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2019.09.18

凄っ!これ全部つくったの?ものに対する情熱がハンパない!京都・河井寬次郎記念館 訪問レポート

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あなたは河井寬次郎(かわいかんじろう)を知っていますか? 大正から昭和にかけて「民藝運動」の中心的人物として活躍した、京都の陶工です。彼は陶芸のみならず、家具や照明、木彫、書などあらゆる「もの」と「ものづくり」に情熱を注ぐ人でした。そんな寬次郎の長年生活していた住居兼工房が、ほとんど当時の姿のまま記念館として公開されています。

寬次郎自ら設計を手掛けたこだわりの建築、バラエティに富んだ作品の数々。京都市内で唯一、一般公開されている貴重な登り窯など、見どころ満載の記念館。その訪問レポートをお届けします。

土と炎の詩人! 河井寬次郎とは?

河井寬次郎は、島根県の港町、安来(やすぎ)の大工の棟梁の家に生まれました。幼い頃に実母を亡くし、幼少期は里親の家で過ごします。中学時代に叔父の勧めで陶芸の道を志し、東京高等工業学校窯業科に進学。そこで陶芸の科学的基礎を学びます。他の学生たちが大会社の技師になることを目指すなか、陶芸家を目指していた寬次郎は異色の存在でした。

河井寬次郎75歳。自宅(現・河井寛次郎記念館)にて

卒業後は、陶磁器の原料や釉薬、技術を研究する京都市立陶磁器試験場で、3年間研究と制作に励みます。30歳の時に五代清水六兵衞が所持していた五条坂の窯場(記念館内に現存)を譲り受け、「鐘溪窯(しょうけいよう)」と名付けました。

本格的に作家の道を歩み始めた寬次郎は、卓越した釉薬技術と独創的な造形力により多彩な作品を制作。「土と炎の詩人」と形容されました。また、柳宗悦(やなぎむねよし)、濱田庄司たちと、“名もなき職人が生み出した日常の道具の中に「用の美」が宿る”とする「民藝運動」を牽引しました。

焼き物の町「五条坂」に佇む寬次郎の旧宅

「河井寬次郎記念館」は、京都駅から清水寺方面のバスに揺られること10分ちょっと、京都観光で人気の京都国立博物館や清水寺から近い「五条坂」にあります。

五条坂は清水焼発祥の地で、古くから焼き物の窯元が集まり、数多くの名工を輩出してきた「焼き物の聖地」。現在も、窯元や陶器を扱うお店が多く、毎年8月には、約400もの陶器店が集結する陶器まつりも開催されています。

そんな五条坂の歴史を感じさせる町家が並ぶ路地に、ひっそりと佇む趣のある古民家が「河井寬次郎記念館」です。

大きな看板は棟方志功の書を、木漆工芸の人間国宝黒田辰秋が彫り上げたもの

細部まで寬次郎好み! いざ、お宅拝見。

がらがらっ。記念館の引き戸を引くと、中にはひんやりとした土間が現れました。玄関から裏口へ抜ける細長い土間は、京町家によく見られる「通り庭」と呼ばれるもの。

昭和12年に建築された河井寬次郎の旧宅は、寬次郎が自ら設計を手がけ、大工をしていた寬次郎の兄をはじめ、故郷島根の職人たちを京に呼び寄せ、約半年の歳月をかけて造られたものです。

石畳の土間を通って受付を済ませると、中庭に面した、明るく広々とした板の間が広がっていました。

飛騨高山をはじめ、日本各地の民家を参考に設計された。素朴さの中に寛次郎の洗練された感性を感じさせる。1階の部屋の一角には、京都の町中では珍しい囲炉裏がある

こちらは、寬次郎が客人の対応をしたサロンのようなスペース。「当時、河井邸はとてもお客さんの多いお家でした。」そう話してくださったのは、当館の学芸員をされている鷺珠江(さぎたまえ)さんです。河井寬次郎のお孫さんで、幼い頃は寬次郎とともに実際にこの家で暮らしていました。

来訪者の中には、「民藝運動」の仲間だった柳宗悦、濱田庄司、棟方志功、 芹沢銈介、バーナード・リーチや当時活躍していた芸術家や文化人の姿もあり、寬次郎と妻・つねは毎日のように客人をもてなしていたそうです。

写真左、柱に掛けられたレトロな振り子時計は、新築時に柳宗悦から贈られたもの。写真右、2階へ上る箱階段。収納としても利用でき、玄関側に面した背面は靴箱として使用していたそう。こちらは濱田庄司からのプレゼント

1階の囲炉裏の奥には、今でいうリビングダイニングにあたるスペースがあります。奥の部屋のテーブルで、家族、時には客人たちも一緒に食卓を囲み、食後は手前の部屋でくろいでいたそう。

