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90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う

絵師として名乗る画号は、ペン・ネームや芸名と同様に作者としての責任を表すものですから、たびたび変えるべきものではないとされます。それが、葛飾北斎は生涯に30回も画号を改めたというのですから、驚きです。多くの画号をもち、幅広いジャンルに才能を発揮した北斎。90歳という、当時稀にみる長寿な人生はいったいどんなものだったのか、5つの時代(画号)に分けて追っていきます。

春朗期

江戸時代中期を過ぎたころ、世界でも有数の大都市であった江戸では、町人文化が花開き始めていました。そんな時代の幕開きを告げるように、北斎は宝暦10(1760)年9月、江戸本所割下水(ほんじょわりげすい)に生を受けています。その後、4歳で幕府御用鏡師、中島伊勢(なかじまいせ)の養子となり、好んで写生をして過ごし、手先が器用だったことから14歳で木彫り職人に弟子入り。19歳のときには、当時名うての役者絵師、勝川春章(かつかわしゅんしょう)のもとに入門しました。

90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う葛飾北斎「正宗娘おれん 瀬川菊之丞」細判錦絵 安永8(1779)年 東京国立博物館蔵

間もなく彼は「勝川春朗(しゅんろう)」の名を得て、20歳のころ、細判役者絵によって浮世絵の世界に登場。春朗は流行り始めていた黄表紙(きびょうし)、洒落本(しゃれぼん)などの挿絵を次々に手がけ、頭角を現します。と同時に、その好奇心に富む性格から、師の模倣に飽き足らず、内緒で狩野派や洋画を学び、ついに破門。それがひいては、波乱に富んだ絵師人生へとつながっていくのです。

宗理期

寛政6(1794)年に勝川派を破門された北斎は、36歳になる翌年正月から「宗理(そうり)」という新たな画号で作品を発表し始めています。宗理とは、桃山時代末期に俵屋宗達や本阿弥光悦らによって形づくられ、尾形光琳が引き継いだ琳派の絵画様式を目ざして俵屋と称した一門の頭領が用いた名で、北斎は3代目となります。ただ、浮世絵とはまったく趣の異なる画派に転じた理由については、いまだ明らかになっていません。

90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う葛飾北斎「風流無くてなゝくせ遠眼鏡」大判錦絵 享和年間(1801〜1804)ごろ 山口県立萩美術館・浦上記念館蔵

驚くべきは、襲名までわずか数か月で、2代宗理から教えられた様式を身につけたことです。それ以後、勝川派で描いていた錦絵はほとんど見られなくなり、当時流行していた狂歌の世界とのかかわりを深め、優美な狂歌絵本の挿絵や肉筆画といった分野に進出。またたく間に新境地を開拓していきました。このころの画業で特筆されるのが、肉筆画による美人画。その顔立ちは瓜の種のように白くて面長な瓜実顔(うりざねがお)で、目は小さく、おちょぼ口。背が高く、スラリとしたプロポーションで描かれた女性たちは「宗理美人」と称され、一時代を築きました。

葛飾北斎期

北斎にとって大きな転機は、宗理の名を門人に譲り、文化2(1805)年に「葛飾北斎」と号するようになったとき。以後、彼はどの画派に属することもなく、独立した絵師としての道を拓いていったのです。

90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う葛飾北斎「酔余美人図」絹本着色 江戸後期 (財)氏家浮世絵コレクション(鎌倉国宝館内)蔵

宗理期の享和年間に洋画に触れてきた北斎は、文化年間になって新たに脚光を浴び始めていた長編小説、読本(よみほん)の挿絵へと仕事の中心軸を移していきます。これは読本の隆盛へとつながり、北斎が挿絵を手がけたからこそ読本は大流行したといわれるほど。そうして生まれた曲亭馬琴(きょくていばきん)作「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」などの名作は、北斎の名声を不動のものとしました。一方で北斎は、浮世絵版画においても多彩な表現を用いるようになり、名所絵や戯画などを発表。また、肉筆画の作品も最晩年と並んで多く手がけており、美人画など幾多の名作を残しています。

為一期

北斎が60歳になったころから70代前半まで用いた画号が「為一(いいつ)」です。この画号の時期には、最高傑作「冨嶽三十六景」を皮切りにして、「諸国瀧廻り」「千絵の海」「琉球八景」「諸国名橋奇覧」「富嶽百景」などの風景画の連作を続けてヒットさせ、花鳥画にも取り組んでおり、錦絵制作で押しも押されもしない人気絵師となっていた、まさに黄金時代でした。

90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う葛飾北斎「百橋一覧図」文政6(1823)年 国立国会図書館

しかし、為一の画号で華やかな成功を手にする前の60代の私生活は波乱続きで、四女を亡くした後に長女・阿美与(おみよ)が離婚。60代も後半になったころには中風(脳卒中)を患うのですが、自作の薬で回復したという逸話も(!)。しかし、不幸はさらに続きます。三女・応為(おうい)が離縁され出戻ってくるわ、後妻・ことに先立たれるわ、挙句の果ては70歳になったころに孫の放蕩(ほうとう)の尻拭いをする羽目に陥り、借金取りに追われるなど、散々な状態でした。そんな時期を経て、72歳という老齢になってから渾身の連作「冨嶽三十六景」を生み出すのですから、北斎の生命力には、すさまじいものがあります。

画狂老人卍期

浮世絵版画で名声を得たにもかかわらず、北斎は次第に版画への熱意を失っていきます。しかし、75歳にして上梓(じょうし)した風景絵本「富嶽百景」に、北斎は作画へのあふれる情熱を記し、「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」へと号を変更。老いてなお意欲は衰えず、晩年を迎えてさらに新たな世界に挑む姿は感嘆に値します。

90歳まで筆を握り続けた葛飾北斎。謎だらけの人生を追う葛飾北斎「雪中虎図」絹本着色一幅 嘉永2(1849)年 個人蔵

北斎が最後に手がけたのは、肉筆画。それも、当時の風俗ではなく、和漢の故事や宗教に基づく歴史画や物語画、あるいは動植物にモチーフを求めていました。また、独自の洋画風表現方法にチャレンジするなど、その旺盛な制作意欲は常人を超えたものといっても過言ではないでしょう。70年にわたって、貧欲に独自の画風を追求し、今際(いまわ)のきわまで絵筆を握り続けた北斎。その驚異の絵師人生は、新時代の足音が大きくなった嘉永2(1849)年、ひっとりと幕を下ろしました。

◆おまけ◆ 北斎の本名は?

「川村鉄蔵」いったいだれのことかと思われるでしょうが、これが北斎の本名。宝暦10(1760)年9月23日に生まれた北斎は幼名が時太郎、後に鉄蔵となりました。今回ご紹介したほかにも、多くの画号をもっていた北斎ですが、その本名は以外と普通なのです。

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