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2019.11.15

芥川龍之介・岡本一平・和辻哲郎の書いた、お茶目でかわいいハガキを紹介!

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手紙のマナーとして、正式な書簡は封書で、葉書は略式といわれてきました。しかし、電話、ファックス、メールやSNSなど通信手段が多様化し、生活スタイルも大きく変化した現在は、葉書が略式であるといった印象は薄れています。むしろ葉書に短い文章で気持ちを伝えるほうが、受け取る側も負担が少なく現代的だといえるかもしれません。では、明治、大正、昭和初期と、手紙が通信手段の中心だった時代、文豪たちはどのような〝略式の葉書〟を書いていたのでしょうか。

絵が描けなくても「ちょい足し」してみる

画家の竹久夢二(たけひさゆめじ)が、作家の上司小剣(かみつかさしょうけん)と白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ)に宛てた絵葉書。よほど暑い日だったのか?裏面の浴衣姿の夢二美人は涼しげ。絵を描くのは無理でも、絵葉書に文字をのせるとか、いたずら書きするとかでも、ちょい足しの効果は侮れない。

竹久夢二暑さかな あつさかな あつさかな
これは ゐねむりを してゐる所

出先から家族へ、筆まめになる

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が鎌倉の海から息子たちへ宛てた、大正12年8月23日付けの葉書。「芥川ボクチャン」と書いた宛名や裏面の絵と文は、一緒に避暑をしていた友人、画家の小穴隆一(おあなりゅういち)によるもの。

芥川龍之介二十五日マデニカヘリマス 二十日ニハ和田ヤ永見ト話シコミ、ステーションホテルニ 泊ラセラレタ(汽車ニ乗リオクレ)ケフ菅先生ニアツタ 勢子今朝横浜ヘカヘツタ キノフ泳イダ 下島サンニヨロシク 龍 以上

ワタシハウミニハイレナイノデ スナハマデミテイマス、オアナ、
ボクチヤンノオトウサン 
セイコチヤンノオバサン

絵も字も内容もウィット満載

漫画家の岡本一平(おかもといっぺい)から大阪朝日新聞の大道弘雄(おおみちひろお)へ、大正4年5月29日付けの葉書。絵文字を使っているところなどは、現代の感性と変わりない。絵は苦手…だとしても、快晴を太陽で表すくらいはできるもの。殺風景な葉書にもユーモアを。

岡本一平(クジラの絵)とりから 帰つて忙しがつてる処へ 又議会が来やがつて うるさくて仕方ない。貴公相変らず(酒器の絵)と(芸者の絵)に 没頭してるな。あまり耳よりな話を 聞かすなよ。落付いて 画が描けなくなるぞ。京都よりの葉書確に貰つた。栢、幹、秋氏何れも やり玉にあげた事がある。然も栢氏は二度やつた。貴公もそのうちやらうと 思つて手ぐすね引ひて 待つてる積りだが 一寸機会が無かつた。そのうち不意に一発強楽の奴を お見舞申そうと思つてる

時にはイタズラ心を効かせてみる

文学者で哲学者の和辻哲郎(わつじてつろう)が、高校時代から親交があった医学博士の杉田直樹(すぎたなおき)へ宛てた明治40年7月20日付けの葉書。文頭は?しかも縦書きの文章を左から右へ小さな文字でびっしり。こんなイタズラ(?)からも親しさがうかがえる。

和辻哲郎ドヾヾヾにはドヾヾヾドオモ 恐れ入り申候 蝶は五月雨で煩へ死致します、すると其なきがらから 卯の花が咲いて、その卯の花が 姨捨石の上に棚引くと、五月雨がサラサラサラと 下して来る、雲が少し切れると、面影や姨ひとり泣く月の夜といふ句になるそうです。春日の宮の丹塗の歩廊は 実に素敵!朱の色に淀む七百の柱と 緑青に物寂びたる七千の 釣燈籠の下をめぐつて すゞしい水の音がすると、青葉の藤がサラくと さゞめく、柱に倚つて、巫女が 紅の袖で涙をふいてゐる、長い袖のヒラヒラする間から見ると、藤尾さんの様な顔をしてる、こんな顔は木曽に沢山あつたと 思つて見る、あとはムニヤく、京都で雨に降られて大弱り、甲野さんが京都に第一義で 生きてる

間は僕も四条の活動写真でも 見に行つて従妹を喜ばせて 向ふを張るつもりだつたけれど 狐のチヤンくが無いから 根負けしちやつて、遂に無能で 引上げました、保津川下りを余程やろうと 思つたんですけれど、船賃が高いから 二の足を踏んだのぢや ないんですけれど、とうくやりませんでした。日本の劇文学の研究は其後如何、少々、お洩しを願ひます 黒板は兄弟すつかり揃つて、大威張り、熊野灘の波が 大きかつたとて大威張り、船中で 財布をなくしたとて、大意張り、僕、明日からしばらく 高砂の海岸へ行きます、高砂神社の小松つていふ神主の 座敷を借りるんです、お菊の井戸は確か杉の木の 左の方だつたと思ひます、今でものぞくと幽霊の影か、フワと現れます、

※葉書はすべて日本近代文学館所蔵

日本近代文学館 公式サイト