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2020.03.06

日本初の銀座が生まれた街・伏見と「鳥羽伏見の戦い」も乗り越えた月桂冠380年の歴史

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朝、水を汲みに近所の人が集まってくる。今でもその習慣が根付いている場所が、京都駅の“南側”にあります。京都駅から電車に乗って、東福寺や伏見稲荷大社を過ぎてたどり着く「伏見」。かつてここは、日本の首都とも呼ぶべき都でした。坂本龍馬が暗殺されかけた「寺田屋」があるところと言えばぴんと来る方も多いかもしれません。

街中に豊かな川を持ち、交通の名所としても栄えた歴史ある街・伏見。ここには380年を超えて続く酒造メーカー、「月桂冠」があります。ここにあるお酒の資料館「月桂冠大倉記念館」を訪れたら、ただ酒造メーカーの歴史だけではなく、伏見の歴史が詰まっていました!

伏見は「伏水」だった?豊かでおいしい水の湧く土地

伏見にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)の境内。しっかりとお酒が奉納されている

伏見はかつて、「伏水」と表記されていたほど、水と縁深い土地。宇治川、桂川、木津川という川が伏見の南部で合流し、今でも地下水をそのまま飲むことができます。伏見に住む方々は、今でもその水を汲みに集まるのだとか。
豊かでおいしい水は、酒造りに必須。8世紀ごろにはもう平安の役所では酒は造られていたそうですよ。1400年ごろの京都の酒屋名簿にも記載があるようです。京の都には少なくとも600年以上の歴史があるんですね!

秀吉さまのお気に入り!?城下町として整備された伏見


その豊かな水源に目をつけたのは豊臣秀吉でした。各地につながる街道や、あちこちの川・水の流れを整備。この地に伏見城を築くという土木作業を行います。「太閤堤」と呼ばれる堤防を築き、宇治川の流れをまとめるなど、開拓を進めた秀吉。その結果、船による交易がさかんになり、大坂と京都、東京(江戸)を結ぶ交通網も発達。城下町として栄えました。
伏見城は、一度地震で崩壊。建て直されるも、関ヶ原の戦いで落城します。家康が再建したものの、1623年には廃城になっています。

日本初の「銀座」は伏見で生まれた!大名屋敷だらけの江戸時代

秀吉亡き後、徳川家康は、日本初の「銀座」を伏見に開きました。伏見城の再建といい、家康も伏見も重要な場所を見ていたことは間違いないでしょう。
時代は移り、三代家光の時代に参勤交代が始まります。伏見の土地は西国大名の発着地点となり、本陣や脇本陣が置かれました。全ての西国大名が逗留していたというのだから驚きですよね。

当時の地図を見ると大名屋敷ばかり!伏見が宿場町として栄えていたのがよくわかります。

「鳥羽伏見の戦いで……」月桂冠大倉記念館で学べる酒造りと歴史

昔の消防ポンプ。中央に笠置屋の”マーク”が

「月桂冠」は元々、笠置屋という屋号でした。初代・大倉治右衛門が酒造りを始めたのは1637年(寛永14年)です。宿場町、港町の地酒として、往来の旅人をターゲットにした伏見の酒は、どんどんその醸造高を増やしていきました。20年も経つと、伏見の酒造家の数は83、その造石数は1万5千石余に達していたそうです。その後京の街への販路を断たれるなど苦心しつつも、200年、酒を造り続けます。

幕末には更なる危機が!「鳥羽伏見の戦い」、江戸幕府の終焉を導くきっかけともいえるこの戦いによって、町は闘争の場と化しました。戦災の被害は甚大だったと言います。しかし月桂冠の創業者の本宅である酒蔵兼住宅は、奇跡的にこの大火を生き残りました。
当時の伏見は経済も大混乱。酒造業の経営を続けるには困難を極めましたが、月桂冠は焼け野原の中から酒をまた造り続けます。


