平家物語を読んでみると、そこに登場するのは貴族や皇族・武士だけではなく、意外とお坊さんや遊女、地元民などの庶民なども出てきます。今回はその中でも『白拍子(しらびょうし)』に焦点を当てて読んでみましょう!
そもそも白拍子って?
白拍子とは、平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞のことで、それを舞う女性の事も指しました。その起こりについては諸説がありますが、『平家物語』にも白拍子の起源について書かれた部分があります。
巻之一 『祇王』
白拍子というものは、鳥羽法皇の御代の時(1129~1106年頃)、島の千歳(しまの せんざい)と和歌の前(わかの まえ)という2人の女性が舞ったことが始まりである。
初めは水干(すいかん=男性下級役人の正装)を着て、立烏帽子(たてえぼし=男性の正式な被り物)を被り、白鞘巻(しろさやまき=銀で飾ったつばのない短刀)さして舞っていたので「男舞(おとこまい)」と呼んだ。しかし途中から立烏帽子と白鞘巻をやめて水干だけを用いたので「白拍子」と名付けたのである。
つまり、現代風に例えると、スーツとハットで踊る宝塚男役みたいな感じですね!
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平清盛のお気に入りの白拍子たち
平清盛のお気に入りの白拍子はどんな女性だったのか、またその悲しい行く末をご紹介します。
祇王
「祇王(ぎおう)」という名の白拍子が、平清盛のお気に入りでした。祇王の妹である「祇女(ぎじょ)」も世間からもてはやされます。そして姉妹の母親の「とじ」もまた白拍子で、清盛はとじに立派な家を買い与えました。
この幸運にあやかって都の白拍子たちは「祇一(ぎいち)」や「祇二(ぎに)」など、「祇」のつく名を名乗ったり、逆に「幸運は生まれつきなのだから名前に意味などないわ」と名乗らなかったりするほどでした。
仏
清盛による祇王への寵愛が3年も続いた頃、都にまた新たに評判の白拍子が現れました。加賀国から来た「仏(ほとけ)」という名の白拍子です。
仏御前は結構アグレッシブな性格らしく、「都中にこの名が轟いているのに、清盛の屋敷にお呼ばれしないなんて!」と言って、自ら出向きました。しかし清盛は気の強い女性はタイプではないらしく「招いてもいないのに来るな」と言って門前払いをしようとしました。
しかし祇王は同じ白拍子として同情し、「若い子なんですから、そんなに冷たくしては可哀想ですよ。歌や舞を見てやってください」と清盛に切々と訴えました。祇王がそんなに言うならと仏御前を呼び戻して舞わせることにしました。
目の前に現れた仏御前の歌声と舞、若さと美しさに清盛はすっかりメロメロになります。清盛は仏御前を召し抱えることにして、祇王を追い出してしまいました。
出家
しかし翌年の春になり、祇王の元に清盛から「仏御前が寂しがっているので話し相手になってやってくれ」という手紙が届きます。
本当は行くつもりはなかったのだけれど、母のため、暮らしの為に清盛の元に訪れました。以前座れた清盛の側にはいけず、うんと下座に座らされ、歌に思いを込めて涙ながらに舞ってみせても「これから用事があるから席を外す。これからいつでも来て舞ってよいぞ。仏御前を慰めてやってくれ」などと言われてしまいました。
祇王と祇女、とじは共に髪を落として出家しました。その後、いつか我が身にも同じことが起きると悟った仏御前も清盛の元を離れる為に出家し、3人の前に現れます。そして4人でお寺に住み、静かに暮らしました。
芸の道を行く女の「あはれ」
祇王は出家した時点で、21歳。仏御前は17歳であったと言われています。若い才能がどんどんデビューしてきて、持てはやされ、飽きられて、去っていく。
いつの世も芸事の世界は厳しいものとはいえ、この仕打ちは現代人にとって酷いことのように見えます。きっと当時の人にとっても目に余ることだったので物語として残ったのでしょう。
実際に清盛が白拍子たちをこのように扱っていたのかは定かではありませんが、権力者と白拍子の間ではよくあることだったのかもしれませんね。
有名な白拍子たち
白拍子と言えば、源義経(みなもとのよしつね)に愛された静御前(しずかごぜん)も有名です。静御前に関してはこちらの記事をどうぞ。
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