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2018.05.22

明恵上人像・仁和寺〜ニッポンの国宝100 FILE 65,66〜

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日本美術の最高到達点ともいえる「国宝」。小学館では、その秘められた美と文化の歴史を再発見する「週刊 ニッポンの国宝100」を発売中。

仁和寺

各号のダイジェストとして、名宝のプロフィールをご紹介します。

今回は、樹上の瞑想、「明恵上人像」と皇室ゆかりの密教寺院、「仁和寺」です。

きよらかな高僧の姿「明恵上人像」

明恵上人像

霞たなびく松林のなか、二股に分かれた樹上で坐禅するひとりの僧侶。柔らかな墨線で描かれた細い枝が、傘を差しかけるように僧侶を包み込んでいます。描かれている人物は、鎌倉時代の華厳宗の僧・明恵。京都の北、清滝川の清流を望む栂尾にある古刹・高山寺の再興の祖として知られる高僧です。
 
承安3年(1173)、紀伊国(現在の和歌山県)に生まれた明恵は、8歳のころに両親を亡くし、叔父の上覚を頼って京都の神護寺で学び始めます。16歳になると出家し、華厳宗の総本山である奈良の東大寺で正式な僧となりました。その後は華厳宗をはじめ、密教や禅を学ぶかたわら、故郷に近い紀州白上の峰に籠るなどして、仏法の研鑽に励みます。世事から身を引き、ひたすら修行を積む明恵を後継者として見込んだのが、神護寺を復興した真言宗の僧・文覚でした。文覚は高雄の神護寺の北東にある閑寂な栂尾に、神護寺の別院として明恵のために一寺を造営します。建永元年(1206)には、後鳥羽上皇から栂尾の地が明恵に与えられ、寺は「華厳経」の中の句「日出先照高山之寺」(朝日は最初に聖地である高き山の寺を照らすという意)から高山寺と命名されました。
 

明恵が高山寺に住したのちには、その高潔な人柄を慕い、僧俗を問わず多くの人々が当寺に参集しました。明恵はそうした寺内のにぎわいを避け、たびたび裏手の山に籠り、坐禅をしたと伝えられています。「明恵上人像」に描かれた松林の景観は、その高山寺の後山です。釈迦を思慕した明恵自身が、釈迦が説法をしたとされる場所になぞらえ、楞伽山と名付けました。
 
明恵は弟子たちに、静かな場所でひとり坐禅することの大切さを熱心に説きました。本図はそうした坐禅する明恵の姿を画僧の成忍が描いたとされる肖像画です。高山寺の禅堂には、仏道修行者のあるべき姿として、樹上で坐禅する明恵を描いた図が掛けられていたといいます。
 
高山寺に伝わる本図は、画中に描かれた明恵の姿が小さく、高僧の肖像としては異例ですが、明恵の飾らない姿を伝える貴重な1幅です。

国宝プロフィール

伝成忍 明恵上人樹上坐禅像

13世紀 紙本着色 一幅 145.0×59.0cm 高山寺 京都

後鳥羽上皇から栂尾の高山寺を与えられ再興した明恵が、松の茂る山中、太い幹の上で坐禅する姿を描いた1幅。画面いっぱいに描かれた松は太く淡い墨線で穏やかな筆致を見せ、いっぽう明恵の姿は、顔の皺やひげまで精細に描かれている。鎌倉時代の高僧像の傑出した作である。

高山寺

皇室ゆかりの密教寺院「仁和寺」

仁和寺

真言宗御室派の総本山である仁和寺は、京都の北西、双ヶ岡を南に望む景勝地にあります。幕末まで代々の住職を皇族が務めた格式の高い「門跡寺院」であるこの寺の歴史は、仁和2年(886)、光孝天皇の発願から始まります。しかしその翌年、光孝天皇は志半ばで崩御。仁和4年、宇多天皇によって、先帝の遺志を引き継ぐとともに、その菩提を弔うために創建された寺は、年号をとって仁和寺と定められました。
 
仁和寺創建から9年を経た寛平9年(897)、宇多天皇は突如13歳の皇太子・敦仁親王(のちの醍醐天皇)を元服させ、即日譲位します。2年後の昌泰2年(899)には、仁和寺で落飾し、法皇と称するようになりました。日本史上、法皇という号が用いられたのは、これがはじめてのことです。
 
宇多法皇は、延喜4年(904)、仁和寺内に「御室」といわれる僧坊(僧侶が起居する建物)を造営し、移り住みます。以降、仁和寺は「御室御所」と称され、仁和寺のある一帯も御室と呼ばれるようになりました。それまで都の閑寂の境にあった仁和寺は、法皇が移り住んで以降、法会の絶えない寺となり、法皇は、崩御する承平元年(931)まで、この地を離れることがありませんでした。

平安時代から鎌倉時代にかけて興隆を誇った仁和寺でしたが、応仁・文明の乱(1467~77年)によって、ほとんどの堂宇が灰燼に帰しました。3代将軍徳川家光の援助で、ようやく再建が始まったのは、160余年を経た江戸時代初期の寛永11年(1634)のこと。折しも、幕府による御所の建て替えが進められていたため、御所の建物が仁和寺に移築されることになり、紫宸殿は金堂(国宝)として、清涼殿は御影堂として新たな歴史を刻むことになりました。
 
密教に深く帰依した宇多天皇以来、天皇ゆかりの門跡寺院として1130年の法灯を守ってきた御室御所・仁和寺。密教寺院である仁和寺は、平安時代の密教の仏像をはじめ、仏画や図像集など、密教美術の宝庫といわれています。その多くの宝物には、門跡寺院としての長い歴史が刻まれています。

国宝プロフィール

仁和寺

金堂/慶長18年(1613)造立 入母屋造 本瓦葺 正面7間 側面5間

仁和4年(888)に宇多天皇により創建された寺院で、のちに宇多天皇が出家し当寺に住したことから御室御所と呼ばれた。その後、法親王が住職となるなど、門跡寺院として隆盛。現在は真言宗御室派の総本山。広大な境内には、内裏の紫宸殿を移築した金堂をはじめ、堂宇が建ち並び、阿弥陀三尊像(国宝)など多くの寺宝を所蔵する。

仁和寺