アメリカの1970年大気浄化法改正法は、通称「マスキー法」と呼ばれている。これは提案者のエドマンド・マスキー上院議員の名を取っている。
マスキー法は自動車業界を永遠に変える法律だった。なぜなら、1973年以降に生産される新車の排ガス中有害物質を従来生産型の10分の1に減らすという項目があったからだ。
アメリカ自動車業界のビッグスリー(フォード、クライスラー、GM)は慌てふためいた。「そんなのは不可能だ!」と。ビッグスリーはロビー活動を展開し、「1973年以降」という記述を「1975年以降」に修正させることだけは成功した。
が、それはタイムリミットが2年延びたに過ぎない。
そして世界で初めてマスキー法をクリアしたエンジンは、よりにもよって日本製だったのだ。
60年代後半のアメリカを彩った「マッスルカー」
60年代後半から70年代にかけて、アメリカでは「マッスルカー」が大ブームを巻き起こしていた。V8エンジンを搭載する、雄大なボディーと重量を誇るハイパフォーマンス車である。
読者の皆様は、『ダッジ』という自動車ブランドがあることはご存じだろうか? これは当時のマッスルカーブームを牽引した、クライスラーの所持ブランドだ。マグナム、チャージャー、チャレンジャーなど、「これぞ70年代」という大きく速いアメ車を次々と開発していた。
日本ではあまり流行らなかったが、かつて『爆発! デューク』というテレビドラマがあった。ジョージア州の田舎に住む親戚同士のボー、ルーク、デイジーが地元の悪徳警官と毎回派手なカーチェイスを繰り広げるという内容だった。ボーの乗っていたのは「リー将軍」と名づけられた、トップにアメリカ連合国旗(合衆国旗ではない)が描かれている69年式ダッジ・チャージャー。1,700kgほどの車体に400馬力超のV8Hemiエンジンを搭載した怪物である。
チャージャーだけではない。当時のアメリカの公道にはフォード・マスタングやプリムス・ロードランナー、シボレー・カマロなどの派手なマシンが唸りを上げていた。最上級モデルは7,200cc排気量のエンジンを持つダッジ・チャレンジャーというマシンすら存在した。
しかし、これらのマッスルカーは1970年以降に例外なくパワーダウンしていく。
本田宗一郎VS若手技術者
厳格な排ガス規制を明記したマスキー法は、ビッグスリーにとってはまさに青天の霹靂だった。
が、「天竜のモーターオヤジ」本田宗一郎はそう捉えなかった。
アメリカでは幾台ものマッスルカーが風を切っていた頃、宗一郎は若手技術者を集めて低公害エンジンの開発に着手していた。これ以上地球の大気を汚さない、環境に優しいガソリン車を何が何でも開発するのだ。
しかし宗一郎と若手技術者の間には、大きな溝があった。
宗一郎は「空冷エンジン信者」だったのだ。
エンジンの冷却方法に、空冷と水冷がある。空冷は走行風を利用する方式で、水冷は専用の冷却液を使う方法だ。では低公害エンジンを作るのにどちらの方式がより適しているかというと、水冷である。
ところが、宗一郎は構造が簡単で機械的な信頼性の高い空冷にこだわった。いや、こだわり過ぎた。しかもその「情熱」は、若手技術者に圧力をかける形で露出してしまう。
研究所のエンジン担当の設計者たちは、秘密の設計室にこもって水冷エンジンの設計図を描いていた。しかし、この設計室は宗一郎の知るところとなり、即座に閉鎖された。
(中部博『定本 本田宗一郎』三樹書房)
この温度差は深刻で、何と技術者のひとりが置手紙を残して失踪するという事件まで起こっている。
「空冷じゃ無理だ!」
技術者たちは、「空冷エンジンでは無理」という話を副社長の藤沢武夫に伝えた。
藤沢は財務担当の人物で、技術者では決してない。が、空冷エンジンの問題点を周囲の状況から理解し、それを宗一郎に電話で伝えた。
「社長は本田技研の社長としての道をとるのか、あるいは技術者として本田技研にいるべきだと考えられるのか。どちらかを選ぶべきではないでしょうか」
宗一郎はしばらく黙っていたが、決断して答えた。
「俺は社長としているべきだろう」
「水冷をやらせるんですね」
