Culture
2020.03.19

明智光秀の残酷な親殺し説その真相とは?大切な母を敵に差し出したって本当?

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「親殺し」というのは、いつの時代も大罪とされてきました。近年でも「尊属殺人」として極めて重い刑罰に処され、動機のいかんを問わず死刑または無期懲役が言い渡されていたほどです。

しかし、世の中が荒廃していた戦国時代には、「良いことではないが、生き残るためにはやむを得ない」として、親を殺す例も見られました。分かりやすいところでいえば、大河ドラマ『麒麟がくる』で伊藤英明さんが演じる斎藤義龍の父殺しが代表的です。

そして、『麒麟がくる』の出演者にはもう一人「親殺し」の伝説が残る武将がいます。その人物は、なんと同作の主人公・明智光秀。ドラマであれほど家族や領地を思っている光秀が、なぜ親殺しの汚名を着せられたのか。そもそも、残された伝説は本当に信用できるのか。この記事では、光秀「親殺し」説の真相に迫ります!

城攻めに苦しんだ光秀が、母を敵に差し出した?

まず、「光秀の親殺し」説の根拠となった伝説と、そこに至るまでの流れを見ていきましょう。

明智光秀像

天正3(1575)年、光秀は信長の命によって丹波国の攻略をスタートします。彼の前に敵として立ちはだかったのは、「丹波の赤鬼」という異名で恐れられた猛者・赤井直正らの軍勢。しかしながら、光秀は首尾よく攻略を進め、隣国の武将が「完全に城を包囲しているので、年明けには落城するらしい」という噂を書き残す程度には順調な戦運びであったといいます。

ところが、翌年の早々に事件が起こります。これまで光秀に従っていたはずの丹波国衆・波多野秀治が突如として彼を裏切ってしまったのです! 「背後から刺される」形となってしまった光秀は、たまらず敗走を余儀なくされました。光秀敗戦の知らせを聞いた信長も丹波の早期攻略を諦め、持久戦を仕掛けます。それゆえに光秀はいったん丹波を離れて各地の攻略に移りましたが、心労がたたったのでしょう。この年に大病を患い、死の淵をさまよってしまいました。

幸い病が大事なく完治すると、天正6(1578)年にはふたたび丹波を攻めました。

が、伝説によれば光秀はここでも籠城する波多野氏の軍勢を相手に苦戦を余儀なくされたといいます。それでも、なんとかして城を開けさせたかった光秀は一計を案じました。彼は波多野氏に和平をもちかけ、「波多野氏が降伏すれば丹波国を領地と家の存続を保証するヨ」と伝えます。が、当時の世は戦国時代。和平と称して城を開けさせ、約束を守らない例もままありました。当然、波多野氏側はこのオイシイ話を疑います。

そこで光秀は「絶対にウソじゃないヨ!」ということを証明するために、自分の母・お牧を敵の本拠である八上城に預けて降伏に臨みました。波多野氏も「ここまでするならウソっぱちではないだろう…」とこの話を受け入れますが、光秀の上司・織田信長が約束を破ってしまうのです。

織田信長像

彼は「もう用済みじゃ」と言わんばかりに波多野氏を処刑したため、八上城の残党が怒ってお牧を殺してしまいました。光秀は信長の行いを深く恨み、これが本能寺の変につながる原因になったとも言われています。

しかし、一方でこの策略は「光秀も織り込み済みだった」という解釈も存在します。つまり、光秀ははじめからこの約束が守られないことを知っていて母を差し出したというのです。そうだとすれば、光秀は「親殺し」と言われてしまっても仕方ありません。

光秀「親殺し」説にまつわる数々のアヤシイ点

光秀の「親殺し」説が本当だとすれば、彼はなんとも残虐な人物ということになります。そうでなかったとしても、上司の横暴で母を殺されてはたまったものではないでしょう。実際、センセーショナルさからこの説は歴史小説などでよく取り上げられ、光秀の有名なエピソードとして知られてきました。

ところが、近年の研究でこの説にはいくつもの「アヤシイ点」が指摘されており、結論から言ってしまえば「史実とは言い難いエピソードである」ということがハッキリしてきました。以下では、その根拠を解説していきます。

このエピソードが書かれた史料に問題がある

まず第一に、このエピソードが初めて書かれた史料そのものに大きな問題が隠されています。初出と思われるのは、江戸時代に織田信長の事績をまとめた文書『総見記』です。パっと見信用できそうに思えますが、実は本能寺の変から100年ほどが経って書かれた作品。もう生前の信長を知っている人が誰もいないようなタイミングでまとめられており、この時点でちょいとアヤシイ…。

