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2019.08.21

風神雷神を描いた俵屋宗達。実は琳派の創始者だった!

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桃山時代から江戸時代へ、日本美術の流れの橋渡しをした俵屋宗達は、町人であったために生没年や絵師となった経緯の記録はなく、謎多き絵師とされています。今回は、そんな宗達にまつわるエピソードを3つご紹介。俵屋宗達超入門編です!

俵屋宗達ってどんな人?

生没年不詳。その前半生は謎に包まれたままですが、絵屋を営み自宅で茶会を催していた記録から、裕福な町衆だったといわれています。本阿弥光悦の引き立てで絵師として名を成し、数多くの名画を創出したとして、日本美術に新たな潮流を生み出した功績が高く評価されています。

代表作は『風神雷神図屏風』。もともと脇役であった風神雷神を二曲一双の屏風のメインにした、主題も技法も従来の伝統にとらわれない画期的名画です。

『風神雷神図屏風』 俵屋宗達 国宝 二曲一双 紙本金地着色江戸時代(17世紀初期)各154.5×169.8㎝ 建仁寺蔵

琳派の祖 俵屋宗達がわかる、3つのひみつ

その1 京の扇屋から法橋へ大出世!

俵屋宗達という名は、扇絵や屏風絵、金銀泥の下絵といった絵画を制作販売する「俵屋」を営んでいたことからつけられたもので、絵師として知られるようになったのは、芸術家・本阿弥光悦が自身の書の下絵を宗達に描かせたことがきっかけでした。

やがて、大画面の障壁画に取り組むようになった宗達は『風神雷神図屏風』をはじめとした金碧画(きんぺきが)や水墨画の名画を次々と制作。60歳を過ぎたころ、朝廷から僧侶の位階に準じた高位「法橋(ほっきょう)」に叙(じょ)せられます。これは、町人としては異例の大出世でした。


『扇面散図屏風』俵屋宗達六曲一隻 紙本金地着色金銀彩桃山~江戸時代(17世紀初期)154.5×362.0㎝ フリーア美術館蔵 扇屋を営んでいたころに培った画面構成力を駆使した扇面を貼り付けた屏風。いわゆる扇面図屏風は、扇屋出身の宗達が最も得意としたもののひとつでした。
Freer Gallery of Art and Arthur M. Sackler Gallery,Smithsonian Institution, Washington, D.C.:Gift of Charles Lang Freer, F1900.24

その2 本人は知らないけど、琳派の創始者!

その名が一字使われていることから、琳派は尾形光琳によって始まったと思われがちなのですが、光琳が手本にしたのは宗達の絵。琳派の大もとは宗達だったのです。ふたりの活躍時期は約100年の隔たりがあるものの光琳は宗達の『風神雷神図屏風』や『松島図屏風』など熱心に模写して「たらし込み」技法やデザイン的な作画法を学び取り、『舞楽(ぶがく)図屏風』の大胆な金地構成にならって、宗達の画法を身につけました。

このように師弟関係にない者が先人の作品から学ぶことを私淑(ししゅく)といい、宗達に私淑した光琳、光琳に私淑した酒井抱一(さかいほういつ)など、意欲的に絵を学ぼうとした者たちが見つけ出した名画を手本にすることをくり返したことで、琳派は時を超えて受け継がれていったのです。

『舞楽図屏風』俵屋宗達 重文 二曲一双紙本金地着色江戸時代(17世紀前半)各155.0×170.0㎝ 醍醐寺蔵 描写のデザイン的な面白さや、金地の華やかさは、他に類を見ないほどで、光琳も大いに刺激を受けたと思われる。

その3 風神雷神の原点はシルクロード!?

琳派の特徴のひとつとして、画題やモチーフの継承があげられます。光琳や抱一、鈴木其一らが受け継いだ宗達の『風神雷神図屏風』は、琳派にとっての型。日本美術史に欠かせないモチーフとなっています。

では、宗達のこのユニークな風神雷神のルーツはどこにあるのか。中国の原本にならってつくられた『絵因果経』とも、『三十三間堂の国宝『風神・雷神像』を図案化したともいわれますが、中国の敦煌石窟壁画や新疆キジル石窟壁画には宗達画と同じように、風袋を持った風神や連鼓を持った雷神が描かれていたのです。実物を見たとは思えないですが、宗達が描いた風神とそっくり!

真実はわかりませんが、宗達が図案化したモチーフが琳派に受け継がれていったという歴史には、美を愛した者たちのロマンが感じられます。

新疆キジル石窟の風神(一部)写真提供/Alamy(PPS通信社)

▼風神雷神をテーマに描かれた冒険物語
風神雷神 Juppiter,Aeolus(上)