ロシアとウクライナの戦闘状況が毎日のように聞こえてくる。多くの市民が巻き添えになり、血が流れている。この状況に心を痛めない人はいないだろう。おそらく世界中の誰もが、一日も早く戦いが終わることを望んでいる。
人類の長い歴史の中で、いかなる争いや戦いも行われなかった場所というのはおそらく存在しない。かつての戦場に赴き、花を手向け、頭を垂れる人は、二度と戦争はしない、させないと心に誓うことだろう。
1991年、古戦場の町として名高い岐阜県関ケ原町に一つのスポットが誕生した。アイキャッチ画像のモニュメントはそのシンボルである。新緑に彩られた木々の下に積み上げられたいくつもの石の彫刻。戦場に散った兵士の頭部をモチーフにしたのか目鼻や口はなく、その表情に漂うのは永遠の哀しみだろうか… 現在ここは「関ケ原合戦400年記念平和の杜」として保存され、「せきがはら人間村生活美術館」の一部となっている。
「せきがはら人間村生活美術館」は、「株式会社関ケ原製作所(以下、関ケ原製作所)」によって造られた広大なアート空間だ。約13万平方メートルという同社の敷地内に、世界的に活躍している現代アート作家たちの作品や私設美術館、食堂、カフェなどが点在する。一部を除き入館料は不要。だれもが自由に作品を鑑賞し、周辺を散策できるオープンな空間である。「関ケ原合戦開戦の地」の碑や小西行長、宇喜田秀家、島津義弘などの陣跡にも近く、はるか南には小早川秀秋の陣があった松尾山が見える。まさに古戦場のど真ん中だ。にもかかわらず、周囲とは隔絶した穏やかで満ち足りた気の流れを感じる。
古戦場とは全く異なる関ケ原の魅力とともに、同美術館がここに生まれた理由についても紹介したい。
❝せきがはら❞だから石?! 「せきがはら人間村生活美術館」には、不思議な石の彫刻がいっぱい
それでは同美術館ゆかりの主な作家の作品や施設を紹介しよう。
まずはこちらから「せきがはら人間村生活美術館」に関するマップをごらんいただきたい。
「せきがはら人間村生活美術館」誕生のきっかけとなった石のモニュメント『関ケ原』
美術館を生み出し、現在「関ケ原製作所」の相談役で「せきがはら人間村生活美術館」ファウンダーでもある矢橋昭三郎(やばし しょうざぶろう)氏は、その誕生について次のように書いている。
せきがはらのアート空間づくりは1987年フランスの世界的石彫家ピエール・セーカリーがシンポジウムの帰路、関ケ原に立ち寄った時に始まる。関ケ原が合戦の後400年の歳月を経て、今日の平和な人間村にたどり着いた歴史に大変感動し、この地に世界平和を願うモニュメント建立を決意し、『関ケ原』を彫り上げた。その後は会社が進めていた人とアートとインダストリーがハーモニーを奏でる人間ひろばづくりに共鳴し、人間村のシンボル彫刻を多数制作し、美しい工場公園を完成させた。
こちらもセーカリー氏の作品だ。
このほかにも同氏の数多くの作品が「せきがはら人間村生活美術館」を彩っている。セーカリー氏はフランスの石彫作家。1923年にハンガリーのブタペストで生まれたが、ユダヤ系だったため、第二次世界大戦中にナチスドイツから迫害を受け、1946年、パリに移った。矢橋氏の言葉通り、シンポジウムをきっかけに助手のいた関ケ原を訪れ、当時「関ケ原製作所」社長だった矢橋氏と巡り合う。そして氏の思いに共感し、その後4年間続けて夏季になると来日して関ケ原製作所を訪れ、人間村構想のための作品を制作していったという。
同美術館館長で彫刻家の近持(ちかもち)イオリ氏は次のように語る。
「意気投合した二人は大学のキャンパスをイメージして、憩いのある空間をつくろうとしました。矢橋氏が夢見ていた『せきがはら人間村」の構想が、セーカリー氏が抱く平和に対する憧れやユダヤ人の歴史と強く共鳴することがあったのでしょう。戦争によって勝利するのはどちらでもない。真の勝者は戦いの後もそこで暮らし続ける名もなき人々であると考えたからです」
緑の芝生にたたずむ美術館のシンボルたち
「平和の杜」から数百メートル南西の緑の芝生に広がるのは、「人間村」のオープンエアミュージアムだ。車の音に交じって時折聞こえるのは鳥の声や梢(こずえ)を揺らす風の音。散歩する人もいれば、大理石の椅子に腰かけて遠くを眺める人もいる。空間を満たすのは静寂、自由、平和、そして何者にも捉われない開放感だ。刻一刻と移ろう風景、そしてここを歩いている私達もアートの一部なのかもしれない。
西側の入り口には2頭のライオンが門番をしている。その中央奥にたたずむ巨大な石のオブジェは近持イオリ氏の作品である。近持氏については後ほど詳しくご紹介したい。
