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2019.09.26

日本史ミステリー「本能寺の変」はなぜ起きた? 明智光秀”黒幕”説に迫る

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織田家重臣の明智光秀(あけちみつひで)。天下統一を目前にした織田信長(おだのぶなが)が、京都の宿所で討たれた本能寺の変は、戦国史のみならず、その後の日本の歴史を変えた一大事件としてご存じの方も多いでしょう。
しかし、光秀がなぜ主君に謀叛(むほん)を起こしたのか、その動機は諸説あるもののいまだ明らかにされておらず、多くの謎に包まれています。

和樂Web「日本史3大ミステリーシリーズ」第2回は、本能寺の変の概略と最近の説を紹介しつつ、謎の核心に迫ってみたいと思います。ぜひ皆さんも推理してみてください。

織田信長が討たれた本能寺は京都のどこにあったのか

本能寺の信長公廟

天正10年(1582)6月2日は、太陽暦では6月21日にあたります。夏の夜がまだ明け初めぬ刻限、老(おい)の坂峠を下り、桂川を渡って七条口から京に入る軍勢がありました。旗印は「水色桔梗(ききょう)」。明智光秀率いる13,000の軍です。京に入った明智勢は数隊に分かれ、堀川通、油小路(あぶらのこうじ)通、西洞院(にしのとういん)通などを北上、目指すはさいかちの木に囲まれた本能寺でした。

同じ頃、本能寺。朝の早い信長はすでに起床していたようです。軍勢が寺に迫る喧騒を、信長や小姓たちは下々の者の喧嘩かと思いますが、騒ぎが収まるどころか鬨(とき)の声が上がり、鉄砲が撃ち込まれるに及んで、敵襲であることを知りました。「これは謀叛か。いかなる者の企(くわだ)てぞ」と信長が問うと、側近の森蘭丸(もりらんまる)が「明智の手勢と思われます」と応えます。信長は「是非に及ばず」とのみ口にしました・・・。

以上は太田牛一(おおたぎゅういち)『信長公記(しんちょうこうき)』などが記す、本能寺への襲撃が始まる様子です。まず事件の現場を確認しておきましょう。

本能寺は現在、京都市中京区寺町通御池通下ル下本能寺前町にあり、境内には信長公廟もありますが、実はこの地は豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命令で、本能寺の変後に移転したもので、実際に本能寺の変が起きた場所とは異なります。

かつての場所は中京区元本能寺南町で、北は六角通、東は西洞院通に面した東西約110m、南北220mに及ぶ広大な寺域でした。しかも信長の命令で四方に堀と土塁をめぐらした城郭構えに改められ、土塁に沿ってさいかちの木が植えられていました。さいかちの幹にはとげがあり、侵入者を防ぐねらいがあったのでしょう。明智勢は、さいかちの木に囲まれた「本能寺の森」を襲撃の目印としました。現在、一帯は、京都市立堀川高等学校本能学舎や高齢者福祉施設となり、本能寺跡を示す碑が建てられています。

本能寺跡碑

明智光秀とは何者なのか? 本能寺の変直前の織田家の状況とは?

明智光秀像

次に事件の首謀者・明智光秀のプロフィールと、当時の織田家の状況を確認しておきます。

まず光秀についてですが、羽柴(はしば)秀吉と並ぶ織田家の出世頭で、2020年の大河ドラマの主人公となる人物ながら、前半生については謎に包まれています。美濃国(現、岐阜県)の生まれであることは間違いないようですが、生年は諸説あり。『明智系図』では享禄元年(1528)とし、それに従えば信長よりも8歳年上になります。明智氏は東美濃の源氏の名族であり、信長の正室濃姫(のうひめ、帰蝶〈きちょう〉)の母親は、光秀の叔母にあたるともいわれますが、確証はありません。

光秀は濃姫の父・斎藤道三(さいとうどうさん)に仕えますが、道三が弘治2年(1556)に息子に討たれると美濃を離れ、越前(現、福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)のもとに10年ほど身を寄せたとされます。この朝倉義景に上洛援助を求めてきたのが、将軍になる前の足利義昭(あしかがよしあき)でした。しかし朝倉氏は動かず、義昭は次に美濃を攻略した織田信長に支援を求めます。この時、義昭と信長を仲介したのが光秀でした。

永禄11年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛。義昭を15代将軍の座につけて、室町幕府再興を果たしました。光秀は義昭に仕える奉公衆(幕臣)となっていましたが、信長に有能ぶりを見込まれ、織田の家臣にもなり、義昭とのパイプ役を務めます。その後、義昭と信長が対立すると、光秀は幕臣を辞め、信長の有力家臣となりました

