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2019.09.19

京都の日本庭園を代表する「坪庭(つぼにわ)」。見方や歩き方を徹底ガイド

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江戸時代の生活文化の粋を集めた庭、角屋もてなしの文化美術館

安土桃山時代につくられた京都の住居は、間口が狭く奥行きが広い、鰻(うなぎ)の寝床。町家というとわかりやすいでしょうか。町家は、同じ形状の建物が隣家と近接していたため、採光や風通しに弱点がありました。それを解決したのが、住居の中間に日本庭園をつくること。これが坪庭(つぼにわ)の発祥です。
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坪庭は機能面だけではなく、室内から自然の景観が楽しめることでも人気を集めます。そして、露地の趣がある石灯籠(いしどうろう)や手水鉢(ちょうずばち)が配されるようになり、独自の小宇宙を形成するようになったのです。坪庭は江戸時代になると全国へ広がり、現在も寺院や旅館、住居などで幅広くつくられるようになりますが、見事な坪庭はやはり京都に集まっています。中でも注目すべき坪庭を受け継いでいるのが、「角屋(すみや)もてなしの文化美術館」。
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江戸時代から栄えた花街・島原に位置する揚屋(あげや)「角屋」をそのままの形で保存・公開している文化施設です。揚屋とは、饗宴(きょうえん)のためにつくられた施設で、現在でいうと料亭にあたります。そこでは、置屋(おきや)から派遣された太夫(たゆう)や芸妓(げいこ)が歌舞音曲(かぶおんぎょく)を披露して賓客(ひんきゃく)をもてなす宴席が開かれていました。また、和歌や俳句などの文芸に親しむ文化サロンとしても発展し、文人画家・与謝蕪村(よさぶそん)は「角屋」でたびたび句会を主催。文人の頼山陽(らいさんよう)が母親孝行のために宴席を開いた記録も残っています。さらに幕末には、勤皇派(きんんのうは)の久坂玄瑞(くさかげんずい)や西郷隆盛(さいごうたかもり)、坂本龍馬が会合に使用。「角屋」は江戸から幕末の京都の歴史をつぶさに見てきた生き証人でもあります。多くの賓客を楽しませてきた「角屋」は、日本に唯一現存する揚屋建築の遺構です。大座敷に面した広庭には必ずお茶席が設けられ、大きな台所を備えているのが揚屋建築の特徴。坪庭(東坪庭)も町家にくらべると大きく設えられています。明治時代になって、江戸初期につくられた当時の姿に復元された坪庭は、小さな空間にしゃれた意匠を満載。もてなしの心を反映した日本庭園を見て、多くの粋人が心なごませたことは、想像に難くありません。
-2014年和樂11月号より-

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-イラスト(坪庭見取り図)/なかだえり-

美の小宇宙を構成する多彩な意匠に注目!

名庭の見方と見どころガイド

「角屋もてなしの文化美術館」は建物自体が重要文化財。江戸時代の揚屋の雰囲気を今に伝える玄関を入ると、坪庭の明るさに迎えられ、実際に目にすると、思いのほか大きく感じられる。これは、視線をさえぎる柱を減らし、縁側を広くとっていることによるもの。石灯籠や蹲踞などの景物と緑がおりなす景観をじっくり眺めると、小さいながらも贅が尽くされていることがよくわかる。

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名庭DATA

角屋もてなしの文化美術館 
(すみやもてなしのぶんかびじゅつかん)

1641(寛永18)年、現在地移転
作者不明
【住所】京都府京都市下京区西新屋敷揚屋町32  【ホームページ】http://sumiyaho.sakura.ne.jp

-撮影/篠原宏明-