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2022.04.30

その魂はキャンバスを飛び出して。日本洋画界を愛し育てた画家・小磯良平

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「小磯良平(こいそりょうへい)は、私の好きな画家の1人。フォルム(形体)や色彩、タッチが好きなんだ。見ているとワクワクドキドキして、心の浄化ができるよ。日本人で良かったと思うんだ」
と、美術大学で油絵を学んだ妹は、熱く語ってくれました。私はと言えば、「女性の絵を多く描いた人」という程度の認識。でも、そんな風に語られると、どんな人生を歩んだのか興味が湧いてくるもの。ということで、今回は画家小磯良平(1903~1988年)の生涯をお伝えします。

あれ? 小磯良平と私(30代)、数年間だけど同じ時代を生きてた!? ちょっと意外でなんだか嬉しい。

少年時代

港町神戸で生まれ育つ

小磯(旧姓岸上)良平は、1903(明治36)年、兵庫県神戸市に、生まれました。実家は旧家で貿易商。日本人と外国人が隣り合って住む土地で育った良平は、後年子ども時代をこのように語っています。

当時の神戸の子供は、異国風と昔ながらの和風のしきたりのまじり合った空気で成長したものと思う。それが別にどうということはなかった。
『小磯良平画文集 絵になる姿』6ページ 

「画家になりたい! 」フランス絵画との出会い

幼少の頃から絵を描くのが好きだった良平は、1917(大正6)年、兵庫県立第二神戸中学校に進学。熱心な美術教師、後に洋画家になった同級生、そして生涯の友となる同級生竹中郁(たけなかいく:詩人)(※1)とさまざまな出会いがありました。
1921(大正10)年、岡山県都窪郡倉敷町(現、倉敷市)にある大原美術館で「現代フランス名画家作品展覧会」が開催。モネの『睡蓮』やマチスの『マチス嬢』などの絵画が公開されました。
良平は郁とともに、汽車で倉敷町へ。早朝に駅に着き、一番乗りで見学。この経験が良平を「画家になりたい!」という想いを決定的なものにしました。これを機にデッサンを学び、油絵・水彩画を描くようになりました。

小磯にとって、よい出会いがたくさんあった時代ですね!

努力の甲斐あって、1922(大正11)年、東京美術学校西洋画科に入学。

※1 詩人 1904~1982年。戦後は児童詩の分野で活躍。兵庫県内を中心に、多くの校歌の作詞を行った。

画家としての修行

東京美術学校西洋画科で学ぶ

東京美術学校西洋画科で学ぶ良平。同級生の刺激を受けながら、充実した学生生活を送りました。1925(大正14)年、22歳で第6回帝展(帝国美術院展覧会。現在の日展の前身)に、弟と妹をモデルにした『兄妹』を出品し、入選を果たしました。
しかし、同年父の突然の死。これを機に以前から出ていた、親戚筋の小磯家の養子にという話を正式に受けることになりました。
1926(大正15)年、養子に入った小磯家で又従姉をモデルに『T嬢の像』を制作。これが第7回帝展の特選になりました。
1927(昭和2)年、東京美術学校西洋画科を首席で卒業。卒業制作は、『自画像』と親友郁をモデルにした『彼の休息』でした。
こうして、青年画家小磯良平の名前は広く知れ渡りました。
1度の入試で入学するだけでなく、首席で卒業。良平がいかに優秀だったかわかります。

今も昔も、美大に1回で受かるのはとても大変なのだそうですが、それに加えて首席卒業!

念願のパリ留学~欧州絵画の古典的技法を体感

プロの画家として活動を始めていた良平。そんな良平のさらなる夢は、芸術の都パリに留学すること。
1928(昭和3)年、親友の郁とともにパリに留学。東京美術学校時代の同級生は、すでに渡航。当時パリには100人以上の日本人画家がいたそうです。
留学中の良平は、美術館や画廊を見学し、アングル、コロー、クールベ、ドガ、マネ、などの巨匠(※2)たちの端正なデッサン(素描)を体感しました。

また、音楽会やバレエ、オペラ、演劇、サーカスなども熱心に鑑賞。パリで体験できることを貪欲に楽しんで、感性を養います。

専門外のものから大きな収穫を得ることって、たくさんありますよね!

こうして2年の留学生活を経て、1930(昭和5)年、郁とともに帰国。神戸に戻り、小磯家の広い庭の一隅にアトリエを建てました。このとき27歳。本格的な画家生活に入っていきます。

※2 いずれも18世紀中頃から19世紀終わり頃、西洋美術史上「近代」に活躍した画家。新古典主義のアングル、写実主義のコロー、クールベ、ドガ、印象主義のマネ。

戦前の活躍

小磯良平がパリで得たことは?

