期まで賞や名誉に関心を示すことなく、一陶工としてやきものと向き合ったのです。

河井

河合寛次郎の作品は、どこかモダンでオリジナル性が光ります!

右上/河井が愛した赤い釉薬の「辰砂筒描角筥」1950年 右下/「白地丸文隅切鉢」1939年 左上/戦後のエネルギッシュな作風を代表する「三色打薬茶碗」1963年 左下/3種類の粘土を重ねてつくられた「練上手鶉文角鉢」1934年(写真はすべて日本民藝館)

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柳宗悦の右腕として
民藝運動を支えた
イギリス仕込みの陶芸家

濱田庄司(はまだしょうじ)

柳宗悦、河井寬次郎とともに民藝運動を初期から推進した濱田庄司は、近現代の日本を代表する陶芸家です。
みずから「京都で道をみつけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と振り返っているように、濱田の作陶家としての生涯は4つの土地を抜きにして語ることはできません。
東京高等工業学校窯業科に入学した濱田は上級生であった河井寬次郎という終生の友を得て、卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所します。
このころ、個展で出会ったイギリス人陶芸家、バーナード・リーチを千葉県我孫子の柳宗悦の家に訪ねたことから、柳とも親交を深め、大正9(1920)年にリーチとともに渡英。セント・アイヴスのリーチのもとで作陶生活に没頭した約3年半の間に、濱田はその土地固有の素材を用いることと、伝統を生活や作陶に生かすことを学びます。
帰国後、濱田はまっすぐ京都の河井邸に向かい、そのまま滞在。柳と河井を引き合わせ、この3人が中心となって民藝運動を推進することになるのです。
濱田の日本での作陶は、沖縄の壺屋と栃木県益子で始まります。沖縄には長期滞在し、イギリスで学んだ作陶法を実践し、伝統的な壺屋焼にならった作を残しています。また、生活に根差した制作の場を求めて移住した益子では多くの古民家を邸内に移築し、作陶に没頭。ほとんど手轆轤(てろくろ)のみでつくるシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様などの作風を追求しました。
柳の没後、濱田は「日本民藝館」第2代館長に就任。終生を民藝に捧げたといっても過言ではありません。

濱田

生活に根差した作陶意識を反映した、濱田庄司の堅実で力強い器

いずれも作陶の拠点であった益子の土と釉薬をもちいたもので、力強く健康的な作風に特徴がある。右上/「柿釉青流描角鉢」1954年 右下/「白釉黒流描鉢」1960年代 左上/「藍塩釉櫛目鉢」 1958年 左下/「白釉鉄絵丸文壺」1943年(写真はすべて日本民藝館)

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日本と西洋を結び、
民藝運動を海外に紹介した
イギリス人陶芸家

バーナード・リーチ

陶芸家としてはもちろんのこと、民藝運動における様々な橋渡し役を務めたバーナード・リーチは、日本の民藝の発展を考えるうえで欠くことのできないイギリス人です。
香港で生まれ、誕生後間もなく母と死別したリーチは日本にいた祖父のもとで暮らした経験がありました。イギリスに移り、ロンドン美術学校に通っているとき、詩人で彫刻家の高村光太郎と知り合い、小泉八雲の著書を読んだことから日本への憧れを強く抱くようになります。
明治42(1909)年、22歳になっていたリーチはついに来日。文芸雑誌『白樺』の同人と交流を深め、リーチが開いていたエッチング教室に通っていた柳宗悦とはウィリアム・ブレイクや陶磁器に関する話で盛り上がり、芸術に関する思想的な影響や刺激を与え合う生涯の友となります。
また、樂焼に興味をもったリーチは、六世尾形乾山に入門。大正6(1917)年には千葉県我孫子の柳邸内に窯を築いて、陶芸家としての活動をスタートさせています。
約10年の日本滞在の後、リーチは濱田庄司を伴って帰国。イギリス南西部のコーンウォール半島のセント・アイヴスに日本風の登窯を築き、リーチ工房を設立します。イギリス現代陶芸の祖として、また、民藝運動の思想を海外へ普及させる伝道師として、大きな役割を担いました。
リーチの作風は西洋陶器の伝統的な手法であるスリップウエアと、東洋陶磁の技術を融合させたところが特徴です。身近な人物や旅先の風景などを題材にしたエッチングや素描作品も残されています。

リーチ

イギリス人のセンスと日本の民藝との絶妙なハーモニーが光る!

右上/躍動感に満ちたうさぎが印象的な「楽焼莵文皿」1919年 右下/リーチ工房でつくられた「ガレナ釉線彫水注」1922年 左上/「楽焼緑釉筒描茶器」1919年 左下/エッチング作品「岩図(軽井沢)」1919年(写真はすべて「日本民藝館」)