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読み物
Culture
2020.08.07

ニンジャの品格?人気を二分する伊賀忍者と甲賀忍者は意外と仲良しだった!

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アニメ『忍者ハットリくん』を見て、忍者に伊賀(いが)と甲賀(こうか)があることを知った人も多いのではないだろうか。主人公のハットリくんは伊賀忍者、そしてライバルのケムマキは甲賀忍者だった。
伊賀忍者の子孫といわれる藤林保武(ふじばやしやすたけ)という人物が、延宝4(1676)年に著した『万川集海(まんせんしゅうかい/ばんせんしゅうかい)』という書物があるのはご存知だろうか。伊賀・甲賀11人の忍者の秘儀や武器、秘密の道具などがあますところなく記されており、まさに伊賀・甲賀の忍者大百科だ。
でも祖先である伊賀の術のみならず、ライバルの甲賀のことまで記されているのはなぜなんだろう? 
実は、伊賀と甲賀の対立構図は後世の創作という見方が有力。ハットリくんとケムマキは、切磋琢磨しながらも敵対していなかったらしいのだ。
では一体だれが両者を仲違いさせたのだろう? そのきっかけは戦国時代にあるとの話だが……。

伊賀忍者はビジネスライクなプロ集団

まず、伊賀忍者と甲賀忍者の違いについて見てみよう。
伊賀忍者の「伊賀」は、伊賀国(現在の三重県伊賀市と名張市あたり)からきている。この伊賀の地を拠点としていたのが、伊賀流忍者である。
伊賀は土壌が粘土質で、古くから干魃などによる田畑の被害が頻繁にあり、農耕で生活できない分を傭兵で賄っていた。諸説あるが、これが伊賀忍者の起こりとみられている。

戦国時代になると、上忍三家とよばれる服部家、百地家、藤林家の発言力が強まり、ほかの忍者らはこの上忍三家の指示に従うことが多かったという。また、もともと家業の補填から始まった伊賀忍者は、基本的にミッションごとに契約を結ぶスタイルをとっていたようで、複数の大名や有力者の要請に同時に応えるケースもあったと考えられる。極論、敵対する勢力の双方に、仲間の忍者がいたなんてこともあったのではないだろうか。
何だかドライな雰囲気の伊賀忍者だが、歴史に名を刻む集団だったことを考えると依頼主からの信頼は高かったのだろう。仲間同士で敵味方に分かれても、仕事はキチンとこなしていたに違いない。

甲賀忍者は士族の流れを組む民主的集団

一方、甲賀忍者は近江国甲賀(現在の滋賀県甲賀市と湖南市あたり)を拠点としていた。
甲賀忍者も農業や行商のかたわらで忍者をしていたが、伊賀忍者と違うのはその起源である。
甲賀忍者は平安時代、豪族の大伴氏(おおともし)がこの地の郷長となり、その末裔から派生したと考えられている。しかし、資料が乏しく、2000年に『渡辺家文書』が発見されるまではその存在を疑問視する声も根強くあった。

甲賀忍者は「惣」とよばれる自治組織が確立されていて、物事の決定・運営は多数決でおこなっていたと考えられている。さらに甲賀忍者は毒薬を用いた「手妻(てづま)」という奇術が得意だったといわれている。甲賀に今も製薬会社が多いのはこの名残りとの説もあり、近隣地域との交流が多かった土地柄が想像できる。

時には共闘、時には敵対、どこまでもブレない伊賀忍者と甲賀忍者

長享元(1487)年〜延徳3(1491)年「長享・延徳の乱(ちょうきょう・えんとくのらん)」が起こる。これは応仁元(1467)年から10年ほど続いた「応仁の乱」のひとつで、簡単に言えば、室町幕府の将軍・足利義尚(あしかがよしひさ)と近江国で力を増大させていた六角高頼(ろっかくたかより)の戦いである。このとき高頼の配下だった甲賀武士、つまり甲賀忍者も大いに活躍したのだが、驚くべきは伊賀忍者が高頼のもとで甲賀忍者と共闘していた点。忍者は要請に応えるのが基本方針。伊賀と甲賀、郷が違うからといって敵対するメリットはないのである。

ただ、この実直なまでの基本姿勢が仇となることもある。
天正6(1578)年、天正伊賀の乱(てんしょういがのらん)が勃発。これは勢力拡大を目論む北畠信雄(織田信雄)が伊賀国を侵攻した戦いだが、このとき甲賀忍者は織田軍側で伊賀忍者と戦っているとされている。このあたりから、両者の関係がギクシャクする(ように見える)出来事が頻発する。
天正10(1582)年「本能寺の変」で織田信長が没すると、明智光秀の軍勢から逃れるため、徳川家康は伊賀忍者の助けを借りて三河国へと逃れる。有名な「伊賀越え」である。
あれ? でも伊賀忍者は織田信長に侵攻されてたよね、信長と関係良好の家康を助ける? 
いや、いいのだ。これが彼らのやり方。そしてこのとき、甲賀忍者も伊賀忍者とともに家康をサポートしたとも言われている。共闘したり敵対したりしながら、決定的な潰し合いをしないのが伊賀忍者・甲賀忍者なのである。

決定的に伊賀と甲賀の仲を「引き裂いた」のは、あのふたり?

信長の死によって、天下取りレースは秀吉と家康のふたりに絞られた。これまで互いのスタイルを保っていた伊賀と甲賀も、ここからの時代の流れには逆らえなかったようである。秀吉が、信長から引き継いだ近江で甲賀忍者を使って家康の動向を注視すれば、家康も伊賀忍者に秀吉の動向を探らせた。
本能寺の変から関ヶ原の戦いまで12年ほどしかないことを考えれば、この時代は秀吉と家康を中心に回っていたのだなあ、と思う。

江戸時代になり、戦乱の世を「文化」として語ることができる世の中になると、信長、秀吉、家康の相関関係が、そのまま伊賀忍者と甲賀忍者にあてはめられ、様々な講談や読本でもライバル的に描かれるようになった。
その流れは、大正時代に立川文庫から出版された『猿飛佐助』や、昭和34年刊行の山田風太郎『甲賀忍法帖』にも受け継がれている。この頃になると、両者のライバル関係だけでなく、人間離れした術の応酬もド派手に付与されていく。
ちなみに、伊賀忍者が徳川幕府に召抱えられたのに対し、甲賀忍者は、伊賀越えで家康を助けた者以外は江戸時代以前に、秀吉によって改易処分を受け平民扱いとなっている。現代の創作でも何となく「伊賀=ヒーロー」「甲賀=ヒール」と描かれることが多いのは、この時の名残りではないだろうか。
冒頭に紹介した『万川集海』は、歴史に埋もれかけていた甲賀忍者の高い技術や功績を世に知らしめる切っ掛けになったともいわれており、また、それを伊賀忍者の末裔が書いたという点も、ともに戦乱を生き抜いた伊賀と甲賀にしかわからない関係性を物語っているように思う。

書いた人

生粋のナニワっ子です。大阪での暮らしが長すぎて、地方に移住したい欲と地元の魅力に後ろ髪惹かれる気持ちの狭間で葛藤中。小説が好き、銭湯が好き、サブカルやオカルトが好き、お酒が好き。しっかりしてそうと言われるけれど、肝心なところが抜けているので怒られる時はいつも想像以上に怒られています。