江戸時代に建てられ、関東大震災と東京大空襲を生き延びた浅草の土蔵。現在はギャラリーとして運営されていますが、2021年12月31日(金)をもってクローズすることが決まりました。
歴史ある蔵にはどんな物語が秘められているのでしょう? 蔵の歴史を感じながらお楽しみください。
つい最近、目覚めたばかりの蔵が語り始める前半『ある蔵の物語~前編 一二八年後の目覚め』はこちら
ある蔵の物語~後編 守り、守られ生き続ける命
家の人は戻ってこなかった。
あたしだけが残ってたって、浅草辺りは焼け野原だ。材木町ももう滅茶苦茶になっていたから、見切りをつけたんじゃないのかね。西の方に引っ越したって。
きっと、あたしも壊される。そう思っていたんだが、震災から八年後、売りに出されたあたしのことを気に入ってくれた人が出た。
今にまで続く主人だよ。あたしは渕川金属事務所の倉庫って形になったんだ。蔵の手前に事務所を建ててね。
土台を補強したり瓦を葺き替えたりと、色々手を尽くしてくれて、そのあと暫くは内蔵として、目立たず、だけど、しっかり生きたよ。質実剛健ってえやつだ。
こっちとしてはそのまんま、書類だの金物だの火鉢だのを呑み込んで日を過ごしてもよかったんだが……世の中、そう甘くねえ。
造ってもらっといて言うのはなんだが、人はときどき馬鹿をやる。また戦争を始めやがった。今度は知らぬ存ぜぬで居眠りすることは叶わなかったよ。
町行く人が綺麗な格好しなくなってさ、頭の上を段々に飛行機が飛ぶようになってきて、ぱらぱら爆弾が落っこちて。そのたんびに人間はもぐらみてえに穴に潜った。
それが暫く続いたのちの、忘れもしねえ昭和の二十年、三月十日を前にした夜、凄まじい炎の雨が降ってきたんだ。
北風の強い、寒い晩でね。今じゃ信じられねえが、バケツにはぶ厚い氷が張ってた。
その晩方に空襲とやらが始まって、空一面からどんどんどんどん赤い火の玉が降ってきて、そいつが地面に火をつけて、すべてが燃え上がったのさ。
熱が呼び起こす風は竜巻みてえにもの凄く、炎と火の粉の嵐のようで、みんな立ってもいられねえ。
火に炙られた人たちは橋を渡って逃げようとする。その橋にも容赦なく、炎の爆弾が降り注ぐ。あっついから、川に飛び込む。その上にまた人が飛び降りる。
水は冷たくて凍るようだし、顔を出せば熱風で、結句、みんな死んじまったよ。
朝になったら、隅田川には数え切れねえ死体が浮いてた。
陸に立木があるかと思えば、立ったまま焼けちまった人間だ。犬も猫もおんなじよ。随分……ああ、ほとんど死んだ。
あたしの体も焼け焦げた。
ほら、手を御覧。だいぶん目立たなくなったけど、随分、ひどい火傷だろ。髪の毛だって、焦げてんだ。だから、顔は見せたくねえのさ。
こないだ来た人は、瓦の色が赤茶けてしまってるのを見て、千度ほどの熱を帯びないとこうはならないって言ってたよ。
まったく、酷い話さね。
それでも、あたしゃ頑張ったんだよ。けど、見渡してみれば、四方の全部が焼け落ちて、町は面影も残ってない。先途の地震どころじゃねえさ。観音様も丸焼けだ。
見知った景色も人もいなくて、あたしだけがぽっつんと……本当にぽつんと建っていたんだ。悲しくって寂しくってさ、涙が出たら泣いてたね。
腹の中は、随分と熱いままだった。
熱が冷めねえのに扉を開けると、空気で爆発するってんで、ふた月ほどかな、ほっとかれたね。けど、そのお陰であたしは残った。外はひどい有様だったが、中の柱や梁、壁はほとんど無傷で済んだのさ。
まあ、暫くは焼け出されてきた誰かさんの住まいになって、畳なんかも数枚敷かれて、薄暗い家って感じだったな。
それも漸く落ち着いて、やっと主人が戻ってきて、あたしもまた役目をもらった。焦げてひび割れた外側は、トタン板で隠してくれた。
