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2020.03.24

将軍綱吉は殺されていた?江戸城大奥にあった開かずの間の怪異

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禁忌によって開けることを禁じられている開かずの間。かつて江戸城大奥には、「宇治の間」と呼ばれる開かずの間があり、怪異が起こっていたと伝えられています。そこには、5代将軍・綱吉の死にまつわる奇妙な噂も……。将軍、大奥の女中たちを恐れさせた開かずの間の伝説に迫ります。

なぜ、開かずの間となったのか?

襖に宇治の茶摘みの絵が描かれていたことからその名がついた、宇治の間。開かずの間となった経緯は、江戸文化の研究家・三田村鳶魚(みたむら えんぎょ)が、元女中から聞いた話を基に大奥の実態に迫った著書『御殿女中(ごてんじょちゅう)』に記されています。

千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画 出典:国立国会図書館

それは綱吉が、宇治の間で正室の鷹司信子(たかつかさのぶこ)によって殺害されたという噂です。後継に恵まれなかった綱吉は、側近の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の子供、吉里を養子として迎え入れ、次期将軍に就かせようとしていました。しかし、吉保の側室である染子は、元々は綱吉の愛妾(あいしょう)であり、吉里は綱吉の隠し子であるという噂が江戸中を駆け巡っていました。さらに一説によると、吉保の出世の裏には、綱吉からの寵愛を得て11万石の加増を受けていたといいます。綱吉が将軍となってから吉保は幾度かの加増と昇進を繰り返し、当初の500石から最終的には15万石という異例の大出世をしていたのです。

これらにより信子は、綱吉と染子の関係、そして吉保が権威をふるうことを恐れ、宇治の間で吉里を養子にしないよう説得しますが、綱吉は頑として首を縦に振りませんでした。すると信子は、持っていた懐剣(かいけん)を取り出して綱吉を殺害。その直後、自らも喉を突いて自害してしまったといいます。

これはあくまでも噂として伝えられており、史実としては綱吉は宝永6(1709)年1月10日に、成人麻疹により亡くなっています。しかし、綱吉と信子の夫婦仲が元々良くなかったこと、綱吉の死後、後を追うように信子も亡くなっていることから、このような奇妙な噂が後世にも伝えられているようです。

亡霊として現れた老女

それから150年後、12代将軍家慶(いえよし)に怪異が迫ります。

宇治の間の前を通った家慶は、黒紋付(くろもんつき)を着た老女がこちらにお辞儀をしているのを見かけます。しかし、見覚えのない顔であったので、お付きの者に誰かと尋ねると、家慶以外の者は皆、老女の姿は見えなかったと言うのです。家慶が振り返ると老女の姿はありませんでした。

そうして、まもなく家慶は急死してしまいます。すると、女中たちは開かずの間にまつわる伝説を思い出したのです。以来、大奥では不吉なことが起こる際には老女が現れると恐れられていたといいます。ちなみに、老女は信子に仕え、綱吉殺害の時に手伝いをした女中の亡霊だと伝えられています。

開かずの間の真実は……?

『御殿女中』によると、宇治の間は本丸の次の間にあり、実際には不要品などを置く、物置場のような扱いだったそうです。しかし、江戸城が度重なる焼失を受け何度も再建される中、そのような扱いを受けながらも焼失前と同じ場所にしっかりと建て直され、茶摘みの絵も再現されていたことから、何か特別な場所であったことには違いないのではないでしょうか。信じるか信じないかはあなた次第です。

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