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2019.09.04

かわいい日本建築を探して西へ! 大阪、京都で民藝をめぐる旅

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西日本で民藝旅といえば、倉敷や鳥取のイメージがありますが、実は京阪にも民藝を愛した人がいたのです。バーナード・リーチ創案のバーや、民芸創始メンバーの自邸など…民藝のこころを宿したその建築のもつ温かさ、愛らしさは、ひと言で表すならやっぱり「かわいい!」。かわいい民藝建築の視点で巡れば、大阪や京都もいつもと違う街に見えてきます。

バーナード・リーチ創案のバーを訪ねて「大阪」へ

堂島川と土佐堀川の間に位置する「中之島」。大阪が世界第6位の都市として隆盛を誇った「大大阪(だいおおさか)」時代を語る建造物が集結しているのがこのエリアです。大正後期から昭和初期の大阪の街づくりはパリがお手本だそうで、中之島もパリのシテ島に見えなくもない⁉ 両岸の景色をうっとり眺めながら、最初の目的地へ移動します。

民藝建築

「リーチバー」は「大阪ロイヤルホテル」(現リーガロイヤルホテル)の開業と同じ昭和40(1965)年にオープン。前身のホテルは昭和10(1935)年の創業になり、新ホテル開業に際して当時の社長・山本為三郎(ためさぶろう)は「日本の大阪から世界の大阪へ」を掲げ、目玉のひとつに“民藝の部屋”があったとか。山本は民藝運動のパトロンであり、東京の日本民藝館をはじめ、それ以前から民藝の思想が空間に仕立てられたものを見てきた人物です。

民藝建築壁にはリーチ作の陶板「コーンウォール海岸」。調度品にはリーチと交友のあった民藝作家のものが選ばれた

建築物の強さや美しさを実感したからこそ、リーチの希望をそのままに叶えたのでしょう。この構想が練られたときがリーチ70代はじめ、ふたりを取りまとめた柳宗悦(やなぎむねよし)の亡くなる前年にあたります。このバーには人を包み込む温もりがある。柳宗悦への鎮魂の思いを込めてこの空間ができあがったと考えれば、さらに愛おしく見えてくるのです。

民藝建築カウンター奥の上壁には濱田庄司とリーチ作の陶製ジョッキが並ぶ。椅子は秋田木工作

◆リーチバー
公式サイト

河井寬次郎の終の棲家を体感しに「京都」へ

リーチバーが“よそいき”の民藝建築だとしたら、次は普段着を堪能したい。となれば、目ざすは京都の河井寛次郎邸(現記念館)。柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司と、「民藝」創始メンバーの自邸の中でも“かわいげ”はダントツです。自らが設計し、大工である兄の力を借り、一から空間をつくり上げました。

民藝建築

案内役は学芸員の鷺珠江(さぎたまえ)さん。河井寛次郎の孫であり、ここに3世代で暮らしていたとか。「この家は雨戸がないので、朝から明るいんですよ(笑)」南向きの中庭に面した広間に座ると、まぶしい! 広間の真上には、河井寛次郎の書斎がありました。

民藝建築1階広間の吹き抜けは故郷島根の安来や松江の町家のつくりにならったそう。左に見える神棚は水屋簞笥も兼ねた河井寛次郎のオリジナル

明るさを好んだ河井寛次郎。それは心のもちようにも通じていたのかも?「家の中にあるものは美しく、そこは厳しい目をもった人でした。その美意識は窮屈なものではなく、周りにも押し付けることはなかった」と鷺さん。

河井寛次郎は晩年、この家を「民族造形研蒐点(みんぞくぞうけいけんしゅうてん)」と呼んでいたとか。自作の品や調度品、国内外から集めた民具など、たくさんの宝物に囲まれた家ですが、どれも作者の手の跡が残るもの。愛嬌があってずっとそばに置きたいもの。無銘性にこだわった寛次郎と同じく、素朴で温かみのある空間にぴったりと調和していました。

民藝建築左/2階に上がる箱階段は、終生の友であった濱田庄司からのプレゼント。右/2階の書斎

◆河井寛次郎記念館
公式サイト