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2018.07.03

勝常寺 薬師三尊像・夕顔棚納涼図屏風〜ニッポンの国宝100 FILE 77,78〜

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

勝常寺 薬師三尊像

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、東北の平安初期仏「勝常寺 薬師三尊像」と、久隅守景の代表作「夕顔棚納涼図屏風」です。

みちのくの力強さ「勝常寺 薬師三尊像」

勝常寺 薬師三尊像

勝常寺は大同2年(807)、あるいは弘仁元年(810)に、南都(奈良)の僧・徳一が開いたと伝えられ、平安時代初期に徳一が東北地方に仏教を広めた際に、会津に創建した5カ所の薬師堂のひとつといわれます。

薬師三尊像は、いずれも1本の木から彫出する一木造です。中尊の薬師如来坐像は半丈六(釈迦如来の身長とされる丈六(一丈六尺=立像で約485㎝)の半分)という大きさを、1本の木から彫出しています。坐像の場合、組んだ足は別の木で彫り、両腕も肩から別材で胴体に接合するのが一般的ですが、本像は縦向きの材を用いて肩から肘までと両足を含む全体を彫出した大変珍しいものです。両膝の幅は約113㎝、膝前からの奥行きは約88㎝あり、非常に大きな御衣木(仏を彫る木材)を使用したことがわかります。材は欅を用い、像の内側を削り出す内刳りを施しています。天平時代から平安時代にかけての都周辺の像では彫刻用の材は榧が多いのですが、榧は関東が植生の北限のため東北の良材を使用したのでしょう。また、3像ともに手首から先を桂で造る点も、東北ならではの用材選択と思われます。

薬師三尊像には、乾漆も用いられています。漆に木屑を混ぜてペースト状にした木屎漆を使用し、薬師如来は上半身と両膝の中心に垂れる衣の襞に、脇侍は髪の生え際付近に乾漆が見られます。さらに全身に金箔を貼った漆箔仕上げとなっています。この点は、東北地方の平安時代彫刻に多い木肌のままの像と違い、都風の表現と考えられます。また、衣の端をヒラヒラと波打たせる表現も、同様のものが奈良時代後期に都で造られた乾漆像に見られます。地方の像らしい素朴な力強さとともに、都の仏像とも共通する点をもつ優れた造形です。徳一が会津の地に入った際、仏像を造るために都から仏師を同道したという説があるのも当然といえるでしょう。

勝常寺には、この薬師三尊像と同時期の作と、少しあとの作である像が残り、9軀が重要文化財に指定されています。いずれも最初から勝常寺にあったと考えられ、この地に仏教文化が栄えたことを証明する作例として、歴史的にも大変貴重です。

国宝プロフィール

勝常寺 薬師三尊像

木造 漆箔 9世紀初め 像高/薬師如来坐像:141.8cm 日光菩薩立像:169.4cm 月光菩薩立像:173.9cm 勝常寺 福島

1996年に指定された、彫刻分野では東北地方初の国宝。薬師如来は丈の高い頭髪をもち、豊かな頰をした丸顔で、量感にあふれる。両脇侍も同様に量感豊かな像である。3像とも木造で、一部に漆を盛り上げて造形し、漆の上に金箔を貼る漆箔仕上げとなっている。

勝常寺 福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764

謎の絵師・守景の傑作「夕顔棚納涼図屏風」

勝常寺 薬師三尊像

この絵の作者・久隅守景は江戸時代前期の絵師で、当時最大勢力であった画派・狩野派のなかでも、幕府の御用絵師・狩野探幽に師事、探幽門下の四天王筆頭といわれました。狩野派の有望な絵師として障壁画などを制作し、探幽の姪を妻にしましたが、のちに狩野派を離れます。守景と同じく狩野派に学んだ娘と息子の不行跡がその理由ともいわれます。

狩野派を離れたあとも、山水画や人物画、花鳥画など狩野派に学んだ画法を基盤にしながら、室町時代の画僧・雪舟を手本とした水墨表現や日本古来のやまと絵の技法を取り入れ、独自の画風を確立しました。その後、江戸を出て加賀藩(現在の石川県)前田家の招きによって金沢に滞在し、そこでも多くの作品を制作します。最晩年は京都で過ごしたといわれます。長命だったようで活動期間は50年を超え、守景の贋作を描く専門の絵師も現れるほど当時から人気があったようです。しかし、優れた作品を数多く残したにもかかわらず、出身地・生没年・住処もわからず、手紙、墓碑や過去帳なども残っていません。また、絵には「守景」と署名し印を押すのみで、制作年、年齢などを記した作品はほとんどなく、「謎の絵師」と呼ばれています。

「夕顔棚納涼図屛風」は、家族と思われる3人の何気ない夕涼みの光景を、一見簡略な筆遣いと淡い色彩で描いています。この絵の醸しだす雰囲気は、「国宝」という言葉から感じられる威厳や豪華な様子とは無縁に思えます。しかし墨の線ひとつ取ってみても驚くほど多彩に描き分けられ、空に浮かぶ朧月は日本の夏の湿潤な空気を表現し、背景を描かずに広く取られた余白は、3人の静かな団欒の様子と、涼しい夕方の空気を感じさせます。

寛政2年(1790)、守景の死後90年ほどたったころに書かれた「近世畸人伝」という書物には「家貧なれども、其志高く、容易人の需に應ずることなし(貧しいが志が高く、あまり容易には人の求めで絵を描かなかった)」と、守景の高潔な人柄と気難しい一面が見られます。「夕顔棚納涼図屛風」は、そんな守景の代表作で、まさに国宝にふさわしい傑作です。

国宝プロフィール

久隅守景 夕顔棚納涼図屛風

紙本墨画淡彩 17世紀 二曲一隻 149.7×166.2cm 東京国立博物館

正式名称は「納涼図屛風」。晩夏から初秋の夕暮れ、夕顔の実がなる棚の下に、男女と子どもが涼んでいる。柔らかい墨にわずかな色数を淡く点し、繊細な色彩感覚を見せる。

東京国立博物館