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2017.07.11

夏の京都といえば鮎と鱧。それぞれどんな味?どんな歴史を辿ってきたの?

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京都・鮎・鱧 その歴史はいかに

dma-70-71-元画イラストは加藤静允さん。京都在住の小児科医で、自然体の陶芸や書画が人気。釣り歴は60年以上になり、今はもっぱら鮎釣りを。

京都は川魚、江戸は海の魚

京都には、室町時代から寺社の門前に料理を食べさせる茶屋がありました。茶屋といっても、次第に食事や酒をサービスするようになり、桃山時代後期(16世紀)には、東山には宴会ができるような料理屋があったことがわかっています。

江戸時代中期(18世紀)になると、洛中には続々と料理屋ができました。中でも「生簀料理屋」が人気で、高瀬川の近くには何軒もの店がありました。そこでは生簀に鰻や鯉、鮒などを入れておき、生きた魚を料理しました。

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そのころの京都の料理屋で、魚といえば川魚。海から魚を運ぶには、内陸の都・京都は遠かったのです。たとえば、鯖街道の起点である小浜から京都・出町柳まで、十八里(約70㎞)ほどあります。鯖やぐじ(アカアマダイ)など、海の魚に塩をして、担って歩き始めると、京都でちょうどよい塩梅になる距離でした。運ぶ人は、寝ないで歩きづめに歩いたといいます。

同じく江戸中期の文人・大田南畝(おおたなんぽ)が著書に引用した狂歌に、京都の名物を歌った「水、水菜、女、染物、みすや針、御寺、豆腐に、鰻鱧、松茸」があります。江戸の名物、「鮭、鰹、大名屋敷、鰯、比丘尼、紫、冬葱、大根」に比べると、川魚をもっぱら料理する京都と新鮮な海の魚が使える江戸の違いがくっきり。その好みの違いは今も受け継がれています。鱧の字も見えるので、骨の多い鱧を料理する技術がすでにあったことが推測されます。

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朝廷への献上品だった高貴な魚、鮎

海から遠い京都で、魚を食べようと思えば、近くの川の魚か生命力の強い海の魚、ということになります。流通事情のいい現代では考えられない輸送の苦労が、そこにはありました。

鮎は1年しか生きないことから年魚とも、香りがよいので香魚とも書きます。神功皇后(じんぐうこうごう)が釣りをして戦勝を占ったときにあがったので、鮎という字になったという話も「古事記」「日本書紀」にあり、古くから食べられてきた魚です。朝廷への献上品でもありました。現在、日本の淡水魚でいちばん食べられているのは鮎で、全漁獲量の4分の1にのぼります。鮎は中国にも韓国にもいますが、これほど珍重する国はないようです。胡瓜や西瓜を思わせる香りも、清冽な味も、短い一生も、日本人好みなのでしょう。

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鮎は秋の彼岸のころ下流へ下り、河口近くの浅瀬に産卵して死んでしまいます。稚魚は海へ下って冬を越します。春になると川を遡ってきます。菜種鮎、桜鮎と呼ばれる稚鮎のときには動物性のえさを食べるので、生臭みがあり、魚田(味噌を塗って田楽仕立てにすること)にする人も。葉桜から菖蒲のころになると苔しか食べなくなり、鮎らしい香りと味になります。7月には顔が小さく見えるほどに成長します。

京都では保津川や桂川など、鮎で知られる川が多いのですが、琵琶湖にいる鮎には特徴があります。7、8㎝にしかならず、皮も薄くて、苦みもほどほど。琵琶湖を海の代わりとして、竹生島のあたりで越冬します。まだ小さいお正月ごろに獲って、氷魚と称しました。白い体の色からの名前です。塩ゆでにしたものを、昔は錦市場あたりでよく売っていたそうです。

_DSC3516焼き台で盛大に鮎を焼く「草口食なかひがし」

書家・陶芸家で食に詳しかった北大路魯山人は、大正末期に京都・和知川から鮎を運び、東京の星岡茶寮(ほしがおかさりょう)で出して評判になりました。貨物列車に人間も乗せて、木桶に入れた鮎に柄杓で水をかけ続けさせ、生きたまま運んだのが画期的でした。京都では鮎が桂川から鮎桶で運ばれてきて、「ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながら担いでくるのである」と魯山人が書いています。この運び方が今のエアーポンプの働きをして、鮎を活かしていたのでしょう。魯山人は鮎の活かし方を知っていました。

生命力の高い鱧は京都で手に入る貴重な海の魚

鱧の名前の謂れは、はむ(食う、嚙む)からとも、はみ(蝮)に似ているからとも。大きいものは2m以上になります。生命力が強く、流通が発達する前は、大阪や明石、淡路から京都まで生きて届いた貴重な海の魚でした。祇園祭や大阪の天神祭にはかかせない食材で、祇園祭は別名鱧祭りともいいます。

「梅雨の水を飲んで太る」といわれて、入梅から祇園祭の7月が旬です。また、8月の産卵後9月下旬から11月末までも、黄金鱧といって脂がのる第二の旬です。

_DSC3357鱧の新しいメニューを繰り出してくる「祇園大渡」

鱧は縄文時代から食べられていました。各地の貝塚から鱧の骨が出てくるのです。平安時代には干物にして朝廷に献上されていました。江戸中期の寛政7(1795)年に出た「海鰻百珍(はむひゃくちん)」には、100種類以上もの鱧の料理法が載っていて、骨切りにも言及しています。天保11(1840)年の「包丁里山海見立角力」という食材の番付では、鱧が東方(魚)の関脇で、人気のほどがわかります。最高位の大関が鯛、西方(野菜)の大関は椎茸、勧進元は鰹だし、差添人はだし昆布です。この時代、相撲に横綱はありませんから、鱧は魚の第2位。人気がしのばれます。明治時代以降、きものの問屋が多く集まる室町通あたりでは、祇園祭に来る客を鱧寿司などでもてなしたため、鱧の知名度が上がりました。

_DSC3056「祇園にしむら」は、鱧切りでなく柳刃で骨切りをする。

ぎょっとする外見に似ず、鱧の身は白くて美しく、脂もほどよくて、だしは濃厚。鯛と並んで、京都の人が好きな食材です。味もよいのですが、なにしろ精の強い魚なので、それを食べることで夏をつつがなくやり過ごしたいという期待も込められていたに違いありません。

鱧も鮎も時期によって味の違いがはっきりわかる魚です。食べて京都の季節を感じる魚、それが鱧と鮎なのです。

スクリーンショット 2017-07-03 15.28.33左/まるで清流を泳いでいるような焼き鮎の姿は、「光安」。右/「阪川」の鱧しゃぶ。ほんの少し火が入ったところが美味。

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