ピエール・セーカリー氏の『ムッシュライオン&マダムライオン』
近持イオリ氏の『石の本』
近持氏がここで使った石は宮城県産の伊達冠石(だてかんむりいし)と呼ばれるもの。別名、泥かぶり石ともいうそうである。蔵王(ざおう)が爆発して玄武岩(げんぶがん)に泥がくっついたものだそうで、鉄分が多いという。
『アジアの苑」
緑の芝生に並ぶ真っ白な石と飛び石のように置かれた彫刻群は、『アジアの苑(聖なる苑 アジアの山水)』と呼ばれている。2008年の夏、インド、ネパール、日本の彫刻家たちが文化の壁を越えて協力し、つくった。関ケ原の山々を背に緑の芝生と青く澄んだ空、白い彫刻群が一つに溶け合った様子はとても印象深い。大いなる大地と人間との繋がりが見えてくる。
杉本準一郎氏の『スギモトオープンエアミュージアム』
滋賀県出身の彫刻家・杉本準一郎(すぎもと じゅんいちろう)氏による『スギモトオープンエアミュージアム』には、穴の開いた丸い大きな石が立っている。太陽、月、地球など、広大な宇宙に広がる天体を表しているという。
関根伸夫氏の『虹の門』
門あるいはどこか空間への入り口を思わせるオブジェは、「もの派」の代表作家である関根伸夫(せきね のぶお)氏の作品『虹の門』だ。「もの派」とは1960年代末から70年代の初頭に現れた日本の現代アートにおける動向を指す。ものをできるだけ加工せず、作品として存在させることで、ものと人間、空間の関係性が重視された。本作品は東芝ビルの解体と同時に処分される運命にあったが、虹が差すような明るい未来を創造するイメージは「関ケ原製作所」にふさわしいとして、こちらに移された。「関ケ原製作所」の今と未来を結ぶ虹の架け橋なのだという。
「花田ガーデン」の不思議なオブジェ
現代アートを鑑賞するのに理屈はいらない。心をニュートラルにして感じればいい。以前、ある方から教えてもらった言葉だ。大地から生えたような、M字の形をした丸みを帯びた真っ白な石は見れば見るほど奇妙な形をしている。こうやっていろいろ想像を巡らすことができるのが現代アートの面白さなのかもしれない。
坂井達省氏の『たつみ石彫動物公園』の動物たちと『イオリプレジャーグラウンド』のすべり台
「関ケ原製作所」の社宅を中心に広がる公園エリア。福岡県出身で、現在長野県に住む彫刻家・坂井達省(さかい たつみ)氏によるさまざまな動物の彫刻を見ることができる。表情豊かな動物たちは眺めているだけでも楽しい。思わず、背中に乗ってみたくなる。
「せきがはら人間村」の原点「未来食堂」・「cafe mirai」・「創業者の家」
多くのミュージアムにはカフェやレストランが併設されているように、「せきがはら人間村生活美術館」にも食堂とカフェがある。
西門近くにあるのは「未来食堂」。2018年に「cafe mirai」として建てられたが、カフェを新たに別の場所に建てたことで、こちらは食堂としてリニューアルオープンした。「せきがはら人間村」の中核施設であり、人と人との交流が生まれる場所でもある。
島津義弘の陣跡のすぐそばにある「cafe mirai」(写真の左奥)。2Fのライブラリースペースには、版画家・柳澤紀子(やなぎさわ のりこ)氏の作品が展示され、アート鑑賞や読書も楽しめる空間となっている。歴史散策の途中で休憩がてら立ち寄ることもできる。その隣にある白い建物が「関ケ原製作所」を創業した矢橋五郎(やばし ごろう)氏の家をリノベーションした「創業者の家」。
せきがはら人間村生活美術館本館・地蔵堂(若林奮記念館)
「関ケ原製作所」ゆかりの人々の企画展を随時開催するなど、暮らしの中から生まれたアートを感じることのできる私設美術館である。木の温もりが感じられる、落ち着いた空間だ。
隣接する「地蔵堂」と名付けられた建物(写真左奥)は、彫刻家・若林奮(わかばやし いさむ)氏の記念館。若林氏は東京藝術大学の出身。鉄や銅といった金属素材を使った自然をモチーフとした作品を多く制作し、銅版画作家としても知られている。
このほか学びの場である「人間塾」、彫刻家で「ニューヨークストーン研究所」長の新妻實(にいづま みのる)氏の作品を配置した「ニイヅマガーデン」、輝くという意味のshineと社員をかけて名付けた3F建ての「シャインズビルディング」などがある。「せきがはら人間村生活美術館」にある作品の制作に関わったアーティストの数は約20人、作品数は200点以上にのぼる。
「せきがはら人間村生活美術館」はこうして生まれた
美術館を設立した「関ケ原製作所」の創業者・矢橋家の先祖は光源氏のモデル?!