良平の帰国後の活躍を紹介する前に、20世紀前半の、日本の西洋画界の状況について記します。

西洋画が日本に本格的に伝わったのは、幕末の19世紀後半。その後明治時代に入り、西洋化の流れの中で西洋画は急速に広まり、独自の発展をしていきました。

浮世絵にも、西洋絵画の影響を強く受けたものが見られますね!

良平はパリ留学中に、近代画家のあらゆるジャンルの作品を体感したことで、古典的・基本的な技術を正しく後世に伝えていくことが大切。その上で自分の世界を描きたい。そう感じたのかもしれません。
また、良平の描写力は高く評価されていますが、このときに体感したデッサンが大きな影響を与えていました。

ところで。デッサンとはどういうものか、改めて妹に質問してみました。
「デッサンは、基本中の基本。対象物を見る目、質感の表現の仕方など、りんご1つ描いても、学ぶことはたくさんあるよ。私も高校時代は、アトリエで1日8時間はデッサンしたな」
デッサンの、奥の深さに驚きです。それにしても、1日8時間とはわが妹ながら尊敬。

ちなみに良平は80歳を過ぎても、1日2~3時間のデッサンを日課にしていたそうです。天性の描写力もあるのでしょうが、それを活かすのは日々の鍛錬なのですね。

努力なしで大成した天才って、きっといないだろうなあ。

帰国、本格的な画家活動へ

1932(昭和7)年1月、神戸で初めての個展を開催。10月第13回帝展で『裁縫女』が特選に。この作品は、政府買い上げとなりました。そして11月には結婚。公私ともに充実した日々を送ります。
良平のアトリエは、阪神間に住む若い画家のサロンになり、その主として指導する立場に。戦後は、東京藝術大学の教授になりますが、このときの体験が活きたのかもしれません。

従軍画家として~戦争をあるがままに描く~

画家として2人の娘の父として平和に過ごしてきた良平にも、戦争の足跡が暗い影を落とします。
1938(昭和13)年、1940(昭和15)年、1942(昭和17)年、1943(昭和18)年と4度にわたり陸軍報道部の委嘱を受け、従軍画家として戦地に赴きました。美術展に出品して受賞したことも。戦意高揚させる作品ではなく、疲労感漂う兵士など戦地のあるがままを描きました。「従軍しても作品の中では迎合しない」そんな意志を感じます。ただ良平には辛い経験となり、この時期については多くを語りませんでした。

戦争体験を経て、当時の記憶をシリーズで描き続けた画家・香月泰男の記事はこちら。男はなぜ「蟻」になった?極寒の抑留地シベリアを生き抜いた画家・香月泰男が描く希望の光

従軍画家時代に並行して描いたのが、1941(昭和16)年第4回新文展に出品した『斉唱』。制服を着た裸足の少女たちが歌う姿は、平和への祈りが感じられます。良平の代表作となりました。

神戸市立小磯記念美術館で2018年に開催された、「没後30年 小磯良平展-西洋への憧れと挑戦」の展覧会チラシ

1945(昭和20)年、6月5日の神戸大空襲。良平と家族は無事でしたが、小磯家も被害を受け住宅やアトリエ、作品も焼失。戦後1949(昭和24)年に、新たな住まいとアトリエを建てるまで、家族と住まいを転々としました。

神戸市立小磯記念美術館中庭へ移築された、アトリエの外部(上)と内部(下)
(神戸市立小磯記念美術館蔵)

戦後の活躍

戦後の混乱期でも、良平は展覧会に出品を続け、制作の手は止めませんでした。そして、キャンバスの上以外にも、活動の場を広げて行きます。

挿絵画家として活躍

小説の挿絵の仕事を永らく続けていた良平は、1947(昭和22)年、雑誌『婦人公論』に連載された、谷崎潤一郎『細雪』の挿絵を担当。少し後になりますが、川端康成『古都』(『朝日新聞』1961<昭和36>年)の挿絵も担当。余談ですが、挿絵の締め切りが来ても、原稿が届かないことが多々ありました。そんなとき良平は、展開を予想して挿絵を構想したそうです。

展開を予想して挿絵を構想……予想が外れてしまうこともあったのかな? 大変。

1956(昭和31)~1968(昭和43)年にかけて、武田薬品工業株式会社の月刊誌『武田薬報』の表紙の薬用植物画を担当(後に、『薬用植物画譜』として刊行)。
その他、クリスチャンである良平は、『口語訳聖書』(日本聖書協会、1971年)の挿絵も担当。

