こんにちは。いくつかのシリーズで私を認識している読者の方は、なんとなく「承久の乱の朝廷方推しなのかな?」と感じている人もいるでしょう。そうです。めちゃくちゃ朝廷方推しです。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時が主役なので、朝廷関係者はどれほど出るのかは不明ですが……。承久の乱を描くには外せない貴族が4人います。それが、乱の首謀者として処刑された、葉室宗行(はむろ むねゆき)、葉室光親(はむろ みつちか)、高倉範茂(たかくら のりもち)、源有雅(みなもと ありまさ)です。
彼らは承久の乱の後、源有雅は東山道(とうざんどう=近世の中山道)、他3人は東海道を通って鎌倉に護送されますが、その途中で処刑されてしまいました。
そこで今回は東海道で鎌倉に向かった3人の貴族を追ってみました!
葉室宗行の半生
葉室宗行さんは承安4(1174)年生まれ。後鳥羽上皇の側近で権中納言(ごんの ちゅうなごん)の官職を持っていました。宗行さんのお父さんは平清盛の政権下で出世した人物でした。しかし平家が鎌倉幕府によって倒された後、それ以上の昇進ができないまま亡くなりました。宗行さんが満10歳の頃です。
その後、宗行さん自身は葉室家に養子に出されました。葉室家は平家滅亡後にようやく日の目を見る事ができた家です。後鳥羽上皇の政権下の朝廷で能力を見込まれて急激に家格が上がります。宗行もその恩恵に預かった人物でした。
そんなわけで、後鳥羽上皇にめちゃくちゃ御恩がある家柄でしたので、後鳥羽上皇には逆らえませんし、同じく下っ端からのし上がった北条家の台頭は脅威に感じていたことでしょう。
乱の後の処分
乱の後、宗行さんは下野国(現・栃木県)の武士、小山朝長(おやま ともなが)に連れられて東海道を鎌倉に向かいます。東海道の難所の一つに「小夜(さよ)の中山」と呼ばれる峠があり、その東の麓に菊川宿(きくかわじゅく)がありました。
菊川宿は、東海道の宿場町には入っていませんが、24番の金谷宿(かなやしゅく)と25番の日坂宿(にっさかしゅく)の間に位置し、「難所の前(後)の間の宿」として鎌倉時代から栄えていました。源頼朝も鎌倉幕府成立後、鎌倉御家人を引き連れて京都へ行くときに、ここで宿を取った事が『吾妻鏡』にも書かれています。
宗行さんたちも次の金谷宿(かなやじゅく)に行くにはまた峠を越えなければならないので、今日はここに泊ろうと休憩していると、鎌倉からの使いがやってきて「葉室宗行の首を斬れ」という命令が伝えられました。
宗行さんはその知らせを聞くと、宿として借りていた家の柱に得意の漢文を書きつけました。
昔南陽県菊水
汲下流而延齢
今東海道菊河
宿西岸而失命昔、中国の南陽には菊水というものがあった。
その下流の水を汲めば、寿命が延びるという。現在、我が国の東海道には菊川という場所がある。
その西岸に泊まって命を失うことになろうとは……。
そして宗行さんは数日間宿に滞在し、ここで首を斬られて葬られました。
葉室宗行の墓へ行ってみた
というわけで、葉室宗行さんのお墓参りに行ってきました! 最寄り駅は、JR金谷駅。駅からコミュニティバスに乗って「菊川の里会館バス停」で下車します。
さっそくバス停の目の前に、石碑がありました!
1.中納言宗行卿漢詩碑
鎌倉時代の民家なので、さすがにもう実物は残っていませんがこうして模したものを残してもらえるのも貴重ですね!
2.菊川にかかる橋
そしてバス停から200mほど進み、菊川にかかる橋を渡ります。
宗行さんも最期に見た景色でしょうか……。
3.法音寺
橋を渡ってまっすぐ行くと、「法音寺(ほうおんじ)」と「中納言宗行卿の墓」の案内板がありました。
4.中納言宗行卿の塚
案内板に沿って法音寺の脇道を進み、バイパスのガード下をくぐって墓地を通り過ぎます。途中グーグルマップにも表示されない道を行きますが、所々に案内板があるので迷わず行けました。ただ、街灯は全くないので、日が昇っている間に行くのがベストです。
金谷駅まで歩いてみた
一応コミュニティバスはあるとはいえ、本数は多くありません。というわけで帰りは歩いて行く事にしました!