本宅は今もその姿を見られますよ。南側に建てられた酒蔵が「月桂冠大倉記念館」でした。昔ながらの酒造りの方法、そして380年以上続く月桂冠の歴史を見ることができます。月桂冠の歴史を西岡館長にお伺いしましたが、出てくる言葉はまるで山川出版社の歴史教科書。いかに古くからこの地でお酒を造って来たのかを感じます。


事前予約必須の「酒香房」では、昔ながらの手法での酒造りを見ることができます。17日目の醪(もろみ)の香りを嗅がせてもらいました。ぷちぷち、という発酵の音が聞こえる!芳醇な香りに、おいしい日本酒になるのだろうと期待が高まります。

その途中にある建物は、元々は寮。杜氏や、酒造の人々が住んでいた風情ある建物です。今はたまに社員研修などで使われるのだとか。

見学の最初では、昔ながらの酒造りを仕込みの方法や用具から学べます。まずは米の糠を落とすところから始まります。その仕込みは寒い朝が適しているそうで、イラストを見るだけでも寒そう。もちろん、昔はほとんどが手作業でした。甑(こしき)で蒸すのですが、この縄の編み方で杜氏の出身地がわかるのだそうですよ。下に釜があるのがわかりますか?

日本酒には、麹菌(こうじきん)と酵母(こうぼ)という、2種類の微生物の働きが重要です。まずは麹菌から発酵させます。

麹造りに使う『室』が断面図模型で再現されていました。奥に見える詰みあがった箱の中それぞれに麹が。出来具合が均等になるよう、順番を入れ替えていたそうです。細かさや正確さが求められる作業であり、酒造りがいかに精密的な職人技だったか、よくわかります。

次に酵母を育てる酒母つくり、酵母や水をあわせたもろみ仕込み。その後、片側に重石のぶらさがった道具で酒を搾ります。ひとつひとつの道具の工夫も面白い!ぜひ、複雑でこまやかな工程の数々、実際に近くで見てみてください。アラームやスヌーズ機能のない時代に行っていたなんで驚きですね。そのために「唄」が活用されていたのだとか。館内に流れていますので、耳をすませてみてください♪


最後の蔵はなんと瓶詰め所として使っていた場所!梁や明り取りの窓はそのまま使われていて、その美しさに目をみはります。
ここでは、月桂冠の歴史が見られます。とはいえ、それは伏見の歴史と非常に密接。創業は家光のころ1637年。『玉の泉』という酒の銘から始まりました。曰く、「島原の乱と同い年」。
おなじみ月桂冠という酒銘が登場するのは、11代、13歳という若さで当主を継いだ大倉恒吉の時代、1905年のことです。

月桂冠の酒は大正期より皇室の「大嘗祭」の饗宴などに供されていまして、伏見から御所へとお酒を運ぶ写真を見ることができます。

伏見の酒造りはけして順風満帆なだけではありません。幾度となく歴史の荒波にもまれてきました。とりわけ「鳥羽伏見の戦い」、新撰組や坂本龍馬の存在は大きかったようで……。なんと薩摩軍と幕府軍が使用していた銃弾、砲弾、果ては「おそらく飲まれていたのであろう当時のかさぎやの酒瓶」まで飾ってありました。

人のそばに酒はある。月桂冠はこれからも歴史と共に歩んでいく!

11代当主が愛用したキャビネットの中にはさまざまな年代の月桂冠が並んでいます。その中には「Made in Occupied Japan」とラベルに書かれたボトルが。戦後、GHQ占領下で作られた月桂冠です。傍らには「関東軍」というロゴの入ったボトルも。これは満州で飲まれていたそうですよ。

いつの時代も、人々は酒を飲んで心を慰め、人生を楽しんできた。歴史をすべて受け止め、伏見の地で380年以上酒を造ってきた月桂冠の資料館には、激動の濁流にも呑み込まれず人々と共にあるという、芯の強さを感じました。

「月桂冠」の歩みと、伏見の歴史を学べる月桂冠大倉記念館。お酒と歴史を味わいに出かけてみませんか。

月桂冠大倉記念館