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2018.09.11

国宝データベース、中宮寺 菩薩半跏像・崇福寺

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

国宝データベース、中宮寺 菩薩半跏像・崇福寺

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、微笑みの飛鳥仏「中宮寺 菩薩半跏像」と、長崎のチャイナなお寺「崇福寺」です。

微笑みの飛鳥仏「中宮寺 菩薩半跏像」

国宝データベース、中宮寺 菩薩半跏像・崇福寺

奈良・中宮寺の本尊「菩薩半跏像」は、7世紀の代表的な半跏思惟像です。榻座という筒状椅子形の台座に、踏み下げた左脚の腿に右足を載せる半跏で座り、指先を頰に当てて思惟(思索)する姿をとります。

中宮寺は、7世紀の創建とされる尼寺で、聖徳太子(厩戸皇子)ゆかりの寺と伝わります。本像は、寺伝では如意輪観世音菩薩とされています。しかし、同時代の類例の仏像が弥勒菩薩とされることから、元来は弥勒菩薩像であったと考えられています。弥勒菩薩は、仏教の天界のひとつ「兜率天」に住み、釈迦の没後、56億7000万年後に思索から覚めて人々を救済するとされる仏。日本では仏教伝来まもない6世紀後半に、朝鮮半島から弥勒像が伝来しました。半跏思惟形の弥勒菩薩像は、朝鮮半島の弥勒信仰の隆盛を受け、7世紀の日本でも製作されるようになったと考えられます。

平安時代になると、聖徳太子を衆生救済のために現れた仏と考える太子信仰が成立。太子の化身として、救世観音や如意輪観音が信仰されました。太子創建と伝わる大阪・四天王寺の本尊は、半跏思惟形をとる「救世観音像」ですが、当初の像は弥勒菩薩として造立され、如意輪観音と呼ばれた記録もあります。このように、太子ゆかりの寺院にある半跏思惟像は、元来は弥勒菩薩として造像されたものが、のちに救世観音、もしくは如意輪観音と呼ばれるようになった例があります。

本像は、ほかの半跏思惟像のような前傾姿勢ではなく、背筋をほぼまっすぐに伸ばした姿勢をとります。現在は全身が漆地の黒色を見せていますが、もとは彩色された華やかな像でした。調和のとれた体形となめらかな体のラインをもち、直線的な飛鳥時代前期の様式とは一線を画しています。

本像の頭体部は、木材を複雑に組み合わせた特異な寄木技法で造られており、表現や技法において、飛鳥仏と白鳳仏を結ぶ貴重な作例とされます。自然な人体表現や口元に表れた静かな微笑みは、写実性をもちながらも高度に洗練された理想的な美を達成していて、尼寺にふさわしい女性的な美しい仏像です。

国宝プロフィール

中宮寺 菩薩半跏像

7世紀後半 木造 彩色 像高167.6cm 中宮寺 奈良 「中宮寺 菩薩半跏像」の写真はすべて飛鳥園

寺伝では如意輪観世音菩薩とされているが、本来は弥勒菩薩であったといわれる。樟材を複雑に矧ぎ合わせた特異な寄木技法が用いられている。飛鳥時代から白鳳時代へと推移する様式が見られ、調和のとれた優美さが際立つ傑作。

中宮寺

エキゾチックな黄檗寺院「崇福寺」

国宝データベース、中宮寺 菩薩半跏像・崇福寺

崇福寺は、中国・明代の福州(福建省)から渡来して長崎に定住した中国人が建てた寺です。寛永6年(1629)に福州の僧・超然を招いて開山、寛永12年に建造が開始されました。

江戸時代初期、日本は鎖国政策を進めていましたが、長崎ではオランダ、中国との貿易が許されていました。日本で唯一、外国船の入港が許された長崎には、最新の外国文化や情報が伝えられます。長崎に定住した中国人は、航海の女神・媽祖や祖先を祀るために、出身地ごとに寺を建立しました。このように江戸時代初期の長崎で、中国人が自分たちのコミュニティのために建てた寺を「唐寺」といいます。そのひとつが崇福寺で、元和6年(1620)創建の興福寺、寛永5年(1628)創建の福済寺とあわせて「長崎三福寺」とも呼ばれます。

鎖国下の江戸時代、長崎在住の中国人には、幕府の厳しい監視の目が注がれました。中国人による寺院建立には、出身地ごとに寺を建てて菩提寺とすることで、キリシタン(キリスト教徒)弾圧の進む日本で仏教徒としての身元を証明する目的もあったといわれます。

承応3年(1654)、中国・福州から来日した高僧・隠元隆琦が長崎・興福寺に入り、翌年、崇福寺に入山して禅宗の一派である黄檗派の寺としました。明暦3年(1657)には、隠元の弟子・即非如一が崇福寺に入り伽藍を拡大、寺を隆盛に導きました。黄檗派は臨済宗の一派で、本山は隠元が京都の宇治に創建した萬福寺。長崎三福寺は、日本最古の黄檗禅の寺院としても貴重な歴史を刻んでいます。

崇福寺の最大の魅力は、江戸時代に建立された異国情緒漂う中国様式の伽藍建築にあります。第一峰門と大雄宝殿の2つの建物が国宝に指定されており、三門・護法堂・鐘鼓楼・媽祖門の4つの建築は重要文化財です。大雄宝殿の下層部にある黄檗天井と呼ばれるアーチ型の構造は、中国の明末清初の建築様式をよく伝えています。また、第一峰門の軒下には、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑な組物があり、日本では類例のない緻密で華麗な建築装飾が圧巻の美を見せています。

国宝プロフィール

崇福寺

崇福寺は、江戸時代初期に中国人が長崎に建てた「唐寺」のひとつ。中国・明代の福建省出身者によって、寛永12年(1635)から伽藍が建立された。明暦元年(1655)には、黄檗開山の隠元隆琦が一時、入寺している。境内には江戸時代に建造された中国風の建築物が建ち並び、第一峰門と大雄宝殿の2棟が国宝に指定されている。

崇福寺:長崎市鍛冶屋町7-5