その後の光秀の活躍は目覚ましく、持ち前の教養を活かして公家や豪商、文化人らと親交を結び、交渉事を円滑に進める一方、武将として武功を重ね、信長配下で最初の城持ち大名となります。大坂の石山本願寺攻めや丹波国(現、京都府中部、兵庫県北東部)攻めに従事し、天正7年(1579)には丹波平定を完了。信長は「丹波での光秀の働きは天下に面目をほどこした」(『信長公記』)と絶賛し、この功で34万石の大領主となりました。

本能寺の変の頃には近江(現、滋賀県)坂本城、丹波亀山城(現、京都府亀岡市)の城主であり、組下大名に丹後(現、京都府北部)の細川藤孝(ほそかわふじたか)、大和(現、奈良県)の筒井順慶(つついじゅんけい)らを従える、まさに重臣中の重臣だったのです。

亀岡城(亀山城)跡

次に、本能寺直前の天正10年頃の織田家の状況に触れておきます。同年3月、長年の宿敵であった甲斐(現、山梨県)の武田家を滅ぼし、甲斐・信濃(現、長野県)・駿河(現、静岡県)・上野(こうずけ、現、群馬県)を接収。駿河は同盟者の徳川家康(とくがわいえやす)に与え、重臣の滝川一益(たきがわかずます)を上野に置いて関東の押さえとします。

北陸方面では筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)が越後(現、新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)領に侵攻、上杉家は信濃、上野方面からも織田勢に圧迫され、風前の灯(ともしび)でした。

中国方面では重臣の羽柴秀吉が備中(びっちゅう)高松城(現、岡山県岡山市)で、中国の覇者・毛利(もうり)軍と対峙(たいじ)。秀吉は5月に信長の出馬を仰(あお)ぎました。ちょうどその頃、徳川家康が駿河拝領の御礼に近江の安土(あづち)城を訪れており、明智光秀は接待役を務めていましたが、信長は秀吉の要請に応えて自らの出馬を決断するとともに、光秀の接待役を解いて、一足先に秀吉の応援に向かうよう命じています。

備中高松城水攻め(岡田玉山『絵本太閤記』国立国会図書館デジタルコレクションより)

そして摂津国(現、大阪府)では、信長の三男・信孝(のぶたか)が重臣の丹羽長秀(にわながひで)に補佐されながら、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を攻めるべく軍船を調え、渡海しようとしているところでした。

つまり織田軍を率いる重臣たちは全国に散っており、安土から京に出向いた信長の近くにいる有力武将は、中国に出陣する明智光秀だけだったのです。なお安土を訪れていた徳川家康は、本能寺の変が起きた際には、少数の家臣を連れて堺見物をしているところでした。信長もまた、さほど多くない近習や馬廻衆(うままわりしゅう)らとともに上洛して、本能寺で茶会を開き、準備が整い次第、中国に向かう手はずだったのです。信長を討とうとする光秀にすれば、またとない絶好の条件がそろっていたといえるでしょう。

江戸時代から戦前まで信じられた「怨恨」説、戦後の研究から生まれた「野望」説

光秀再び信長公を恨む(岡田玉山『絵本太閤記』国立国会図書館デジタルコレクションより)

では、いよいよ光秀が信長を討った動機について、諸説を検証してみましょう。

まずもっとも古典的といえる説が、光秀が信長を恨んでいたとする「怨恨(えんこん)」説です。映画やテレビドラマで、信長の機嫌を損(そこ)ねた光秀が、打擲(ちょうちゃく)されたり、足蹴(あしげ)にされる場面を観たことがある人も多いでしょう。あるいは光秀が自分の母親を人質にして敵を降伏させたところ、信長が約束を破って敵将を殺したため、母親も敵方に殺されてしまった話や、安土城を訪れた徳川家康の接待に手抜かりがあったとして、信長に満座の中で折檻(せっかん)された話も有名です。

こうした信長の仕打ちを恨んだ光秀が謀叛を起こしたと、江戸時代から語り継がれ、芝居などでも演じられて、戦前までそれが光秀の動機と信じられていました。しかし実は信長のひどい仕打ちが記されているのは、ほとんどすべて後世の編纂(へんさん)物で、光秀が生きた当時の同時代史料からは確認できません。

江戸時代の読み物や芝居が、読者や客の関心を引き、共感を呼ぶために脚色した俗説が流布(るふ)し、ドラマなどで今なお描かれて、私たちもそれを疑わずに事実と信じてしまっているのが現状なのです。光秀は本能寺の変の半年前の茶会の席で、信長自筆の書を掲げています。その姿勢を見ても、直前まで関係は良好だったと考えるべきでしょう。

