Culture
2019.01.24

7年越しの歌舞伎の夢を実現。中村勘三郎と彬子女王殿下の強い絆のものがたり

この記事を書いた人

彬子女王殿下が子どもたちに日本文化を伝えるために創立された「心游舎(しんゆうしゃ)」が、北野天満宮において歌舞伎のワークショップを開催しました。今は亡き中村勘三郎さんの願いを、7年越しで息子の中村勘九郎さんと中村七之助さんとともに叶えられた奉納歌舞伎。本物の歌舞伎の魅力を子どもたちに伝えたいと願う大人たちの情熱が極まった奇跡のような一夜の出来事です。

歌舞伎の魅力を子どもたちに。心游舎のワークショップ

文・彬子女王

大切なふたりの父

2012年、私は父と呼んだ人を二人失った。一人は、実の父、寛仁親王。もう一人は、十八代目中村勘三郎。私が「哲明(のりあき)さん」と呼んで慕った人だ。

二人の父は、共に食道癌を患った。父が危篤状態に陥ったとき、私は泣きながら勘三郎さんに電話をした。どうしようと泣きじゃくる私を、勘三郎さんは「大丈夫だ。がんばれ」と励ましてくれた。折しもそのときは、勘三郎さんが癌の宣告をされた翌日であったと思う。自分がショックを受けている中、同じ食道癌患者であった父がこの世を去ろうとしていることを聞かされ、どんなにつらかったことだろう。そんなことを微塵も感じさせずに、私を元気づけてくれた中村勘三郎は、やはり稀代の名優だと思うのである。

記憶に色濃く残る、はじめての歌舞伎

私が初めて歌舞伎を見たのは、初等科の3年生くらいのときであったと思う。勘三郎さんと勘九郎くん(当時は勘九郎と勘太郞)親子が連獅子を舞うということで、勘九郎くんと同い年である私には刺激になると思われたのか、連れて行ってもらった。歌舞伎とは何かも知らなかったし、連獅子がどんな話なのかもわからなかった。ただ、あの赤と白の髪がぐるんぐるん回る映像は、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いている。そして、終演後に舞台に上げて頂き、汗だくの勘三郎さん親子に対面したとき、私は今なんだかすごいものを見てしまった、と思った。そのときの胸の高鳴りを、私は忘れることができなかった。

もちろん、私がそこからすぐに歌舞伎好きになった訳ではない。高等科に入り、歌舞伎好きの友人に誘われて、たびたび歌舞伎を見に行くようになり、すっかり私もその魅力にとりつかれてしまって今に至るわけだが、初めて見た歌舞伎の印象がいいものでなければ、私は誘われても歌舞伎を見に行こうと思わなかったはずだ。

心游舎の原点

本物の力は、何もわからない子どもにも伝わる。だから私は、子どもたちにできるだけたくさんの本物の日本文化に触れる機会を提供して、子どもたちの心に多くのよき日本文化の記憶の種を蒔きたい。私が歌舞伎好きになったのも、初めて見た連獅子のときに蒔かれた記憶の種が芽を出したからだ。そんな思いから、私は心游舎の活動を始めた。勘三郎さん親子の連獅子が、心游舎の原点なのである。

心游舎を始めるとき、私は勘三郎さんに相談をした。話を聞くと、目を輝かせて、「俺にも協力させてよ! なんでもするからさ!」と心游舎の賛同者に名を連ねてくれた。その一言が、不安を抱えていた私の背中をどれだけ押してくれたことだろう。実の父に言えない悩みも、勘三郎さんには言えた。本当の娘のように可愛がってくれたし、時には本気で叱ってもくれた。頼もしく、大好きな第二の父だった。

中村勘三郎さんの夢

中村勘九郎

いつも力をもらってばかりの私であったが、勘三郎さんに相談を受けたことがある。突然「俺さ、初代猿若勘三郎が初めて歌舞伎を奉納した北野天満宮で歌舞伎を奉納したいんだよ」と言われたのである。私ができることであれば、ぜひお手伝いしたい。北野天満宮の宮司様は、一も二もなくぜひにと了承して下さり、そのことを伝えると、「ほんとに? ありがとう! 早速松竹に言って話進めるよ!」と子どものように喜んでいたあのときの勘三郎さんの顔が忘れられない。それからおよそ半年後、勘三郎さんは入院。その夢は叶わぬものとなってしまった。

この勘三郎さんとの約束は、しこりのように私の胸に残った。いつか、勘三郎さんの愛した二人の息子たちに叶えてほしいと願いながら、月日だけが過ぎていった。でも、言霊というのは本当にあるのだろう。言い続けているうちに現実になることが。2018年、心游舎のワークショップとして中村勘九郎くん、七之助くんに北野天満宮で奉納舞をしてもらえることになったのである。

中村勘九郎

当初の予定が台風で中止になったときは、本当に落ち込んだ。勘三郎さんが空の上からやらないでいいと言っているのかと思った。でも、難航を極めた再調整の末、この日しかないと決まったのは10月27日。これは、勘三郎さんの「せっかくなら10月の歌舞伎座、11月の平成中村座と続く俺の七回忌追善興行の流れの中でやってくれよ」というメッセージに違いない。そしてこの日が、祖父である三笠宮殿下のご命日でもあったことも、何かのお導きとしか思えなかった。見えない力に後押しされている。この催しは絶対にうまくいく。そう確信できた。

涙と絆の一夜。7年越しの夢が叶った瞬間

中村勘九郎圧倒的な存在感で観客を魅了した武蔵坊弁慶を演ずる勘九郎さん(左)と、牛若丸を演じる七之助さん(右)

そして迎えた当日。私は会場に着く前から泣いていた。7年越しの夢が叶う瞬間。感無量以外の何物でもなかった。ひどい顔をした私とは対照的に、終始笑顔の勘九郎くんと七之助くんは素晴らしい舞台を務めてくれた。舞台に上げてもらってみんなで切った見得、白粉の匂い、衣装の重さ、ツケ打ちの音、力強く勇壮な弁慶と軽やかで優美な牛若丸の舞……子どもたちはきっと忘れることはないだろう。

中村勘九郎中村勘九郎さん、七之助さんによる歌舞伎塾が行われた。

その後、参加してくれた子どもたちが、うちで見得を切っているとか、歌舞伎に連れて行ってほしいと言っているという話をちらほらと聞く。やはりこれが心游舎の原点なのだ。これから私たちは何をしていくべきなのか、何が大切なのか、改めて勘三郎さんが初心に返らせてくれた。

中村勘九郎京の五条大橋での弁慶と牛若丸の出会いを描いた舞踊「橋弁慶」

奉納の後、全員で夜の静寂の中、ご本殿にお参りをした。神様の前で頭を下げたとき、胸のしこりがすーっと溶けていくのを感じた。私の最後の親孝行。哲明さん、私のイノリノカタチ、届いていますか?

書いた人

1981年12月20日寬仁親王殿下の第一女子として誕生。学習院大学を卒業後、オックスフォード大学マートン・コレッジに留学。日本美術史を専攻し、海外に流出した日本美術に関する調査・研究を行い、2010年に博士号を取得。女性皇族として博士号は史上初。現在、京都産業大学日本文化研究所特別教授、京都市立芸術大学客員教授。子どもたちに日本文化を伝えるための「心游舎」を創設し、全国で活動中。