Culture
2020.03.03

働きすぎ注意!あの明智光秀も倒れた…ブラック上司・織田信長の酷使に耐えた日々とは

この記事を書いた人

平成から話題に上りはじめ、令和になっても未だ解消されていない「ブラック労働」の問題。長時間労働の末、命を落としてしまう労働者が後をたたない深刻な社会課題です。

しかし、このブラック労働は、なにも平成になって突然に出現したものではありません。現代に至るまで問題にならないブラック企業があまた存在し、長時間労働は当たり前のこととして処理されてきたのです。

今回は、歴史上発生したブラック労働の一例として、大河ドラマの放送で話題の武将・明智光秀の働き方を取り上げます。信長から絶大な信頼を得ていた光秀が天正4(1576)年に過労で倒れるまでの動きを、現代的な視点から追いかけてみましょう!

信長から絶大な信頼を寄せられていた光秀

光秀の前半生については諸説あり、よく分かっていません。彼のハッキリした動きが見えてくるのは永禄11(1568)年以後のこと。室町幕府最後の将軍・足利義昭に仕えていたらしい光秀は、彼と織田信長が接触するための準備に奔走しました。以後、光秀は義昭と信長の両者に仕えるようになり、歴史の表舞台へと姿を現すのです。

義昭と信長の関係性が悪化すると、彼は信長の家臣として生きていくことを選びます。元亀元(1570)年には信長の若狭・越前・近江・摂津攻めなどに従軍。信長から能力を高く評価され、戦略上の要所である近江滋賀郡を与えられました。この地に坂本城を築くと、いわゆる「信長包囲網」に参加した朝倉氏や浅井氏との戦いに明け暮れました。元亀4(1573)年には挙兵した義昭を打倒し、公に信長の家臣として認められました。その後、京都所司代(室町幕府滅亡後の京都を支配する機関)の職務や、朝倉氏亡き後の越前内政にも携わる日々を送ります。

越前の一乗谷

この時点で、光秀が信長から高く評価されていたこと、そして優秀さがゆえに多方面の仕事に奔走していたことがわかります。しかし、若狭・越前・近江・摂津に次々と出張するのは、交通網が整備された現代でも憂鬱なもの…。ましてや当時の交通手段は馬ですから、現代のそれとは比べ物にならない負担です。改めて、戦国武将はタフだなぁと思いますし、それを命じる信長は、今なら刺されても文句は言えないほどのブラック上司と化しています(もちろん、当時なら常識の範囲内だったでしょうが)

縦横無尽に働き、出世を成し遂げた天正3年前半

光秀の生涯で最も「ブラック」だった期間は、天正3から天正4(1575~1576)年ではないかと思います。この年、光秀は上半期だけで

・高屋城の戦い(本願寺攻めの一つ)

・長篠の戦い(武田勝頼との戦い)

に参加。

数多くの功を認められ、7月には九州の名族である「惟任(これとう)」の姓を与えられており、同時に「日向守」の職にも任じられました。光秀にこうした立場を用意したのは、信長自身の西国攻略に向けた意志を表しているとも言われます。

加えて、この時期に光秀は「丹波攻め」の指令を受けました。都にほど近い丹波には信長に従わない勢力がおり、彼らの討伐が光秀に与えられたミッションとなります。

上半期に二つの大きな戦を経験し、さらに極めて重要な作戦も任された光秀。現代のサラリーマンで例えれば「大きな商談を二つまとめたのち、自分中心の新プロジェクトが発足した」という感じでしょうか。出世街道をばく進しているのは間違いないものの、彼にはとんでもないプレッシャーがかかっていたハズ。自分の生死だけでなく、明智一族や家臣らの運命をも双肩に乗せてハードに働くことがどれほどの負担であったか。現代の「社畜」なぞ、光秀から見れば取るに足らない労働者にしか見えないかもしれません。

丹波攻めを順調にこなしていた天正3年後半

丹波攻めの指令自体はこの年の6月に出されていたものの、彼が実際に丹波へ攻め込んだのは9月。しかし、当然ながら空白の期間でバカンスをしていたわけではなく、越前の一向一揆殲滅戦に参加していました。戦の過程で加賀まで攻めこむなどハードに働きましたが、正式に丹波攻めの指令を受けて坂本の地へと帰還しています。

坂本城跡公園

いよいよ丹波に攻め込んだ光秀。が、当初敵として想定していた小規模勢力だけでなく、「丹波の赤鬼」として恐れられた強敵・赤井直正が率いる丹波国衆の大半を相手にしなければならなくなります。

想定と異なる展開に多少の混乱はあったでしょうが、光秀は実に手際よく作戦を進めていきます。直正軍に勝利して彼らの拠点・黒井城を包囲すると、年末にはすでに楽観ムードが漂っていました。周辺勢力は「光秀の勝利でほぼ間違いない」と書き残しているほど。誰が見ても、光秀の優勢は明らかだったのでしょう。

光秀のには多少予定が狂っても臨機応変に対応できる能力があったことを示しています。このあたりが、信長に評価されたゆえんです。

しかし、今から考えれば光秀軍に対する楽観ムードは、完全なる「フラグ」でしかありませんでした。この後、光秀は予想外の事件によって、芸術的なフラグ回収を余儀なくされるのです。