これに対し戦後、光秀の動機は「怨恨」ではなく「野望」であるとしたのが、歴史学者の高柳光寿(たかやなぎみつとし)氏でした。その著書『明智光秀』(1958年、吉川弘文館)は、確かな史料に基づいて従来の怨恨説を一つひとつ否定し、「光秀は天下を狙った」と結論づけたもので、本格的な光秀研究の端緒となったとされています。「野望」説は今でも影響力を持っていますが、一方で、天下を狙ったにしては、本能寺の変後の光秀の行動があまりに無計画に過ぎるのではないかという疑問が提示されています。

光秀の背後で糸を引いていたのは誰か? まことしやかに語られる多様な「黒幕」説

野望説に疑問が呈される一方で、次々と主張され始めたのが、光秀の背後には彼を操る黒幕がいたのではないかとする「黒幕」存在説でした。その主なものを紹介してみましょう。

1.朝廷黒幕説

当時、朝廷と信長の間には、さまざまな軋轢(あつれき)があったとされます。信長は正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫り、暦(こよみ)を訂正するよう求めるなど、朝廷に圧力をかけていました。また本能寺の変後、関白や太政大臣を歴任した近衛前久(このえさきひさ)が事件関与を疑われて逃亡、光秀と朝廷の取次役であった吉田兼見(よしだかねみ)は本能寺の変前後の日記を改ざんし、光秀との関係を隠そうとしました。こうした公家たちの不審な動きが、朝廷が光秀の黒幕であったことを示している、というものです。

2.足利義昭黒幕説

室町幕府15代将軍の義昭は、信長と対立して諸国の大名に打倒信長を呼びかけ、自らも挙兵したため、元亀4年(1573)に信長によって京都から追放されました。一般的に室町幕府はこの時に滅亡したとされますが、義昭は将軍職のまま毛利輝元領の備後(びんご、現、広島県東部)で亡命幕府を維持しています。そして2年前(2017)、光秀が山崎の戦いに臨む前日に書いた手紙の原本が見つかり、光秀が「義昭を京都に迎えたい」と書いていることから、その意図は「室町幕府再興」にあったとする見解が示され、話題になりました。

3.羽柴秀吉黒幕説

本能寺の変によって最も得をした者は誰か? となれば、明智光秀を討って天下人となった秀吉になるでしょう。光秀は四国の長宗我部元親と親戚ぐるみの親交を持ち、信長もそれを認めていましたが、信長が元親を見限ると、秀吉は元親の仇敵である三好康長(みよしやすなが)の四国復帰を支援、信長の了承も取り付けて光秀を窮地に陥れました。また、本能寺の変が起きると、秀吉は戦っていた毛利氏と素早く講和を結び、光秀を討つべく現在の岡山市から京都までの約200kmを10日で走破する「中国大返し」をやってのけます。その手回しのよさから、秀吉は光秀が謀叛を起こすよう仕向けていた、とされます。

4.徳川家康黒幕説

信長の同盟者の家康は、かつて正室と長男が武田氏に内通している疑いを信長にかけられ、二人を死なせています。信長への憎しみはあったでしょう。しかしそれ以上に家康を不安にしたのは、武田の滅亡で、東の防波堤役を務めてきた徳川の存在価値が失われたことでした。信長は自分にとって価値がないと見れば手のひらを返すのは、長宗我部の例からも明らかです。実際、宣教師のルイス・フロイスは、信長が家康を殺すつもりではないかと疑い、本能寺に向かう光秀の手勢には「敵は家康」と思い込んでいる者もいたほどでした。危険な状況を打開するために、家康は何らかの方法で光秀に謀叛を起こさせた、とします。

この他にも堺商人黒幕説、イエズス会黒幕説、本願寺黒幕説など、挙げればきりがありませんが、すべての黒幕説に共通するのは「状況証拠」しかないことです。足利義昭説以外の黒幕説で研究者が支持しているものは現在ありません。足利義昭説にも多くの疑問が提示されており、最新研究における大勢は光秀が単独で本能寺を起こしたとしています。

キーマンは光秀重臣の斎藤利三か、それとも信長の非道を阻止するためだったのか

「月下の斥候 斎藤利三」(「月百姿」部分、国立国会図書館蔵)

