Gourmet
2020.04.15

どれだけモテても死ぬまで奥さん一筋!「吉兆」創始者夫妻の愛と日本料理

この記事を書いた人

「うちの奥さんは、日本一のべっぴんさんや」。

日本料理の老舗「𠮷兆」の創始者・湯木貞一が、実の娘に語った言葉です。四季を料理に取り入れ、時には外交の場や天皇の食事として饗された「𠮷兆」の料理。創始者が作り上げたその世界は、今も多くの板前や料亭に影響を及ぼしています。
湯木貞一は、生涯たったひとり、奥さんを大切に愛し続けました。前回お話を伺った湯木貞一の秘書を務めていらした東京𠮷兆の方に、今度は「大女将さん」のお話を中心にお聞きしました。料理人としては初の文化功労者となるなど、唯一無二成功の裏には、かけがえのない愛があったのです。

「きくならええで」出店を機にした結婚

湯木貞一氏

神戸の料亭「中現長」の長男として明治34(1901)年に誕生した湯木貞一。15歳で板場に修行に入るまで、坊ちゃんとして大切に育てられていたそうです。実は奥さんであるきくは従妹。小さい頃から貞一のお世話係とも言うべき存在で、かゆいところに手の届く、気心のしれた仲でした。
松平不昧公の『茶会記』をきっかけに料理の道に目覚めた貞一。生まれ持ったセンスを磨きながら、板前として厳しい修業に明け暮れたのち、独立。華やかな花街である大阪・新町に店を構えることになりました。この時貞一30歳。すでに茶の湯や器に対して熱意を燃やしていました。
結婚のきっかけは店を出すなら女房をもらえという親類のすすめ。きくはまるであてがわれたようでしたが、貞一は「きくならええで」と快諾。縁もゆかりもない土地で夫婦と丁稚1人だけの、ウナギの寝床のような店を始めます。花街というのは信頼関係を第一に考える場所。当初は挨拶に行っても店の場所すら聞いてもらえない閑古鳥状態、貞一いわく「血の小便が出るような日々」だったそうです。
萌黄色の座布団をしき、入り口にかまどを置いたカウンターだけの店は、その洒脱さから徐々に粋を愛する花街の常連・旦那衆にひいきにされるようになります。湯木貞一はのちに「湯木美術館」を設立するほどの通人。料理とそれにふさわしい器はこの時からすでにこだわっていたようです。もっとも、茶道具や器をそろえるには先立つものが必要。きくは生涯帳場を担当していたそうですが、その腕なしでは、湯木貞一の料理は成り立たなかったと言えるでしょう。

みんなの女将さんと


次に開いたお店では人数も増え、数年後株式会社化。店は次第に大きくなりました。湯木夫妻は1男四女それぞれに、のれん分けを行いました。大阪や神戸のみならず、東京にもしっかりとした根を張り、「𠮷兆」は更なる成長を続けます。板前や仲居、女中など、「𠮷兆」で働く人々の面倒を見るのも女将の仕事。みなに慕われていたきくが最も支えたのは、もちろん主人である湯木貞一でした。
ある日、茶道具をとある人から譲り受けようとした貞一は、トラックいっぱいに自らのコレクションを詰め込みました。当時の茶道具や美術品は物々交換も多く、対価としてふさわしいものをと惜しげもなく差し出したのだとか。またある時は「一世一代の勝負や」と意気込む貞一に対し、「そうやねえ、一世一代やねえ」とほほ笑むきく。文句を言うことなく購入を後押しました。ちなみにこの一世一代は何度かあったのだとか……?
茶の湯や歌舞伎を好む通人としての顔を持ちながら、あくまで料理人であった湯木貞一。二人は常に忙しく、デートをしたのはたった一回きりだそうです。見た映画は灯台守として全国を巡る夫婦を描いた『喜びも悲しみも幾年月』。
60歳で引退したらお遍路さんに行こう、と話していた湯木夫妻ですが、その夢は永遠に叶わずに終わってしまいました。

きくの急死と「世界之名物 日本料理」


昭和36(1961)年、貞一60歳。ある日、きくが「ご飯を食べると喉に詰まる」と違和感を訴えます。病院に行くと、がんと診断され、既に転移していることが発覚しました。千葉に入院することになり外科手術を行いますが、がんの完治例が今よりももっと少なかった時代。あっという間に病魔はきくの身体をむしばんでいきました。
ある日、寝たきりのきくが「大阪に帰りたい」と一言呟きます。もはや起き上がることも難しいきくの望みをかなえてやりたいと家族は奔走。お客様の尽力で、ベッドに寝かせたまま運ぶことができる飛行機の特別便をチャーターし、大阪へと飛びました。11月、治療の甲斐なくきく逝去。貞一は泣き崩れ、三日三晩吐くまで酒を飲み続けたそうです。
帳場から動かないとまで言われ、貞一を支えることに生涯を捧げたきく。最初は成り行きに近い結婚だったとしても、お互いに思いあう、深い愛がそこにはありました。

憔悴していた貞一ですが、泣いていても仕方がない、このままでは妻にも顔向けができないと奮起。アメリカやフランスに視察・仕事で出かけていた貞一は、日本料理の気品は唯一無二のものであると考えていました。また、海外とのやり取りを通じ、日本料理は日本で味わってこそだと感じ、「世界の名物」だと確信。当時スシ・テンプラ程度しか知られていなかった日本料理の真髄を伝えようと決意しました。のちに「𠮷兆」のキャッチフレーズとなる言葉が生まれた背景には、最愛の妻の存在があったのです。

どれだけモテても奥さん一筋!死ぬまで愛した一途さ

歌舞伎が大好きで、幼い頃から祖父母に連れられ「中座」(大阪の老舗劇場、1999年閉館)の枡席に座っていたそうです。朝から晩まで歌舞伎を見ることも珍しくなかったのだとか。茶人としても多くの人々と交流し、大寄せの茶会、つまり大人数が参加するような茶会にも顔を出していました。朝4時に起きて、6時には「もう行くで」と言い出すせっかち。「今から行っても逆に迷惑ですから」となだめることもしばしばだったそうですよ。
背が高く、洒落者である貞一、当然のことながらそれはもてました。きくが亡くなってからも、再婚話や後添えの女性をという話は後を断たなかったのですが、応えることはありませんでした。
貞一は存命中、「うちのかみさんは天下一品の器量や」「日本一のべっぴんさん」と言ってはばからず、きくのことを誇りに思っていました。この時代の男性としては珍しいですよね。その愛は生涯変わらず、死ぬまできくだけを想って過ごしていたそうです。

仕切りのある重箱に懐石料理を入れる「松花堂弁当」を発明し、美術館を作れるほどの美術コレクションを持ち、紫綬褒章や文化功労者となった稀代の料理人の横には、絶えずたったひとりの女性がいました。まさに『喜びも悲しみも幾年月』貫いたその愛が、今も私達を彩り豊かな日本料理の世界へと導いてくれています。