突然の裏切りによって作戦が失敗するなど、苦難に満ちた天正4年

天正3(1575)年まで、過酷な労働を強いられながらも数多くの功を挙げ、信長にも認められてきた光秀。忙しさの中にも充実感・やりがいを感じていたと思われ、疲れを感じることもなかったのではないでしょうか。

がしかし、丹波攻めの頓挫によって、光秀の順調な歩みは大きく反転してしまうのです。

天正4(1576)年の1月、光秀のもとに突如として衝撃のニュースが飛び込みます。これまで光秀に従っていた丹波の有力者・波多野秀治が裏切りを敢行したというのです。突然の裏切りによって光秀は敗れ、作戦を立て直すために坂本へ帰還。信長は短期間での攻略を念頭に置いていたようですが、強固な抵抗を受けて長期戦も辞さない作戦方針に変更しました。

光秀にとってさぞ屈辱的な敗戦だったでしょうが、我々からすると「フラグ回収乙」と言いたくなってしまいます。楽観ムードからの大胆な裏切りは、もはやバトル漫画のお約束ですから。

話を戻しまして、光秀は丹波に兵を残すと、いったん別の作戦に参加しました。3月~4月は京都で寺の工事を指揮すると、本願寺との間で発生した大坂攻めに従軍。天王寺の戦いに向かいます。

ところが、この戦でも光秀は大苦戦を余儀なくされます。光秀とともに出撃した信長軍の武将・塙直政が討ち死にし、彼と佐久間信栄が移っていた天王寺城が本願寺の配下にある一揆勢の猛攻を受けました。光秀を含めて城内は危機的状況に陥り、信長本人が急遽彼らの救援に向かうほどの苦境でした。

度重なる敗北による心労は相当なものがあったでしょう。彼が作戦の失敗により粛清された同僚を数多く見てきた(自身が粛清の実行役になることもあった)のは間違いなく、仮に私が同じ立場にいたら、

「自分も同じ目に遭うんじゃないか…」

と将来のことを考えてガタガタ震え、体調や精神に異常をきたしてしまうと思います。

なので、数多くの修羅場をくぐり抜けてきた光秀といえど、精神的なダメージはそれなりにあったと考えるのが自然。実際、時を同じくして病魔が光秀の身体をむしばみ始めたのですから。

大坂攻めの陣中で病に倒れる

大坂攻めの陣中で、「光秀が倒れた」という知らせが彼の友人である吉田兼見のもとへ届いたのが5月23日。兼見は、光秀の症状を「重い病気」と書き残しており、生死が危ぶまれるほどの症状であったことがうかがえます。光秀の妻・熙子の願いによって神主でもある兼見は病の治癒を祈る祈祷を実施しましたが、なかなか症状は上向かなかったようです。実際、信長と親しかった公卿の山科言継は「光秀が風痢(激しい腹痛を伴う下痢)によって死んだという噂話がある」と書き留めています。

言うまでもなくこれはデマだったわけですが、「彼が苦しんでいたのは胃腸系の病気であること」「死んだという噂が出るほどに重病であったこと」が推測できます。

しかし、兼見の祈祷が効いたのかは分かりませんが、6月13日に光秀は一通の書状を出せるまでに持ち直しています。文面でも、「だんだん持ち直しており、間もなく回復する」と書かれており、光秀の病自体は快方に向かっていたと考えてよいでしょう。

光秀は持ち直すも、今度は妻が病にかかり…

ところが、今度は同年の10月に光秀の妻・熙子が病に倒れたという記録が出てきます。同じ病気かどうかは分かりませんが、光秀はふたたび兼見に祈祷を依頼しました。彼の祈祷は実に効果てきめんだったようで、熙子も数週間後には快方へ向かっています。光秀は彼への感謝として銀貨1枚を贈りました。

現代に生きる我々からすれば「祈祷で病気が治る!」というのはとても信じられませんが、実際に二人が回復しているのは確か。「病は気から」ともいいますし、兼見の存在が病に好影響を与えたのかもしれません。

が、一方で近江の西教寺に残る過去帳を調べると「天正4(1576)年の11月に光秀の妻が死んだ」という記述に出会います。この妻が熙子であれば、快方に向かっていたものの症状が急変してしまったのでしょうか。兼見はこの件に触れておらず、真相は謎に包まれています。

過労死を回避した光秀は、無事に丹波攻めを完遂

生死の境から蘇った光秀は、天正7(1579)年に丹波の平定を成し遂げました。光秀の生涯におけるもっとも輝かしい戦績とも言われ、信長も平定した丹波の地をほぼそのまま任せるとびきりの厚遇で大功に応えました。以後、本能寺の変を引き起こすまで信長軍屈指の実力者として重用されていきます。

光秀の社畜ぶりを振り返ってみると、彼が優秀すぎたあまり仕事が増えすぎてしまっている様子が見えてきます。現代でも、優秀さがゆえに多忙になってしまう会社員は多く、このあたりは戦国時代から変わらない労働の問題といえるでしょう。「誰もがうらやむエリートにも、エリートならではの苦悩がある」ということを、光秀の病気から学ぶこともできます。

加えて、もしかすると「ブラック上司・信長のパワハラ」が原因で、光秀は本能寺の変を引き起こしたのかも? 「天下への野望」、「据え膳食わぬは男の恥」あたりが動機と言われると我々にはピンと来ませんが、「社畜によるブラック上司への反抗」と言われれば、すごく身近に感じられるやもしれません。もちろん証拠があるわけではないのですが、可能性の一つとして考えてみるのはアリです。

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?