最後に現在、光秀の動機として可能性が高いと思われる二つの説を紹介しましょう。

四国問題と斎藤利三関与説

一つは、すでに触れた四国の長宗我部問題と、光秀重臣の斎藤利三(さいとうとしみつ)が本能寺の変に大きく関わっているというものです。

当初、信長は土佐(現、高知県)から四国制覇を目指す長宗我部元親に友好的でした。というのも、信長は大坂の本願寺と10年に及ぶ戦いを続けており、元親は四国から本願寺の背後を脅かす存在として貴重だったのです。信長は元親の四国統一を認めていました。ところが天正8年(1580)に本願寺と講和すると、信長は元親への態度を一変し、土佐の他は阿波(現、徳島県)半国の領有しか認めないとしたのです。元親と信長の取次役を務めていた光秀は面目を失い、元親は信長と決裂しました。特に困ったのは斎藤利三です。実は元親の正室は利三の義妹、元親の長男の正室は利三の姪で、長宗我部と明智家中は血縁関係で結ばれていました。信長は四国攻めを計画しますが、光秀にすれば長宗我部を攻める事態は何としても避けたかったのです。

そんな最中、今度は斎藤利三自身が信長の標的となります。利三はもともと同じ織田家中の稲葉一鉄(いなばいってつ)に仕えていましたが、一鉄と喧嘩し、光秀の家臣となりました。本能寺直前の天正10年、那波直治(なわなおはる)がやはり一鉄のもとを去り、光秀に仕えます。利三の引き抜きによるものでした。これに一鉄が怒って信長に訴え、信長は光秀に那波を一鉄のもとへ戻し、利三には切腹させるよう命じます。その後、利三は助命されますが、フロイスは『日本史』に抗弁した光秀を信長は足蹴にしたと記しました。事実かはともかく、四国問題と重臣利三への厳罰が、光秀に謀叛を決意させたとします。

本能寺(写真:寿福 滋)

信長非道阻止説

もう一つは、信長による数々の暴挙(とりわけ朝廷の権威に対して)を見かね、これ以上の非道を阻止するために討ったとするものです。

光秀は本能寺の変の翌日に出した手紙に「信長父子の悪虐(あくぎゃく)は天下の妨(さまた)げ、討ち果たし候(そうろう)」と記しました。悪逆非道の具体的な内容は、「①信長による皇位簒奪(こういさんだつ)計画、②暦への口出し、③源氏でないにもかかわらず将軍に任官、④太政大臣近衛前久への暴言、⑤天皇から国師号を授けられた高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)の焼殺、⑥安土城に御所清涼殿(せいりょうでん)を模した本丸御殿を造営(天皇行幸の際は、天皇を天主から見下ろすことになる)」などとされます。

朝廷黒幕説の内容ともかぶりますが、あくまで光秀の意思で信長を討ったとするものです。もっとも、暦は当時京都で用いていたものが現状にそぐわなくなっていたことは事実ですし、信長は皇室を敬っていたとする論者も多くいます。近衛への暴言は『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に載るもので、同時代史料では確認できません。なお、ルイス・フロイスの『日本史』も同時代史料ではないことを付け加えておきます。

日本史上の一大ターニングポイントが本能寺の変だった

歌川国芳「大江山入之図」(部分)

さて、いかがだったでしょうか。明智光秀本人が動機を明確に語っておらず、本能寺の変の真相については状況証拠から探らざるを得ないのが現状です。しかし本能寺の変が起きたからこそ、信長の後継である秀吉政権と、それに対抗する家康政権が誕生したわけで、まさに日本史上における「一大ターニングポイント」であることは間違いありません。さらに重臣明智光秀がなぜ信長を討ったのかを探ることは、信長政権がどんな性格のものであったのかを読み解く上で重要であり、今も多くの研究者が取り組んでいます。

蛇足ながら、私の空想もつけ加えておきましょう。高い教養があり、武将としても一流であった光秀。いかに乱世とはいえ、主君信長を討てば、「主(あるじ)殺し」の汚名をかぶることになるのは承知していたはずです。それでもあえて謀叛に踏み切ったのは、それが信長よりも上位の存在の意を汲んだ行動であると信じたからではないでしょうか。つまり、信長を討った後、「これは正当な行為だった」と皆が納得し、汚名の払拭(ふっしょく)が担保されているからこそ、変後の周到な準備もあまり必要ないと考えたのではないか。

光秀は老の坂から京の本能寺を目指しました。この地は二人の源氏の武将と縁があります。老の坂とは大枝(おおえ)山を指し、これは「酒呑童子」で有名な大江山のことだともいわれます。この地で平安の頃、天皇の命を受けた源頼光(みなもとのらいこう)が悪鬼の酒呑童子を退治しました。また鎌倉時代末期には、後醍醐(ごだいご)天皇の意を奉じた源氏の足利高氏(あしかがたかうじ)が、この地から京に攻め込み、幕府の拠点・六波羅探題(ろくはらたんだい)を壊滅させています。老の坂を下り、京の本能寺を目指す源氏の将・明智光秀の脳裏にあったものは果たして何であったのか。

皆さんはどう考えますか?

参考文献:日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(洋泉社)他

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信長を殺した男~本能寺の変 431年目の真実~

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。