(中部博『定本 本田宗一郎』三樹書房)
随分とあっさりした解決に見えるかもしれないが、ここまで持ち込むのに若手技術者たちは様々な下準備を行っている。社長の説得のためだけに相当な時間と労力を割いた、ということだ。このあたりは、技術者としての本田宗一郎に疑問符や批判が投げかけられている部分である。
ともかく、低公害エンジンの開発の足掛かりは完成した。
秘密は「副燃焼室」にあり
昔のガソリンエンジンは、燃焼室に燃料を送り込むキャブレターという装置があった。
これはスプレーをイメージすると分かりやすい。ガソリンを散布し、空気と混ぜ合わせて混合気を作り、それを燃焼室に送り込む。
低公害エンジンを開発するにあたり、キャブレターを調整してガソリンの比率が少ない混合気を出すようにした。ところが、それでは上手く点火できない。スパークプラグでは火力が足りないのだ。
従って、主燃焼室の隣に小さな副燃焼室を作る。この副燃焼室にはガソリン比率の濃い混合気を送り、スパークプラグで点火させる。すると火炎が発生するから、それを使って主燃焼室の薄い混合気に点火してやる……という仕組みを採用したのだ。
副燃焼室付エンジンは、既存のディーゼルエンジンの一部では実用化されていた。また、ガソリンエンジンとしては、ソ連などで粗悪燃料の利用や、燃費の改善としての研究はされていたが、大気汚染対策の研究としてはされていないことから、研究する価値があると判断。副燃焼室付エンジンの研究が始まった。
小さな副燃焼室に濃い混合気を送ったとしても、総合的に見れば混合気は従来のガソリン車よりも薄くなる。にもかかわらず、燃焼不良を起こさずに動作してくれる。
ホンダはこれを「Compound Vortex Controlled Combustion」即ち「CVCC」と名付けた。
アメリカでブームを巻き起こす
ホンダ・シビックCVCCは、70年代後半のアメリカの公道を短期間で席巻してしまった。
マスキー法の影響でビッグスリーの生産するマッスルカーは軒並みパワーダウンを強いられ、もはや「マッスルカー」とは呼べない鈍重なだけの塊と化した。その上、1973年のオイルショックでガソリン価格が急高騰し、中流層の生活を脅かすまでになった。これはあの第二次世界大戦の最中ですらも発生しなかった現象だ。
マッスルカーの燃費は、どんなに頑張ってもリッター7kmと言われている。そんな中で、誰が運転してもリッター17km前後は走れるシビックが登場した。
ディスカバリーチャンネルの人気番組『名車再生! クラシックカーディーラーズ』でも、1977年式シビックが取り上げられたことがある。この番組の司会者で中古車ディーラーでもあるマイク・ブルーワーは、シビックの燃費性能を絶賛した。ちなみに、この放送回(シーズン13)ではメカニックのエド・チャイナがCVCCの仕組みを分かりやすく解説しているので、機会があれば一度ご覧いただきたい。
宗一郎の勇退
技術者としての役割を若手に譲った宗一郎は、引退の決断を自ら下した。
そしてまた、CVCCエンジンの開発成功は、本田宗一郎の技術者引退の花道となった。
研究発表から二か月後(筆者注・1971年)の四月に、株式会社本田技術研究所の社長を勇退し、技術の現場から離れ、自動車技術者を引退したのであった。
(中部博『定本 本田宗一郎』三樹書房)
これは同時に、経営職を退く決断でもあった。宗一郎は1973年10月に本田技研工業株式会社社長を退任し、以降は講演と執筆と慈善活動に精力を傾ける日々を送った。
宗一郎が繰り出した「最後の切り札」は、当時社会問題になっていた大気汚染を大幅解消させる役割を担った。同時に、日本車は「低燃費で扱いやすいクルマ」として自動車大国アメリカの国民に広く受け入れられるようになったのだ。
【参考】
中部博『定本 本田宗一郎』三樹書房
『語り継ぎたいこと』ホンダ公式サイト
ディスカバリーチャンネル『名車再生! クラシックカーディーラーズ』
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