矢橋昭三郎氏は企業家でありながら、なぜ、「せきがはら人間村生活美術館」構想を思い立ったのだろう。まず、矢橋家について見てみよう。
矢橋家は岐阜県を代表する名家で、そのルーツをたどれば、2024年の大河ドラマの主人公に決まった紫式部が書いた『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)までさかのぼるとされる。江戸時代初期に近江から美濃の赤坂(現大垣市赤坂町)に移り住み、同地の名主を務めてきた。俳人・松尾芭蕉も同家を訪れており、代々漢詩や俳句をたしなんできた家柄でもある。明治になって赤坂産の石灰岩や大理石を使った事業や金融業を手掛けるようになったことで、矢橋家は事業家の道を歩み始め、現在に至る。もともとの大理石や石灰関連事業から林業、各種機器の製造・サービス業まで、その内容は多彩であり、グローバルに展開している事業もある。エッセイストの白州正子(しらす まさこ)など文化人たちとの交流も深かった。江戸時代末期に勤皇志士として活動し、暗殺者に襲われた井上馨(いのうえ かおる)を畳針で治療し、命を救った所郁太郎(ところ いくたろう)も矢橋一族の一人である。
❝美的極道❞・矢橋家の家訓
矢橋家には「家訓(かくん)」がある。家訓とは一種の縛りであり、義務である。家として何を大切にすべきか、その心得を忘れることのないようにと代々、子孫に伝えている。企業理念のようなものだ。『千紫万紅(せんしばんこう)』という矢橋家について紹介した本があるが、この中で❝家訓❞に匹敵する言葉として、フランス語の「ノブレス・オブリージュ」が使われている。これは❝身分の高い者に課せられた義務と社会的責任❞を表すのだという。
矢橋家の家訓とは次の三つである。
・隠徳(いんとく)を積め
・商売に頼るな
・書画骨董(しょがこっとう)に親しめ・偽善的行為を恥じ、本当に世のため、人のために役立つためにはどうすればよいのかを考え密かに徳を尽くす
・事業や金に頼るなということである
・人の造る美の中に人の偉大な力、無限の力を知ることである。一碗(わん)の茶碗から想像力とは何かを知る。飾る書画骨董の取り合わせの中に調和とは何かを知る。そこに自分の美意識を認識する。つまり、自分を知るということである。 『千紫万紅』より
業績をひけらかすのではなく、常に謙虚な姿勢で人に役立つことをする。欲望に目が眩んで本当に大切なものを見失ってはならない。文化やアートに親しむことで審美眼や美的感性を養う。どれも目に見えないものの価値を大切にし、本当の豊かさを追求することに通じているようだ。
哲学者で矢橋家とも親交のあった梅原猛(うめはら たけし)氏は、矢橋家の人々を❝美的極道(びてきごくどう)❞と呼んだという。
過去三度の経営危機から生まれた人間主体の経営
矢橋昭三郎氏が「せきがはら人間村生活美術館」を設立した背景には何があったのか。理由は家訓だけではなく、企業家としてこれまでに三度もの大きな経営危機に直面したことが挙げられる。
「関ケ原製作所」は大型の船舶や油圧、鉄道関係の機器メーカーであり、約400人の社員がいる。同社は昭三郎氏の父・矢橋五郎氏が創業した。同氏の父・矢橋亮吉(やばし りょうきち)氏は金融業・大理石業・育英事業を一人で成し遂げた人物であり、大学卒業後に渋沢栄一から東京ガスの支配人にならないかと誘われたこともあったという。五郎氏はそんな父の薫陶(くんとう)を受けて育ち、「関ケ原製作所」と「関ケ原石材」という新たな事業を興した。
