2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、日本美術好きとして注目したいのが、仏師(ぶっし/仏像を彫る人)の運慶(うんけい)と快慶(かいけい)。この2人は、平安時代末期~鎌倉時代初期に活躍した仏師です。
彼らが制作する仏像は力強い佇まいのものが多く、武士が台頭してきた世の中を象徴するような存在でした。
今回は、その運慶と快慶について3分でご紹介します。
慶派とは?
慶派は、奈良仏師と呼ばれる集団の中の一派です。
運慶や快慶のように、代表的な仏師たちの名に「慶」の文字が入っていることが名前の由来となっています。
同時代に都で活躍した他派の円派(えんぱ)や院派(いんぱ)が優しげな作風であるのに対し、慶派は迫力のある作風が特徴です。
特に有名な慶派作品は、奈良・東大寺(とうだいじ)南大門の『金剛力士立像(こんごうりきしりゅうぞう)』で、国宝に指定されています。
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運慶 ~鎌倉幕府とのつながり~
運慶は、奈良仏師・康慶(こうけい)の息子として誕生しました。生年不明で、幼少期の詳しい情報はわかっていません。
運慶の現存している作品のなかで、最も古いとされているのは、安元(あんげん)2(1176)年ごろに制作された奈良・円成寺(えんじょうじ)の大日如来像(だいにちにょらいぞう)です。
また、寿永(じゅえい)2(1183)年には、「運慶願経(うんけいがんぎょう)」と呼ばれる『法華経』の書写を完成させた記録が残っています。
その奥書(おくがき/末尾に作者や由来を書く部分)には、快慶ら他の慶派仏師の名前も多数記されていました。つまり、運慶1人ではなく一派総出で書写したと思われます。
文治(ぶんじ)元(1185)年、奈良仏師の本家にあたる仏師・成朝(せいちょう)が源頼朝から鎌倉へ招かれました。
成朝自身は慶派ではなかったものの、このころから、運慶も鎌倉幕府関係者の依頼を受けるようになります。
文治2(1186)年、運慶は伊豆の願成就院(がんじょうじゅいん)の阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)や毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)の制作に着手します。この願成就院は、『鎌倉殿の13人』の主人公の父・北条時政(ほうじょうときまさ)が建立したものです。
当時、運慶自身が鎌倉へ赴いたかは定かではありません。一説には、奈良を拠点としながら関東からの仕事を請け負っていたのではないかとされています。
その後も運慶は、最晩年に至るまで、たびたび幕府関連の依頼を受けました。その中に、慶派の地位を確固たるものにした、東大寺復興の仕事もありました。
快慶 ~重源とのつながり~
快慶も詳細な生い立ちはわかっておらず、生没年不明です。
文治5(1189)年に制作した興福寺(こうふくじ)の弥勒菩薩像(現在はボストン美術館所蔵)が、現存する作品の中で最も古いものと見られています。
現存作品で2番目に古いのは、建久(けんきゅう)3(1192)年制作の、京都の醍醐寺三宝院(だいごじさんぽういん)の弥勒菩薩像(みろくぼさつぞう)です。
この像には、快慶の自称「功匠アン(梵字)阿弥陀仏」の銘記があります。「アン阿弥陀仏」の号は、東大寺復興の勧進元・重源から授けられたものと言われています。
醍醐寺は、重源が10代前半のときに出家した寺でもありました。
快慶は重源とのつながりが強く、重源関わりの仕事を複数手がけています。彼らの縁も、東大寺での慶派の活躍に貢献したのではないかと思われます。
慶派の一大転機! 東大寺と興福寺復興
焼き討ちにあった東大寺と興福寺
慶派を語るうえで欠かせない出来事があります。それは、東大寺と興福寺の再建です。
治承(じしょう)4(1180)年、両寺は平家による焼き討ちで甚大な被害を受けました。この出来事は南都焼討(なんとやきうち)と呼ばれます。
両寺はすぐに再建に動き出しましたが、その経過はどちらも決して順調とは言えず、数十年に及ぶ大事業となりました。
そして、それぞれの再建の過程には違いがありました。
こんなにも違う2寺の復興比較
興福寺は、平安貴族の一大勢力・藤原氏と関係の深い寺でした。そのため再興にあたっては、朝廷と藤原氏、興福寺が費用を分担しました。
堂塔の再建は、焼き討ちから半年後の治承5(1181)年に始まりました。これは、東大寺に比べるとかなり早いです。
仏像に関しては当初、院派の仏師たちが興福寺の主立った箇所を任されることになっていました。
しかし、これに対して円派や奈良仏師たちから異議があがります。そして最終的に、慶派を含めて、複数の仏師集団が参加することになりました。
一方、東大寺の復興はというと、1人の勧進元が全体を取り仕切る形式でした。
その勧進元に任命されたのが、快慶とのつながりがあった重源です。重源は宋へ3度渡ったと言われています。
3者分担で再建した興福寺と違い、東大寺復興では重源1人にさまざまな権限が与えられました。
東大寺は、まず大仏の復興を優先させました。文治(ぶんち)元(1185)年に大仏開眼供養が済んでから、本格的な堂塔の再建に入ります。
興福寺との違いは、他にもあります。東大寺は、鎌倉幕府将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)から熱心な支援を受けました。
また、東大寺の造仏はほぼ慶派の独壇場となったのも大きな特徴です。
慶派といえばやっぱりこれ! 東大寺南大門の金剛力士立像
先述のとおり、慶派の作品で特に有名なのが、建仁(けんにん)3(1203)年に制作された東大寺南大門の金剛力士立像です。
口を開いた「阿形(あぎょう)」と口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の2体の木像で、約3000の部品で構成されています。高さは8メートルを超えます。しかも、工期はたったの69日!
この制作には、運慶や快慶はもちろん、運慶の子である湛慶(たんけい)や運慶の弟とされる定覚(じょうかく)など、何人もの慶派仏師が携わったとされます。総指揮は運慶が行ったようです。
力強さを感じさせる作風は、武士の時代にふさわしいものだったのではないでしょうか。
この記事を書いている時点では、まだ『鎌倉殿の13人』に運慶は登場していないものの、相島一之さんが演じることは発表されています。快慶も出てくるのか気になるところです。
幕府や朝廷だけでなく、運慶たち仏師にもぜひ注目してみてくださいね。
アイキャッチ画像:写真ACより
主な参考文献
『運慶・快慶とその弟子たち』 奈良国立博物館/編集・発行 1994年
『ほとけを造った人びと』 根立研介/著 吉川弘文館 2013年
『日本美術全集7 運慶・快慶と中世寺院』 山本勉/著 小学館 2014年
『運慶大全』 山本勉/監修 小学館 2017年
▼おすすめ書籍
究極の美仏 運慶と快慶(エイ出版社編集部)