5.旧東海道 菊川坂
塚から引き返して、大通りまで戻ります。先に進むと……石畳の坂道がありました。
実はこの石畳、江戸時代に敷かれた石畳です! ここはいわゆる「旧東海道」と呼ばれる道で、平成12(2000)年の発掘調査で存在が確認されました。江戸時代の石畳が発掘されたのは箱根についで2例目で、徳川家康が定めた「五街道」の中でも数少ない、現存する貴重な石畳です。
この石畳を通って行く事もできますが、私はちょっと上り坂が苦手なので、今回は歩きやすそうな道路を通って行きました。
なだらかな坂を登り、振り返ると菊川の里……。
6.万古不易
万古不易(ばんこ ふえき)。遠い遠い昔から少しも変わらない、という四字熟語です。
この石碑が見えたら、坂の頂上。道路を渡って、戦国時代の甲斐武田氏が築城した諏訪原城(すわはらじょう)を通り過ぎると、また石畳が見えてきます。
7.旧東海道金谷坂
江戸時代後期。東海道の石畳は金谷宿~日坂宿まであったと言われています。時代の移り変わりによって金谷坂の石畳は30mほどを残してコンクリートに覆われていましたが、平成3(1991)年、町民約600名が参加した「平成の道普請」によって430mが復元されました。
この石畳が敷かれたのは江戸時代なので、鎌倉時代は普通に山道だったんでしょう。でもこうして凸凹の道に足を踏み出すと、この道を行く旅人たちが安全であるようにという祈りを感じますね!!
8.金谷駅
石畳を下って再び道路に出ると、すぐそこが金谷駅です!
ドーンと見える富士山! ……でもこの風景、宗行さんは見られなかったんですよね。
京都の公家は、実は富士山を見たことがない人も少なくありません。歌に詠まれている富士とはどんな山だろうと想いを馳せ、実際に目の当たりにすると「あれが富士か!」とはしゃぎ、また歌を残すという状況でした。
だから宗行さんもきっとこの富士山が見たかったと思うんですよね……としみじみとしました。
葉室光親の墓へ行ってみた
金谷駅から三島駅で乗り換えて……次に辿り着いたのは、富士山のお膝元静岡県御殿場市!
富士山の裾野といえば、源平合戦でも鎌倉時代にもゆかりが深い歴史スポットですが、ここに眠っているのは後鳥羽院の近臣の葉室光親(はむろ みつちか)さん。先ほどの宗行さんと同じ名字ですが、血縁関係はありません。光親さんのお父さんと、宗行さんの養父が兄弟という関係です。
葉室光親の半生
光親さんは、承久の乱の時に義時追討の院宣を書いた人です。そのため、幕府から乱の首謀者であると見做されていました。しかし実際は、後鳥羽院の暴走を止めて、乱を回避しようと奔走していたのです。それに気づいた時は、すでに光親さんの処刑が終わった後でした。
そんな光親さんが処刑された場所と言われているのが駿河国と甲斐国の境である篭坂(かごさか)峠です。
位置関係を簡単に図にしてみましたが、光親さんは東海道を通って鎌倉に向かっていたはずです。けれど、光親さんが処刑されたとされる篭坂峠は、東海道から随分離れています。
実は、光親さんを護送していたのは、甲斐国(現・山梨県)の武士である武田信光(たけだ のぶみつ)さんです。武田さんは光親さんの護送中、その人柄に触れて、どうにか助命できないかと考え、一旦自分の領地である甲斐国で預かろうとしました。しかし、甲斐国に入る前に「処刑せよ」という命令が下ってしまいました。
なんかもう、登場する人全員、無念でしたでしょうね……。
葉室光親の墓への道
さてそんな光親さんのお墓へは、御殿場駅からバスに乗って行きます!
1.篭坂峠バス停/加古坂神社
まずはサクッとバスで篭坂峠バス停まで行きます。
バス停を降りたらすぐそこに、光親さんを祀る加古坂(かごさか)神社がありました。
光親さんは篭坂峠の山頂で斬首され、祠を建てて供養されました。しかし年月が経つにつれて荒廃していきますが、明治時代に再興しました。現在の社は昭和58(1983)年に建てられたものです。光親さんの命日である毎年7月20日に祭りも行われています。
道路脇の参道を通って……。
神社へお参り! 人は(場所や季節もあるけれど)少ないですが、開けていて明るく、思ったよりも寂しくはなさそうです。きっと今も周辺の人から愛されているんですね!
2.藤原光親卿の墓
さて、参拝をしたら静岡方面へ坂を下って行きます。一本道なので迷いようはありませんが、車には気を付けましょう!
