昭和を代表する美食家・北大路魯山人。76年の生涯を辿る

昭和を代表する美食家・北大路魯山人。76年の生涯を辿る

北大路魯山人(きたおおじろさんじん)は、大正から昭和にかけて、美食家、そして陶芸家として活躍しました。魯山人が手がけたのは、実に2、30万点とも伝えられ、これは普通の陶芸家が手がける生涯の製作総数を上まわる驚異的な点数です。そのほか、書や篆刻(てんこく)、絵画などでも優れた作品を残しました。魯山人作品は、現在も美術市場で群を抜いた人気があります。しかし魯山人をかたちづくってきた背景は意外に知られていません。そもそも魯山人は、どのような生涯を送ってきたのでしょうか。

「美」と「美食」を追求。北大路魯山人の生涯

北大路魯山人「椿鉢」昭和15(1940)年ごろ 足立美術館。代表作の中でも最も有名なもの。魯山人57歳ごろの作品。

北大路魯山人は明治16(1883)年、京都の上賀茂(かみがも)神社の社家(しゃけ)、北大路家の次男として生まれました。社家とは世襲の神官の家柄で、いかにも裕福なお坊ちゃんのように思われますが、そうではありません。北大路家は、生活に窮する宮守りの家だったのです。魯山人というしかつめらしい名前は、のちに自分がつけた号で、本名は房次郎(ふさじろう)といいます。

その房次郎は、生まれたと同時に、比叡山の先の農家へ里子に出されました。それから転々と養家が変わり、養家で「おまえは、うちとはまったく何も関係ない」と折檻(せっかん)を受けることもあり、尋常小学校に上がると、待遇を少しでもよくするために、三度三度の食事係を買ってでました。そんななかから、魯山人は食材には多くの持ち味があること、そして旬の食材のもつ素晴しさを実感していったのです。食にこだわれば心豊かになる。それは苛烈(かれつ)な時代と引き換えに得た、唯一の福音でもありました。

10代より書の才能が開花し、次第に古美術、陶芸への眼を養う

魯山人が書と出合ったのは、10代半ばごろ。当時、ちまたでは、書の懸賞で一字書きが流行っていて、魯山人はこづかい稼ぎのために応募を繰り返していました。この懸賞には、毎回、何千何万という応募がありましたが、書才に恵まれた魯山人の作品は、きまって優秀作に選出。また西洋看板の仕事も手がけ、近所で先生と呼ばれるまでになります。

北大路魯山人「魁平鉢」昭和7(1932)年ごろ 足立美術館。文字の皿は魯山人の字の魅力がたっぷり。

そして、20歳の折に実母がいる東京へ。母が四条男爵家で女中頭をしていたつながりで、男爵より有名な書家を紹介してもらうなどの縁にも恵まれたので、東京で書家を目ざすことになりました。翌年、上野で開催された日本美術協会展の書の部に隷書(れいしょ)の千文字を書いて出品すると、これが見事に褒状(ほうじょう)一等二席を受賞します。弱冠21歳での受賞は、前代未聞の快挙でした。さらに朝鮮に渡って、彼の地で1年余りを過ごしつつ、篆刻や芸術一般も学びました。30代に入ると、文人や数寄者(すきしゃ)、陶芸家、資産家、趣味人たちと知り合います。古美術に精通していた金沢の細野燕臺(ほそのえんだい)の世話で、須田菁華(すだせいか)窯ではじめて陶器の絵付けを試みたのもこのころです。

美食倶楽部から、関東大震災を経て会員制料亭の星岡茶寮へ

37歳のときに大きな転機が訪れました。友人の中村竹四郎と共同で古美術骨董を商う「大雅堂(たいがどう)美術店」(前年までは大雅堂芸術店と称した)を開くと、店で扱う器にみずから調理した手料理を盛り付け、ふるまうようになったのです。これが会員制の「美食倶楽部」の始まりでした。「金はいくらかかってもいい。美味いものを食わせてくれ」という政財界の大物が魯山人料理を礼賛し、会員は200名にも膨れ上がります。この出来事が、その後、会員制料亭開業の契機となっていったのです。

北大路魯山人「織部扇面形鉢」昭和15(1940)年ごろ 足立美術館。織部焼は、魯山人の天才ぶりが実感できるやきもの。料理製作/懐石辻留 撮影/石井宏明

大正12(1923)年、関東大震災で大雅堂美術店を失った2年後に会員制料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を立ち上げます。会員には、貴族院議長の徳川家達(いえさと)や男爵の藤田平太郎、侯爵の細川護立(ほそかわもりたつ)、電力王の松永安左エ門(まつながさすざえもん)、作家の志賀直哉(しがなおや)や画家の鏑木清方(かぶらききよかた)ら、各界の名士が名を連ねました。

美食倶楽部時代の最初は、選りすぐりの古陶磁に料理を盛っていたものの、会員数が激増したため、そのころから新しい器の製作に取り組むようになります。星岡茶寮では、ときに100人前を超える食器一切をそろえる必要に迫られ、とうとう魯山人は本腰を入れて星岡窯(せいこうよう)という窯を創設。加賀の須田菁華窯や京都の宮永東山(みやながとうざん)窯といった有名な窯から職人を引き抜いて、理想の器の創作に没頭していきました。

北大路魯山人「鉄製透置行燈」昭和5(1930)年ごろ 足立美術館。インテリアの照明にも才能を発揮。これは小田原や大船の職人につくらせた魯山人デザインの行燈。

そうした魯山人の本気の取り組みが、評判に評判を呼び、昭和恐慌(1930年ごろ)のさなかにありながら、星岡茶寮の会員は千人を超えるまでに。世間では「星岡の会員に非ざれば、日本の名士に非ず」とまでいわれました。しかし魯山人は、放漫経営の責任と、強引なやり方に不満をもっていた反対勢力のクーデターによって、昭和11(1936)年、ついに茶寮を追放されてしまったのです。

歯に衣着せぬ物言いがたたったが、陶芸、美食の功績は永遠

茶寮追放後は、星岡窯にこもって、陶芸家として眼を見張る活躍をしましたが、晩年は決して幸せとはいえない部分もありました。

北大路魯山人「信楽刻線文壺」昭和33(1958)年 足立美術館。信楽の最良の土による壺。晩年になるほど、ダイレクトに土の魅力が表れるやきものを好んだ。

魯山人は、美を厳しく追求する姿勢からもわかるように、遠慮なく自分の信ずるところを口にし、ときに人を人として扱わない一面もあったといわれます。周囲から煙たがられたのは、ずばりと痛いところを突く眼識と、大きな風貌からにじみ出た威圧感によるところが少なくなかったのです。

けれど魯山人の芸術は、その人間性さえも凌駕(りょうが)するような高みを見せ、没後から現在に至るまで、その絶対的な評価はまったく揺るぎません。

北大路魯山人昭和34(1959)年、京都鴨川のほとりで。魯山人76歳。この年の暮れに肝硬変で亡くなることになる。

昭和34(1959)年、魯山人は横浜の病院で76年の生涯を閉じます。この数年前、文部省から二度にわたって重要無形文化財(人間国宝)認定の要請がありましたが、頑として首を縦に振りませんでした。「芸術家は位階勲等(いかいくんとう)とは無縁であるべきだ」という自分の信念を最期まで貫いたのです。

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