若い頃から働くことが大好きだったという五郎氏。38歳で昭三郎氏は「関ケ原製作所」の二代目をを継承した。ところがこの年、同社は大幅な人員整理に踏み切っている。オイルショックに見舞われた造船不況によるもので、やむを得ないことであったとはいえ、昭三郎氏の社長就任は父・五郎氏の引責辞任に伴うものだった。二度目は1980年代後半のプラザ合意による急激な円高不況。日本の輸出は減少、国内景気は低迷した。思い切って社員の中に飛び込んだ昭三郎氏の耳に聞こえてきたのは、「給料が上がらないのは我慢するから、せめて明るく楽しい会社にしてほしい」という率直な声だった。そして3度目は1990年代のバブル崩壊である。
これらの危機を乗り越える中で、経営者として本当に大切なことはまっすぐ社員に向き合う姿勢であると思い知らされたという。そして生まれたのが、人を犠牲にしない、人間主体の経営であった。
会社は社員の生活空間であり、人生空間。どうせ給料が上がらないなら楽しい会社にしようと、会社は変わりました。自発的に改善提案が出て会社はすぐに実行しました。職場が工場がきれいになり、多彩な行事もすべて社員の自主企画で開かれ、通信教育など自己啓発も盛んになりました。 『千紫万紅』より
2009年、昭三郎氏は「せきがはら人間村財団」を設立した。同財団は企業経営ではなく、企業理念を推進していく。「せきがはら人間村生活美術館」を創り出し、「関ケ原製作所」の社員が楽しく働くことのできる空間を創出するのも同財団の役割だ。
社内の各所に置かれているアートは社員の心や感性を育て、安らぎを与える。それが仕事にもフィードバックされているのだろう。
回遊して楽しむ「せきがはら人間村生活美術館」
昨年の春、「せきがはら人間村生活美術館」の本館が完成した。同館では「関ケ原製作所」ゆかりの作家を中心に企画展を随時開催している。今後の方向性について、近持館長は次のように話してくれた。
「これまでのように企画展も開催していきますが、メインは常設展示。新妻實、柳澤紀子を中心に、若林奮、古郡弘(ふるごおり ひろし)、清塚紀子(きよづか のりこ)、杉本準一郎、加藤正嘉(かとう まさよし)、八木一夫(やぎ かずお)などの作品が生活空間を豊かにして身近に存在しています。矢橋昭三郎と巡り合い、社員と同じ生活空間で共に飲み食いしながらて作り上げていった人たちの作品です。また『せきがはら人間村生活美術館』は『創業者の家』、『本館』、『蔵ミュージアム』、『人間塾』、『未来食堂』、『匠道場』、『ミライギャラリー』を回遊する美術館です。『蔵ミュージアム』は今月より建設が始まり、9月ごろには外観が見えてくるかと思います。昔からさまざまな作家が制作に訪れて、作品を残していきました。そのため、作家の匂いが残るような空間ができ上がっています。5月13日からは「せきがはら人間村」づくりの村長として長年ご尽力いただいた加藤正嘉氏の企画展が始まりました。ぜひ、これを機会に同美術館にお越しいただけると嬉しいです」
現代人にとって会社とは人生の多くの時間を過ごす大切な場所。だからこそ、アートを身近に感じながら楽しく生き生きと素敵な時間を過ごしてほしい。「せきがはら人間村生活美術館」は、そこに暮らす人々と共に新しい時代に向かって変化し続けている。
【取材・撮影協力】
「せきがはら人間村生活美術館」
一般財団法人せきがはら人間村財団 〒503-1593 岐阜県不破郡関ケ原町2067 TEL: 0584-43-1878
https://www.sekigahara.co.jp/ningenmura/
「せきがはら人間村生活美術館」館長 近持イオリ氏
【参考文献】
『千紫万紅』矢橋家
2013年8月20日~31日 岐阜新聞朝刊にて連載