寬次郎がデザインした照明や家具、小物でコーディネートされた、調和のとれた居心地のよい空間

2階に上がると、目に飛び込んでくるのが、こちらの障子に囲まれた大きな吹き抜け。

巨大な吹き抜けが上下階の一体感と開放感を生み出している

吹き抜け部分の天井には滑車が付いていますが、これは建築時に資材の搬入用に使われていたものをそのまま残したもの。この吹き抜けのおかげで2階部分はとても風通しがよく、取材日はじっとりと汗ばむ蒸し暑い日でしたが、気持ちの良い風が吹き抜けていました。見学者の方からも「あぁ、いい風だね」との声が聞こえてきました。

2階には、寬次郎が書斎として使っていたスペースと、寬次郎や客人が寝室として使用していた部屋があり、ユニークな造形の木彫や木彫を元にしたブロンズ像などが展示されていました。

手前が寬次郎の寝室。奥の一段上がった部屋は客用の寝室として使われていた

生活と創作の空間を繋ぐ中庭

河井邸の中心には、プライベートな空間と創作の場を繋ぐ中庭があります。

中庭に置かれた丸石。新築祝いに故郷島根の親友が石灯籠を贈ろうとしたところ、寬次郎が「丸い石がほしい」とリクエスト。寬次郎は丸石を中庭の色々な場所に動かしその変化を楽しんでいたが、やがてここを置き場所に定めたそう

「寬次郎はよくこの中庭で作業をしていて、いつもたくさんの作品が並べられていました。その上では洗濯物がたなびいていました。」(鷺)

「鰻の寝床」と形容される、間口が狭く細長い土地に建てられた町家では、中庭は住まい全体の風通しをよくし、すべての部屋に光が入るようにする大切な存在。また、中庭に草木を植えれば、プライバシーを確保しながら自然を感じられ、開放感を得ることができます。
河井邸でも、中庭は邸内全体に心地のよい光と風、そしてゆったりとした空気感をもたらしていました。

中庭には、2畳の小さなはなれが設けられています。中に入ると、窓からは中庭の草木が眺められ、茶室の小間を思わせる落ち着いた空間。寬次郎が仕事の合間に休憩をしたり、思索に耽ったりした場所だそう。

見学者も中に入ることができる。心を休めて、物思いに耽ってみてもよいかも

名工の息吹が感じられる創作空間

中庭の半分から奥が寬次郎の創作スペースとなっています。
こちらは、中庭に面して造られた寛次郎の手による素焼き窯。

ふっくらとしたフォルムの素焼き窯。鷺さんは、「寬次郎好みのデザインの窯」と話された

素焼きとは、焼き物の制作工程で、本焼きの前に釉をかけずに低い温度で仮焼きをすること。素焼きをした後に、釉薬を掛けます。素焼き窯のそばの陶房前には、釉薬を入れていた壺がずらりと並んでおり、寬次郎はここで釉掛けや絵付けなどをしました。

釉薬の壺。多彩な釉薬を駆使した寬次郎は「釉薬の魔術師」とも呼ばれた

中庭を通り抜けると、奥に板の間の陶房があります。中には、足で蹴って使う「蹴ろくろ」が2基。周りには、作陶に使われていた道具が並べられています。寬次郎は、ここで作品の成形をしていました。

陶房も寬次郎の設計。陶房にも人が訪れることがあったので、やや広めのスペースが設けられている

陶房内に展示されている釉薬のテストをした陶片。陶磁器試験場時代は1万種以上の釉薬の研究と試作を重ねた

圧巻! 京焼の歴史を今に伝える登り窯

陶房のさらに奥へと進むと、急に空気が変わるのを感じました。
目の前に現れたのは、巨大な登り窯。

幅約5m、奥行き約15m、8つの室が連なった登り窯。寬次郎は下から2番目の室を主に使っていた。正面にはしめ縄が張られている

登り窯とは、傾斜面に数室の房を連続して築いた陶磁器を焼くための窯。最下部に焚き口、最上部に煙出しがあり、その間に焼成用の室が幾室も設けられています。火は各室の壁に開けられた穴を伝達し、その熱を利用しつつ、下の室から一室ずつ順番に焚き上げます。日本には戦国時代に朝鮮から取り入れられたと考えられ、その後全国に広まりました。

寛次郎が作品を焼成していた、二の間の内部

焼き物の町「五条坂」では、江戸時代から複数の登り窯が築かれ、昭和初期には20基ほどの窯が稼働し、連日どこかの窯から煙が上がっていました。しかし、大気汚染防止法や近隣住民の廃止運動、電気窯の普及のため、昭和後期にその火は途絶えました。