しばらく行くと、光親さんのお墓があります。
看板横の階段を登って……。
上の段へ。
お墓じたいはこの先にあるとは思うんですけど、わりと急勾配で……。私のこの日の靴がただのスニーカーな上に素手。12月末だったので上では雪が残ってそう。進むのは断念し、ここから遥拝としました。
地図を見ると、この道の先は富士山なのですね……。
3.駒止松バス停
さて、帰りはまたバスに乗ります! 近いのは先ほど降りた篭坂峠バス亭ですが、上り坂だし、せっかくだから下って「駒止松(こまどめのまつ)バス停」まで行きました!
途中のヘアピンカーブではちょっとした公園があり、ちょっと休憩もできます……が、バスの時間を考えて行きましょう。
本当にバス停あるのかな? とうかな? と不安になる頃にポツンとバス停があったーーーーーーー!!
というわけで、御殿場まで戻ります。さらばい、光親さん!!
番外編:藍澤五卿神社
御殿場駅の近くに、もう一つ承久の乱スポットがあります。それが「藍澤五卿(あいざわ ごきょう)神社」です。
神社の由緒書きによると、この辺りは昔、藍澤ヶ原(あいざわがはら)と呼ばれ、承久の乱のあと葉室宗行さんがここで処刑されたことになっています。菊川ではないの? とおもうでしょうが、わりと地方史あるあるなのでツッコミはそこそこに。
このあたりでは宗行さんは「お公家さん」と呼ばれて奉られ、藍澤神社が建立しました。そして宗行さんの他にも、承久の乱の首謀者として処刑された葉室光親さん、藤原範茂(ふじわらの のりもち)さん、山梨県で斬られた源有雅(みなもとの ありまさ)さん、岐阜県で斬られた一条信能(いちじょう のぶよし)さんが祀られています。
承久の乱の宮方の公卿が一斉に集う神社は、多分ここだけです!!
藤原範茂の墓に行ってきた
さて、最後の1人は、藤原範茂(ふじわらの のりもち)さん! 後鳥羽上皇のお気に入りの后の弟で、自身も後鳥羽上皇のお気に入りでした。後鳥羽上皇と姉の間に、順徳天皇が産まれています。まさしく、側近中の側近!!
藤原範茂の最期
承久の乱の後は捕らえられて、斬首が即決定します。しかし京都内での斬首を避けるために、北条義時の次男・朝時(ともとき)に連れられて東海道を鎌倉に下っていました。
そしてその途中の相模国に入ったところで、斬首の命令が下りました。範茂さんは「刃物で斬られた者は極楽浄土へ行けないという。だったら川に沈めてくれ」と言って、斬首ではなく川に沈められて処刑されました。
1.藤原範茂卿の墓
範茂さんのお墓は、「JR松田駅」からバスに乗り、「足柄高校前(あしがらこうこうまえ)バス停」からすぐ近く。交差点を渡って坂を登った先にある「範茂史跡公園」の中にあります。
丘の上の公園は景色もよく、小さな子供たちが遊んでいる憩いの場でした。
そんな公園に聳え立つ石碑が範茂さんのお墓は、まるで地域の人々を優しく見守っているようでした。範茂さんもここなら寂しくなさそうです。
なんだか温かい気持ちになりつつ、公園を後にしました。
2.清川(貝沢川)
範茂さんが沈められたのは「清川」という川で、現在の「貝沢川(かいさわかわ)」のことだろうといわれています。
貝沢川は、範茂史跡公園と大雄山駅の途中に流れる小さな川です。
ちなみに、範茂さんが生きたがっていた「極楽浄土」って西の果てにあると言われているんですが……この川、東に向かって流れているんですよね。太平洋に出たら出たで、海流はさらに東に向かって流れているんですよ。はたして範茂さんの魂は無事に極楽浄土に辿り着いたのか、祈らずにはいられません。
3.関本宿
大雄山駅付近にある関本(せきもと)という地名は、かつて関本宿と呼ばれる宿場町で、『吾妻鏡』にも登場します。範茂さんも、ここで泊まっていたそうです。
というわけで、無事ゴーーーーール! です!
3公卿のお墓参りで感じた事
800年前に亡くなった3人の公卿。そのお墓参りをしてみると、それぞれの地域で親しまれていたように感じました。現に、葉室光親は当時から人柄の良い人物だったと書かれています。他の人も処刑が決まったときに泣いたり喚いたりもせず、それを受け入れています。
「承久の乱の首謀者」と言われるとプライドの塊で悪人のようなイメージになってしまいますが、政治から離れた彼らは、もしかしたら穏やかで親しみやすい人柄だったのかもしれませんね。