挿絵の仕事について、このような想いがありました。

プロフェッショナルな画家であるならば、挿し絵を描くことは当然だと、小磯良平は考えている。とくに、新聞、雑誌の連載小説は画家にとって大事な表現の場所だと思っている。
『アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術 17 向井潤吉・小磯良平』88ページ

東京藝術大学の教授に就任

1950(昭和25)年、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻の講師を経て、1953(昭和28)年には教授に就任。後進の指導にあたります。当初反対した親友の郁は、1971(昭和46)年に退官するまで、東京と神戸の2拠点生活を続けた理由を、こう振り返ります。

生来教えることの好きな性質に…(中略)…わが国洋画界への愛情があったからにちがいない。
同 94ページ

遠く離れた2拠点での生活、費用も体力も気力も、相当消費したはず。それだけ情熱にあふれていたということなのでしょう。

版画への造詣もあった良平は、教授在任中には版画研究室を設置。制作した版画は、200点を超えます。

建築装飾を手掛ける

地元兵庫県を中心に、壁画や緞帳(どんちょう)などの、建築装飾も手がけました。神戸銀行(現、三井住友銀行)本店の壁画『働く人』や、宝塚大劇場の緞帳『騎士の門出』など。迎賓館赤坂離宮の壁画『音楽』『絵画』は、その集大成と言えます。

迎賓館赤坂離宮(東京都港区)本館 要人の表敬訪問や首脳会議が行われる「朝日の間」の入口両脇に、『音楽』『絵画』が飾られています。

画家の制作現場はいろいろあることを、身をもって、伝えたかったのではないでしょうか。

晩年~親友、妻との別れ~

1982(昭和57)年に親友竹中郁を、1983(昭和58)年貞江夫人を亡くした良平。そんな中でも制作を続けて、1988(昭和63)年、85歳で死去。作品や愛用の品は、兵庫県や神戸市に寄贈され、1991(平成3)年には遺作展が全国を巡回。多くの人々に愛された画家人生でした。

制作=人生、だったのかな。作品をじっくり見てみたくなりました。

神戸市立小磯記念美術館に伺う、小磯良平の魅力

亡くなった翌年に油彩・デッサン・版画などの約2000点の作品が、アトリエ・蔵書などとともに、ご家族により神戸市に寄贈されました。
これを受けて、1992(平成4)年、神戸市六甲アイランド公園内に、神戸市立小磯記念美術館が開館。
学芸員辻智美様に、小磯良平の魅力と美術館の見どころについて伺いました。

神戸市出身の小磯良平は、神戸の街を生活と制作の基盤としました。東京美術学校の学生時代から素描に優れ、描く対象を正確にとらえて理想的なフォルムとして描き、落ち着いた色彩感覚で品格のある作品を描いた作品は、多くの人々に愛されてきました。
画業を顕彰する神戸市立小磯記念美術館は、ガラス張りの回廊から中庭を眺めると、移築復元した小磯のアトリエや紫陽花、紫蘭、椿、花梨など植物の四季折々の姿をお楽しみいただけます。

ありがとうございます。

おわりに

小磯良平を語るとき、「日本の洋画界に貢献」「油絵の正統派」という言葉が聞かれます。それは、西洋絵画の古典的・基本的な技術を正しく後世に伝えたこと。キャンバス以外にも、画家の活躍する場はあること。そして、それらを指導者として後進に伝え続けたこと、だと私は思います。

※アイキャッチ画像、神戸市立小磯記念美術館蔵

<協力>
神戸市立小磯記念美術館 

小磯美術クラブ

<参考資料>
・足立龍太郎『小磯良平画文集 絵になる姿』(求龍堂、2006年)
・島田康寅・塩田洋『アート・ギャラリー・ジャパン 20世紀日本の美術 17 向井潤吉・小磯良平』(集英社、1986年)
・別冊太陽『画家と戦争』(平凡社、2014年)
・別冊太陽『近代日本の画家たち』(平凡社、2008年)

書いた人

大学で日本史を専攻し、自治体史編纂の仕事に関わる。博物館や美術館巡りが好きな歴史オタク。最近の趣味は、フルコンタクトの意味も知らずに入会した極真空手。面白さにハマり、青あざを作りながら黒帯を目指す。もう一つの顔は、サウナが苦手でホットヨガができない「流行り」に乗れないヨガ講師。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。