河井邸にある窯は、個人で窯をもたない作家や業者が何軒かで用いた寄り合い窯で、元は陶芸の名家・清水六兵衛のものでした。寛次郎が所有していた頃は、月に一度、窯に火が入れられていました。五条坂には4人1組で仕事をする「窯焚き師」と呼ばれる専門の職人がいて、彼らは窯に火を入れると、温度調節の難しい一の間と二の間を主に担当し、丸3日間交代で絶えず炎を調節したそうです。

「窯に火が入ると、子ども心にもここは立ち入ってはいけない場所と感じました。」(鷺)

耳をすませば、今も燃え盛る炎の音と熱気に満ちた職人たちの声が聞こえてきそうな気がしました。

バラエティ豊かな寬次郎の作品を見てみよう!

陶工として有名な河井寬次郎ですが、その作品は、陶芸だけにとどまりません! 館内では、多岐に渡る寬次郎の作品を鑑賞することができます。

陶芸

まずは陶芸。寬次郎は多作の陶工で、現在京都国立近代美術館に約400点、河井寬次郎記念館、日本民藝館、足立美術館にそれぞれ約200点以上作品が所蔵されており(その他の美術館や個人所蔵のものもあり)、生涯に非常に多くの陶芸作品を残しています。

作風は、初期、中期、後期に大きく分けられ、記念館ではすべての時代の作品を観ることが可能です。実際の展示作品をピックアップしながら、寬次郎の作風の変遷を見てみたいと思います。

【初期】写真左「三彩火鉢」大正12年頃、写真右「紫紅壺」昭和5年頃。デビューした頃の寬次郎は、中国唐・宋時代や朝鮮李朝時代の古陶磁の釉薬や技法を研究しており、その影響を受けた作品を制作した。高い技術力が生かされた優美な作品は、瞬く間に当時の陶芸界で高い評価を得た

【中期】写真左「辰砂筒描碗」昭和24年頃、写真右「白地草花絵大壺」昭和14年頃。大正の終わり頃から日本の伝統と暮らしから生まれる日本固有の美へ回帰し、作風が変化。柳宗悦とともに「民藝運動」を起こし、質朴な「用の美」を意識した作品を多く制作した。また、この時期以降、寬次郎は作品に銘を入れることをやめた

【後期】写真左「鳥(呉須陶彫)」昭和35年 頃、写真右「三色打薬双頭扁壺」昭和38年頃。戦後、寬次郎の作風は「不定形な世界」へと移行していった。 得意としていたろくろ成形だけではなく、型を多用することで、より自由で独創的な造形作品を生み出していった

「碧釉蓋物」昭和38年頃。寬次郎が最晩年に青釉を研究して手掛けた、碧釉を使った作品。神秘的に窯変した碧釉と波打つような有機的な造形が美しい一作

家具

寬次郎は家の設計と同時に、家具調度品の制作に取り組みました。記念館には、寬次郎自らがデザインし、プロの職人に制作を依頼した家具がたくさん配置されています。どれもデザイン性と実用性を兼ね備えた、ユニークなものばかりです。

囲炉裏の横に置かれていた屋根付きの不思議な形の家具。正面には神棚があり、左側は食器棚、右側は飾り棚として使用していたそう。板の間の部屋で、ひと際存在感を放っていた

昭和15年頃にデザインした竹家具。京都の嵯峨竹を使い、台湾出身の竹家具職人に制作を依頼した。実際にタオルなどを入れて使用していたそう。同時期に他にも机や椅子などを竹で制作し、竹家具の展覧会を開催した

写真左、臼をくりぬいて作られた椅子。ずっしりとしているが、キャスター付きで動かすことができる。写真右、座面がフィットして座り心地がよい椅子。丸みを帯びた脚のフォルムもかわいらしい

照明

邸内の照明も、寬次郎のデザインによるもの。建築された時から今まで約80年間現役で使用されています。木と和紙で作られた民藝調の照明は、建築にマッチしていました。

写真左、寬次郎の仕事机の上に置かれている電気スタンド。寬次郎の生前もこの場所で使用していた。写真右、邸内の照明の笠はすべて寛次郎デザイン

木彫

大工の棟梁の家に生まれた寬次郎にとって、木は幼い頃から身近にある素材でした。寬次郎がはじめに木彫に取り組んだのは、家を建築した際に余った材料を使って制作したいくつかの作品。その後、60~70歳の頃に、再び本格的に木彫に取り組み、陶器では表現できない造形に挑戦し、面や木像など100点近い作品を残しています。