さらに、本作は小瀬甫庵(おぜほあん:池田恒興や豊臣秀次に仕えた学者・医者)が記した『信長記』に手を加えたものと考えられているのですが、この元になった『信長記』という作品もかなり誤りが多いものとされています。つまり、もともと「誤りが多い」として知られていた作品を、さらに脚色したのが『総見記』。言うまでもなく「誤りの相乗効果」が生み出されてしまっており、史料としてはほとんど信用することができないのです。

ぶっちゃけた話、『総見記』の信ぴょう性はそこいらの歴史エンタメ作品と大差ありません。戦国モノのゲームをプレイして「これが歴史の真実だッ!」とか言い出すヤツがいたら、「おいおい…キミは何を言っているんだい?」と思ってしまうのと同じようなものでしょう。

有力な史料に書かれていることと辻褄が合わない

もう一つ重要なのが、実際に光秀が出した書状や当時の人が書いた日記、および有力な史料『信長公記』に描かれている内容と、「親殺し」のエピソードはつじつまの合わない点が多々あること。具体的には、そもそも話の前提となっている「光秀が波多野氏を相手に苦戦した」という部分が、そもそもウソっぱちだというのです。

実際、光秀軍は波多野氏に対して終始優勢であったといいます。前回の侵攻で彼らを苦しめた赤井直正はすでに亡くなっていた可能性が高く、再侵攻においてとくに苦戦していた様子は見受けられません。とすれば、戦いで優位に立つ光秀が、わざわざ「母を人質に出すんで、城をあけてぐだざい゛~(涙)」と泣きつく必要がなくなってしまうのです。戦で倒してしまえばいいわけですからね。

加えて、敵である波多野氏も最後まで徹底抗戦を決めていた様子が浮かび上がってきます。一族の長・波多野秀治は戦況が不利になっても城内からの逃走を決して許さず、最終的には決死の総攻撃を仕掛けているのです。これだけの決意を固めていた彼らが「母を差し出す」というだけで光秀に降伏するでしょうか?

以上の点を考えていくと、光秀・秀治どちらの立場から見ても「母を差し出して降伏する」という点が成り立たないのです。仮に私が光秀なら「なんで波多野に圧勝したのに、苦戦した上に母を見殺しにしたなんて言われなきゃならんねん!」と、逆に秀治なら「最期まで戦い抜いたのに、これじゃただ騙されたアホやんけ!」と言いたいところです。

むしろ創作よりも史実のほうが残酷だった?

疑わしい点が多すぎることから、光秀の「親殺し」説については、現代だと完全に否定された「創作」に過ぎないとみなされています。しかしながら、「な~んだ、光秀はやっぱり心優しい武将だったんだ!」と安心するのはまだ早い。

彼が八上城を攻めた際の様子を見てみると、むしろ「親殺し」だったほうがまだマシではないかと思うほど、残虐な手法を用いていることが分かります。光秀ファンの皆さんには申し訳ないですが、ショックを受けないようにご注意ください。

光秀は八上城の攻略に際して「兵糧攻め」という戦法を採用しました。

これは文字通り「敵の城内から食べ物がなくなるのを待ち、心を折る」ためのもので、彼はネズミ一匹たりとも城へ出入りできないよう、城を包囲したうえで堀や柵を築き、孤立させます。その結果、城内の兵士たちはみるみる衰弱していきました。はじめは草木を食べ、それすらなくなると今度は牛や馬を食べました(当時は肉食文化が普及しておらず、むしろ「禁忌」とされた)。それでも腹の空きは収まらず、衰弱のあまり城内からは助命を懇願する声が後を絶ちませんでした。波多野氏は逃亡を厳しく禁じましたが、無理矢理城を出てきた者の様子は「衰弱のあまり人間のようではない」と光秀本人が語るほど。城内では数百人もの餓死者が出ていたといいます。

結果として秀治は城内の惨状にこらえきれなくなり、兵を外に出して決死の攻撃を仕掛けたのでしょう。そう考えれば光秀の戦法は理にかなったものですし、当時は籠城した相手を徹底的に追い詰めるのが常識でした。なので、光秀の対応はごく一般的な戦国武将の手法と同じです。

ただ、いくら当たり前だったとはいえ「敵を飢え死にさせ、人間かどうか分からないような姿にさせる」という話を聞けば、彼を「心優しい人」とはなかなか考えられません。果たして、『麒麟がくる』ではここまでの凄惨な歴史を描くのでしょうか…。今後の展開に注目です。

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書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?