Culture
2021.01.04

闘争心を燃やしてサーキットを駆け抜けろ!「不屈のバイクオヤジ」ポップ吉村は僕らの生活指導教師だった

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80年代のバイク少年の間では、「ポップ吉村」はまさに雲の上の人だった。

ヨシムラジャパンはバイクのカスタムパーツのメーカーである。この会社のエンジニアが手掛けるバイクは、恐るべき馬力と回転数を発揮したことで知られていた。当時の少年たちは「ヨシムラマシンは戦闘力に満ちている」と評価していたが、それも当然だろう。ヨシムラチームのヘッド・吉村“ポップ”秀雄は旧日本海軍飛行予科練習生だったのだから。

過酷な人生のヘアピンカーブを全力で駆け抜け、その先に見たチェッカーフラッグ。町工場のオヤジは「妥協」や「手加減」、そして「及第点」すらも許さなかった。
最後に勝つのは俺たちだ!

予科練出身のエンジニア

筆者は今回の記事を書くにあたり、ヨシムラから1冊の本を参考文献として取り寄せた。

『ポップ吉村物語』(原達郎)である。ポップの一生涯を網羅した伝記……と呼ぶべきだろうが、二輪業界に詳しくない人が読むと「いくら何でも本当か!?」と叫んでしまうようなことも書かれている。が、この本に記述されていることはすべて真実である。「真実は小説より奇なり」とはよく言ったもので、それだけポップの生涯は激動続きだったということだ。

ポップの生年月日は1922年10月7日、現在の福岡県福岡市博多区で誕生した。実家は材木業を営んでいたが、同時に父は発明家で、ベルトコンベアに使う継ぎ手機構の特許を持っていた。このあたりの事情が、のちのヨシムラにつながっていく。

少年時代のポップが思い描いていた進路は「第一志望が野球選手、第二志望がパイロット」だった。これは雑誌『ヤングマシン』で本人が明かしている。だが高等小学校から進学して野球選手になるだけの資力が実家にはなく、やむを得ずパイロット即ち海軍予科練に合格するという道を選んだ。

文字で書くだけなら簡単だが、予科練の試験は超難関である。全国から1万数千名の応募があり、合格者は僅か219名。その中に当時14歳のポップがいた。

針の穴を抜けるような試験を突破したわけだが、ポップは予科練を卒業できなかった。訓練中に事故が発生して負傷、その後の結核検査で陽性反応が出てしまい、除隊を余儀なくされたのだ。

ポップは72歳まで生きたから、この結核検査の結果は間違いということになる。その後、空に飛ぶことを諦め切れなかったポップは大日本航空の航空機関士になった。これもまた難関の試験を突破して掴み取った座で、しかも資格規定を1歳下回る18歳の若さでライセンスを取得してしまった。

が、若き日のポップを待ち受けていたのは戦争である。

剥き出しの闘争心

戦時中のポップがアメリカ軍の艦船に突っ込む特攻機の先導任務に就いていたことは、バイク少年の間でも知られていた。

それは新谷かおる氏の漫画『ふたり鷹』(小学館)にも描かれていた。もちろん、この部分も事実である。特攻機を戦闘海域まで見送って自分だけは生還するという、「過酷」という単語でも表現し切れない任務に携わっていたのだ。

だからこそ、後年のポップの闘争心は苛烈なものがあった。ヨシムラチームは中途半端な結果を許さず、レースでは上位に食い込むか大惨敗するかのどちらかだった。全国の教育関係者が展開する「三ない運動」には当然反対していたが、同時に「三ない運動のせいでバイクに乗れません、レーサーを目指せません」と嘆く若者を嫌悪していたことも書いておきたい。

2輪に対する偏見、将来ある高校生を事故から守る……etcという学校や社会の言い分は逃げ口上である。今のガッコウという奴はそんなものだ。だから、イヤなら徹底的に反抗すればよろしい。私なら、そうする。”3ない運動があるからバイクに乗れない、レーサーになれない”なんてのは甘ったれてるに過ぎない。16、17歳にもなって、自分が本心から願っていることを貫き通せないような奴が、まかりまちがってもレーサーになどなってほしくないものだ。

(『ヤングマシン』1987年1月号 【埼玉でも廃止に】POP吉村の「三ない運動」論-ヤングマシン)

ポップが嫌う存在、それは「闘争心を持たない者」だった。

スズキの4ストローク車で栄光を勝ち取る

1978(昭和53)年の第1回鈴鹿8時間耐久レースは、バイクメーカーのスズキとチューニングメーカーのヨシムラが世界に名を轟かせた「事件」である。

このレースで優勝したマシン、スズキGS1000は4ストロークエンジン車だ。

元々、スズキは2ストローク車専門のメーカーだった。それがアメリカの環境規制をきっかけに、4ストローク車の開発も行うようになった。

2ストロークと4ストローク、より馬力を出しやすいのは前者である。が、後者は燃費と排ガス性能に優れている。人間に例えると、常に食べながら排泄するのが2ストローク、食べたものをしっかり胃腸で消化して排泄するのが4ストローク。「2ストローク車は燃料タンクに穴が開いているようだ」と言われてしまうのは、そのような仕組みだからだ。

そしてポップは、4ストロークのスペシャリストである。戦時中に触っていた軍用機のエンジンは、どれも4ストロークだったからだ。

とはいえ、4ストローク車の開発を始めてから僅か4年しか経っていなかったスズキが、記念すべき第1回鈴鹿8耐で栄光を勝ち取るとは誰も思っていなかったはずだ。それはポップの勝利への執念によるもの、と断言してもいいだろう。

その部品でクラッチの最終組み立てに入ったのは午前3時。クラッチハウジングをリベット(鋲)でカシメる作業に取り組んだ吉村は、大きな声で念仏を唱えながらハンマーでたたき続け、終わったのは午前4時を回っていた。

(『ポップ吉村物語』原達郎)

ポップは「学校の先生」だった!

エンジニアとしてのポップは、バイク史を永遠に変えてしまうほどの大発明を達成した。

バイク用集合マフラーである。

並列4気筒のエンジンから伸びる4本のエキゾーストパイプは、それぞれ別個のマフラーにつながっている。ポップは軽量化の意図で、そのマフラーを1本にまとめた。すると想定外の馬力アップが発生した。

現代ではレーシングマシンも市販車も、複数本のエキパイを極力1本にまとめるのが常識だ。それは元々はポップの発想であり、サーキットで勝つためのアイディアだった。

俺は必ず勝つ。それも零戦や一式陸攻と同じ4ストロークエンジンを積んだマシンで。そのためには、考えつく限りの工夫や改造を惜しみなく施してやる。ベターなライディング? そんな消極的なやり方でレースには勝てん!

80年代の高校生たちは、建前と強要ばかりの学校教諭たちに失望していた。同じ組織の上の人間に阿りつつ、生徒の自尊心を蹂躙する教師たちは若いライダーをも押さえつけようとした。「自分が指導しなければ生徒たちは道を踏み外す」という、使命感のメッキで加工された誤解を振り回していた。

バイクに跨る高校生たちは、学校の教師ではなくポップの声を聞いた。自尊心を闘争心に転換し、炎のようなガッツを発揮して常に1番を目指す。ポップはヨシムラ高校の教師であり、全国のティーンエイジャーの指導係だったのだ。

【参考】
ポップ吉村物語(原達郎)
【埼玉でも廃止に】POP吉村の「三ない運動」論-ヤングマシン