写真左「木彫像」昭和30年頃。かわいらしい女児の像。腕の部分の関節は稼働する。写真右「木彫面」昭和35年頃。寛次郎は、面を多数制作している。「面の題材はカメラからもとるし、スクーター、オート三輪、トラックなど、顔を持っているものなら何からでもとれる。」と語っており、身の回りの様ざまなものから着想を得ていたようだ

「木彫像」昭和29年頃。記念館の入口脇で出迎えてくれた、ユニークな木彫作品。手のモチーフは、寬次郎のイラストや陶板、花瓶などの作品にも見られる

これらの作品は、寬次郎が粘土で作った原型を前に置いて京仏師・松久武雄と並び、松久が粗彫をし、それを寬次郎が仕上げるという流れで制作されました。寬次郎は、展覧会で木彫を展示することはありましたが、販売はせず手元に置いていたため、すべて記念館の所蔵となっています。

キセル

キセル制作は、寬次郎が晩年夢中になったもののひとつ。愛煙家だった寬次郎は真鍮を素材としたキセルのデザインも手掛けており、現在記念館には23本所蔵されています。寬次郎が図案を描き、故郷島根の金工職人に制作を依頼しました。

「キセル」昭和30~35年頃。やや大ぶりでスタイリッシュなデザインのキセル。デザインはひとつひとつ異なる。寬次郎は実際に愛用していた

館内のいたるところで、目にする躍動感のある寬次郎の筆跡。寬次郎は若い頃より書くことが好きで、膨大な量の随筆、詩、書などの作品を残しており、寬次郎の精神世界を知る手がかりになります。

「凝念成物」昭和37年頃。「念を凝らして物を成す。」寬次郎は思想や願いを4つの漢字からなる熟語にして、書や陶板などに多く書いている

イラスト

キュートだったのが、こちらのイラスト集。毎日新聞からの依頼を受けて、新聞に掲載するためのイラスト(小間絵)を描いたもので、動物や風景、食べ物など600点ほどの様ざまな意匠のイラストがまとめられています。

実際の原稿はポストカードくらいのサイズの紙に墨で絵を描いて入稿していた

陶芸作品などの展示物は、年に4回(3月、6月、9月、12月)に展示替えされるそうです。

かわいい寛次郎イラストシールをおみやげに!

売店で、かわいい寬次郎グッズを発見! 寬次郎が描いた小間絵48点が和紙に刷られたシールです。鳥、猫、ウサギ、ねずみ、壺、五重塔、アヤメ、カタツムリ……などなど、見れば見るほど味のあるイラストばかり。来館記念のおみやげにぜひ!

河井寬次郎小間絵 和紙シール 4枚セット 600円(税込)

「人」と「もの」の関係性を見つめ直す場所

河井寬次郎の詩『手考足思』に、こんな一節があります。

すきなものの中には必ず私はいる

河井寬次郎記念館は、建築、家具、調度品、日用品など、寬次郎が自ら創作・デザインしたものと、寬次郎の感性で蒐集されたものでいっぱいで、それらひとつひとつに、寬次郎の魂が宿っているような気がしました。

寬次郎の「もの」への情熱は並々ならぬものだったようで、孫が持っていたおもちゃのコーヒーカップを見て、その製作者に思いを馳せ涙したり、河井邸を訪れた作家・井上靖に、地方の陶器などを見せ、「それがいかに豊かであるか」を「一種独特の聞く者の心を吸い上げるような熱っぽい口調で」熱心に語った、というエピソードも残されています。寬次郎にとって、「もの」や「ものづくり」は「もの」を知り、自分を知り、他者を知るツールだったのかもしれません。

河井邸を訪れた日は、自分がいつも使っているお茶碗やお箸を見ながら、それがどのように作られたのか、思いを馳せる自分がいました。

 

河井寬次郎記念館 基本情報

施設名:河井寬次郎記念館
住所:605-0875 京都市東山区五条坂鐘鋳町569
営業時間:10:00~17:00(入館受付16:30まで)
休館日:毎週月曜日 (祝日は開館、翌日休館)
※夏期・冬期休館あり
アクセス:京阪清水五条駅から徒歩10分。JR京都駅から市バス206系統で13分、馬町下車徒歩1分。洛バス100号で13分、五条坂下車徒歩4分。
料金:大人900円、高・大学生校500円、小・中学生300円
公式webサイト: http://www.kanjiro.jp/about/

書いた人

大阪府出身。学生時代は京都で過ごし、大学卒業後東京へ。分冊百科や旅行誌の編集に携わったのち、故郷の関西に出戻る。好きなものは温泉、旅行、茶道。好きな言葉は「思い立ったが吉日」。和樂webでは魅力的な関西の文化を発信します。