Art
2017.11.30

国宝 檜図屛風とは?鑑真和上坐像とは?

この記事を書いた人

日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。2017年は「国宝」という言葉が誕生してから120年。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

11表20171124145918

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は破格のスケールで描かれた名画、「檜図屛風」と日本最古にして最高の肖像彫刻、「鑑真和上坐像」です。

狩野永徳 最晩年の傑作 「檜図屛風」

11号12_20171124145933

深い群青と金を背景に、屈曲した枝が画面を突き抜けて天へと伸びる──「檜図屛風」は圧倒的な迫力で、見る者の心を捉えます。16世紀後半に活躍した天才絵師・狩野永徳が描いた、桃山障壁画の代表作です。

桃山時代とは、織田信長が室町幕府15代将軍・足利義昭を追放した元亀4年(1573)から、豊臣氏が大坂夏の陣で滅ぶ慶長20年(1615)頃までをいい、半世紀にも満たない期間。しかし、この間に天下人らのエネルギーを体現するような、新しい絵画様式が生まれました。その牽引役となったのが、名門絵師集団「狩野派」の4代目棟梁・永徳です。

永徳は天文12年(1543)、狩野派の礎を築いた元信の孫として、京都に生まれました。幼いころから類まれな才能を発揮し、祖父の大きな期待と薫陶を受けて育ちます。そして、その画風は、「温良にして細密」という元信の様式を大きく超えていったのです。

永徳の才能を後押ししたのは、織田信長と豊臣秀吉でした。信長の安土城、秀吉の大坂城や聚楽第など、天下統一のシンボルであるこれらの建築の障壁画を、永徳が引き受けることとなり、狩野派一門を総動員して制作にあたりました。永徳は、時代の風潮を敏感に察知して、大画面に巨大なモチーフを豪放な筆致で描く、「大画」と呼ばれる画期的な様式を確立します。雄壮華麗な永徳の花鳥画は信長や秀吉に愛され、桃山時代を代表する様式として時代を席巻していきます。

「檜図屛風」は、秀吉が造営した八条宮家の御殿の襖絵でした。金地に群青などの濃彩を施した「金碧障壁画」で、大画面に描かれているのは、天地を貫いて屹立する巨木。ダイナミックで奔放な筆遣いは、「大画」様式の典型的なスタイルです。

桃山画壇の覇者となった永徳でしたが、この作品を制作した天正18年(1590)、京都東山にある東福寺の天井画を制作中に体調を崩し、急死。「檜図屛風」は、永徳最晩年の作となりました。当初は襖絵でしたが、その後、八曲一隻屛風とされ、2014年の大修理の際に四曲一双屛風となりました。

国宝プロフィール

狩野永徳 檜図屛風

天正18年(1590) 紙本金地着色 四曲一双 各170.0×230.4cm 東京国立博物館 「檜図屛風」の写真はすべてImage:TNM Image Archives

もとは豊臣秀吉が八条宮智仁親王のために造営した御殿の障壁画のひとつで、のちに屛風に改装された。狩野派一門が制作を担当した障壁画のうち「檜図」は、天下一の絵師として君臨していた永徳の真筆と目されている。金地に濃彩で檜の巨木を描いた、永徳最晩年の傑作。

東京都国立博物館

日本最古にして最高の肖像彫刻 「鑑真和上坐像」

11号22_20171124145951

「鑑真和上坐像」は、今から1200年余り前、天平時代に造立された日本最古の肖像彫刻です。強い意志と慈悲に満ちた面差しは、日本に仏教が正しく広まるためにと、身を賭して渡海してきた鑑真の高潔な精神を今も示しているようです。

唐代の中国・揚州(江蘇省)で高名をはせていた鑑真が、日本を訪れたのは753年のこと。目的は、仏教の修行規範である「戒律」と、それを正式に授ける「授戒」という制度を日本に伝えることでした。本来、仏教の僧となるためには、戒を授ける「戒和上」以下、3人の師僧と証人となる7人の立ち会いのもとに、「授戒」を行なわなければなりません。

しかし、6世紀半ばの仏教伝来以降、日本で正式な授戒が行なわれたことはありませんでした。そこで、聖武天皇は、授戒僧の招聘を計画。とりわけ戒和上には高い学識・徳行が要求されるため、名僧として知られていた鑑真に、しかるべき人材の派遣を請うたのです。鑑真は弟子たちに渡日の意志を問いましたが、応じる弟子はなく、鑑真自ら日本へ行くことを決意。そして5回の渡航失敗という苦難を乗り越え、来日しました。

聖武上皇は授戒伝律を鑑真に一任する詔を発布します。東大寺に迎えられた鑑真は、754年、大仏殿前で上皇や太后、天皇をはじめ400人を超える人々に授戒。翌年には、東大寺に授戒のための施設である戒壇院を造営し、さらに756年には当時の仏教界の最高位・大僧都に任ぜられました。

そして759年、鑑真は、律宗の道場として唐招提寺の前身となる唐律招堤を創立。仏教の根幹をなす戒律を根付かせるべく尽力しつづけ、再び中国の地を踏むことなく、763年にこの世を去りました。

「鑑真和上坐像」は、鑑真の亡くなる直前、その死の兆しを夢に見た弟子により制作が始められたといわれています。師のすべてをありのまま写し取ろうとする制作態度からは、鑑真への深い尊崇の念が感じとれます。

不屈の精神、深い慈愛を感じさせる「鑑真和上坐像」。それは、今なお、人々の崇敬を集めるとともに、日本の肖像彫刻の最高峰として称えられています。

国宝プロフィール

唐招提寺 鑑真和上坐像

8世紀 脱活乾漆造 彩色 像高79.7cm 唐招提寺 奈良 

唐招提寺を創立した鑑真の肖像彫刻。死の直前に制作が始められたと伝えられる、日本最古の肖像彫刻である。細部に至るまでありのままに写そうとする意図が見てとれ、高僧の精神性まで表現するかのような優れた造形表現は比類がない。面部や着衣をはじめ、当初の状態がよく残されている。

唐招提寺