けどまあ、端々はぼろっちくって、すっかりくたぶれちまったさ。
町はどんどん復興したけど、あたし自身の身の上は、蔵ってよりゃ、ただの物置だ。
机や箪笥、タイプライターなんぞはともかくも、飛行機の木製プロペラや朝鮮戦争で使われた対戦車砲用砲弾とかまで持ち込まれた日にゃ、文庫蔵もへったくれもねえ。
使い勝手も悪かったんだろ、昭和が平成に移った頃には立ち入る人もめっきり減って、天井まで物が詰まれて、埃も積もりっきりでさあ。下手に入った日にゃ、竃で寝ていた猫みたように真っくろけっけになる様だ。
そのうち先代が亡くなって、遂にね、あたしゃ潰されることが決まったんだよ。
蔵の入り口には「土地売ります」の紙っきれがひらひらしてた。
いいさ。動かぬ蔵だけに、隅田に添いし流れの身とはならねえが、周りがみんな消えてく中で充分生きたつもりだよ。
結構、体もしんどかったし。あたしゃ、眠りに就いたんだ。
そしたら、あんた。
思いも掛けねえ暁の鐘。
今の主人が大学の先生呼んできて、あたしのことを調べはじめた。
文化財保護審議会とか言ったっけ。最初は気ぶっせえ連中がやってきたなと思ったが、そんときだよ。梁を覆ってた板をひっぺがして、書いてある名を露にしたのは。
「慶応四戊辰年 八月吉日 三代目竹屋長四郎 妻 い勢 伜 小三郎 建之」
声に出して読み上げた。
そしたら「へえ」とか「はい」とか答えて、お前さんがたが息を吹き返したろ。
慶応四年の文字を見て、壊したくないって、人は思ったな。
その気持ちをすぐ呑み込んで、お前さんたちゃ、すわ一大事、縁結びの神様に心願掛けて手を合わせ、店の主人や娘をはじめ、家族親族焚きつけて、大工、左官屋、鍛冶職人、瓦職人、漆職人、沢山の若い連中をわいわい呼び込んできた。
それから先はもう賑やかで賑やかで……おや。語るうちに、随分日が経った。年を越しての五月かい。なんだか、すっかり気分がいいや。
猫玉をそっと解き放ち、お蔵様は立ち上がった。
髪は黒漆の艶を帯び、ひと房残った赤茶の色も当世風に映えている。羽二重の着物は純白の裾引き。そこにほのかな赤が差すのは、床の朱漆の映るがゆえだ。
顔を上げた。
若々しく、蘇った面差しが明らかになる。
階下の黒漆は、奥底に魚が泳ぐほど澄んでいる。明かりが点れば、表は光る。
「ああ、大川を覗き込んだみてえだな」
のびやかに、お蔵様は呟いた。
「おやまあ、今日はこけら落としか」
い勢が下を覗き込む。
「まだ階段は仕上がってへんやろ。江戸っ子はほんまにいらちやな」
長四郎は首を振ったが、喜びは隠しようもない。
一九九七年五月、蔵はギャラリーとして蘇った。
それから毎年、国内外を問わず様々な人が個展を開き、歌い、踊り、語り、ときには猫の譲渡会なども開かれて、蔵での催しは四百にも及んだ。
音玉も言霊も色玉も、そして猫玉も、そのたびに笑いながら弾けて増えた。
代々の看板猫たちも、蔵に、人に、愛され続けた。
しかし、令和三年の今、改めて蔵を解体する話が上がった。
長四郎とい勢は肩を落としたが、お蔵様は微笑むばかりだ。
「今年で百五十三歳か。このお江戸の真ん中で、あたしほど生きた蔵はない。そして、こんなに大勢が楽しく過ごした蔵もねえわな。この先、どうなろうとも、あたしゃ満足しているよ」
ギャラリーエフの蔵は解体されて、湧水豊かな武蔵野の深大寺に移築が決まった。
清冽な緑に囲まれて、お蔵様は再びの目覚めの時を待つ。
長四郎夫婦は、名物の蕎麦を今から楽しみにしているようだ。
蔵は残った。
数年後、新たな命を得た蔵に、私たちはまた会える。
(終)
題材になった蔵はこちら
ギャラリー・エフ 浅草
公式サイト
ギャラリー・エフのInstagram
土蔵のInstagram
※アイキャッチ写真:塩澤秀樹