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2017.06.20

すごいぞ!琳派ブラザーズ!尾形乾山は、偉大なる素人だった!

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琳派の中で陶器の部を担っているのが、光琳(こうりん)の弟である尾形乾山(おがたけんざん)です。水墨画を思わせる渋い銹絵(さびえ)の作品群を残し、また一方で大胆な図柄の色絵の鉢や向付(むこうづけ)、蓋物(ふたもの)などの食器も精力的に制作しました。

今も茶人を始めとする器好きの人々に愛されている乾山の器は、いかにも琳派の作家らしい、自由で楽しく、大胆な気分に満ちあふれています。また和歌を連想できる題材は親しみやすく、古典的な一面もあります。では、この作風はどこからきたのでしょうか。実は、乾山が陶芸の素人だということが、大きな要因となっています。スクリーンショット 2017-06-19 12.26.43「色絵菊図向付(いろえきくずむこうづけ)」 乾山作 五島美術館蔵 乾山の器はお茶道具の中では重きを置かれなかった懐石道具に面白いものが多数見られる。これは、ユニークな形の型抜きの台に白菊を大胆に描いた向付。裏に書かれた「乾山」の銘が二重の短冊のものには傑作が多く、どうやら乾山は自信作に限ってこの二重短冊で銘をいれていたらしい。レンタル窯時代のもの。

日本の焼きものはいつも素人が大変革を起こしてきました。乾山はそのさきがけで、明治以降では川喜田半泥子(かわきたはんでいし)や北大路魯山人(きたおおじろさんじん)などもまた、偉大なる素人でした。彼らはプロにない大胆でとらわれない発想ができます。ゆえに新しい風を起こすことができたのです。
スクリーンショット 2017-06-19 12.35.53

健康的で完成度の高い器

たとえば、四角い皿、内側の絵付け、アシンメトリーな模様、型抜きの陶器などは、江戸当時の器の常識を破る、清新なものでした。そして、それにも関わらず、珍奇とか非実用的ではありません。乾山は、父の遺産を得たことで、25歳で隠居、漢詩や書を愛し、文人墨客(ぶんじんぼっかく)と交わる暮らしぶりから、若くして数奇者の道を歩んだ風流人のようなレッテルを貼られがちですが、器に限っていえば、健康的で完成度の高いものです。というのも、乾山の器は、ほとんどが焼きもの職人に指事してつくらせたものだからです。そういう意味で、乾山はまさにデザイナーで、「乾山」は器のブランドネームだったわけです。

ところで、乾山の焼きものは、鳴滝(なるたき)窯の時代とその後の借り窯、つまり窯をレンタルしていた時代があります。乾山は、1699(元禄12)年に洛西の鳴滝に窯を築きます。この場所は都の乾(いぬい)にあり、いちばん縁起のいい方角。「これはいい銘になる」と、彼は「乾山」を自分の窯の名前にしました。この銘の焼きものが人気を博したため、13年続けた鳴滝窯を閉じて京都の町中に移り、窯を借りて焼くようになっても、「乾山」の銘を使い続けました。つまりブランドとして確立するほどの名前になっていたのです。
スクリーンショット 2017-06-19 12.39.36「銹絵柳文【漢宮春図(かんきゅうはるず)】重香合(さびえやなぎもんかさねこうごう)」 乾山作 大和文華館蔵 撮影/城野誠治 これは乾山が自ら絵付けしたと想像できる数少ない作品のひとつ。プロなら絵を正面と側面の関連性を考えながら立体的に描くが、これは各面で完結している素人的な絵付け。また、裏に正徳(しょうとく)年製とある。これはおそらく正徳元年の意で、ちょうど鳴滝窯を閉めたころ。年号が書かれている作品は異例で、しかも図柄の柳は漢詩の世界では別れを意味するもの。「鳴滝窯さようなら」の気持ちを込めて描いたのではないだろうか。

鳴滝窯でも決して実用を離れた器をつくっていなかった乾山ですが、レンタル窯時代になるとより完成度の高い器になっていきます。レンタル窯は、何人かのつくり手がひとつの窯を借りて同時に焼くため、自分だけの温度や火の管理ができません。ゆえに、ある程度、時間や温度が違っても十分焼ける工夫が求められました。それに対応できた乾山は、精力的に懐石の器などを手がけるようになり、作風も多彩になります。鳴滝窯時代は銹絵中心でしたが、レンタル窯時代になると色絵のカラフルで明るいものが増えていきました。
WA4-104-008「色絵龍田川文鉢(いろえたつたがわもんばち)」 乾山作 萬野美術館蔵【当時、現在は閉館】 有名な在原業平(ありわらのなりひら)の和歌を題材にし、流れに翻弄される紅葉を大胆な構図で描いている。内側にも絵付けされ、透かしまで入ったデザインは、素人であり、立体には疎い乾山がなんとか立体的に描きたいと考えたものを、プロの陶工が実に巧みに実現させた好例として見ることができる。レンタル窯時代の作品。

写真美から抜け出した器

乾山の焼きものは、楽焼き風でもろく、実用に向かないと考えられがちですが、レンタル窯の状況からもわかるように、しっかりとした本焼き【高温で焼いたもの】で、しかも斬新な絵付けと色使い。琳派のポリシーである、暮らしを豊かに彩る生活道具というところとなんら矛盾していない焼きものなのです。当時の浄瑠璃のセリフや公家の茶会記にも「乾山焼」が登場してくるほど人気の高い焼きもので、商売として成り立つ健全なものだったこともわかります。
スクリーンショット 2017-06-19 13.04.30「色絵春草図汁次(いろえはるくさずしるつぎ)」 乾山作 サントリー美術館蔵 残されている乾山の焼きものの中では小さい部類に入る。実用品だが、春の縁起良い模様を愛らしく描いている。乾山の焼きものにはこういう明るく楽しいものも少なくない。当時の器は漆製品が多かったので、そんな中にこんな愛らしいものがぽつりとあると華やいだにちがいない。レンタル窯時時代。

ただ、兄の光琳との合作では、かなり特殊なものをつくっています。社交的で洒落ものの光琳と、若くして隠居した内省的な乾山。性格的には対照的ですが、とても仲のいい兄弟で、かなりの合作を残しています。その多くが、実験的であったり、遊び心があったりで、商売を考えていない焼きものの自由さが伝わってきます。合作に限らず、ふたりはお互いに協力し合い、影響し合いながら、琳派の美を生み出していったのでしょう。WA4-104-009「銹絵鶴図角皿(さびえつるずかくざら)」 光琳画・乾山書 藤田美術館蔵 中国の詩画軸に倣った(ならった)この皿は、四角であること自体、当時としては非常に斬新で、まっすぐ薄くつくるためにかなりの工夫をしている。先に絵を描いた光琳は画面をたっぷり使い、後から詩を書いた乾山は窮屈そう。ふたりの性格が如実に表れている。鳴滝窯時代。

たとえば、光琳が燕子花(かきつばた)図屏風などで使った手法である型紙使いは、乾山の器にも見ることができます。型の生み出す連続性には、それまでの写実美にはない現代性がありますが、乾山もまた、このモダンさに惹かれ、焼きものに取り入れたのです。

乾山の焼きものの魅力を一言でいえば、その装飾性。これは琳派全体の特徴でもあるのですが、自然の中の風物をデザインで見ています。そして伝統を尊重しつつモダン。それでいて、見ていて明るい気持ちにもなるのです。これこそ、暮らしを豊かに彩るために必要な要素。琳派とは結局すべてそこに行き着く生活芸術なのだと気づかされます。